6.共有フォルダに残された君へ
小学校の教室で、私はいつも一人だった。
輪になって話す同級生たちの声が、ガラス越しの音のように遠かった。
「亜美ちゃんって、変わってるよね」
悪気のない声で、何度もそう言われた。今ならわかる。あれは、彼女たちなりの優しさだったんだと思う。
馴染めない教室よりも、顕微鏡の中の世界のほうが、ずっと静かで、ずっと雄弁だった。
両親はそんな私を見て、早くに国外の研究機関へ送り出してくれた。極夜期の観測拠点で、来る日も来る日も検体と向き合う日々。凍える手のまま記録をつけ続けたあの時間だけが、唯一、息苦しさから逃れられる場所だった。
だから、私は知らなかったのだ。
自分より年下の誰かに、言葉を失うという経験があるなんて。
ナギに初めて会った日、彼は臆することなく図面を覗き込み、私がまだ言葉にできていない仮説の、その先を口にした。
息が止まった。
――ああ、この子は、私が一人で見てきた景色の、もっと先を歩いている。
あの日から、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
二日ぶりに、彼が戻ってきた。
乾いた空気には、微かな薬品の匂いが残っていた。
扉が開いた瞬間、天井の端末に淡い光が走る。
《AIZAWA NAGI / IGARASHI AMI》
その二つの名前が並ぶたび、私はいつしか、深呼吸のような安堵を覚えるようになっていた。
彼は、相変わらずだった。
細い黒髪は、前髪の中央がわずかに立ち上がり、左右へ流れるように分けられている。灰がかった大きな目は、どこか計測するような鋭さを帯びていた。
制服のシャツの襟元はきちんと整えられ、その上に重ねられた黒のセーターが、体の輪郭を静かになぞっている。
十四歳の身体とは思えない。その整った所作の奥に、訓練だけでは説明のつかない決意のようなものを、私は感じていた。
四月十一日の襲撃。
すべては、そこから始まった。
私が彼と出会ったのは、それから一ヶ月と二週間、さらに二日が経った、五月二十七日のことだ。
以来、私たちはほぼ毎日、端末越しに報告を交わし、検体の記録を共有し、そして時には、沈黙までも共有するようになっていた。
彼が質問をしない日はない。
観察、計測、疑問の提示。どれもが的確すぎて、思わず「本当に十四歳?」と口にしたくなることがあった。もちろん、言わなかったけど。
ただ、言わぬまま、私の中では何かがゆっくりと満ちていった。
研究内容は、最初は断片的だった。
私は主に「思考伝達構造」や「再生起因組織」の解析を担当していたが、初めてナギと出会った日には、緊張のあまり、簡潔な説明さえうまく口にできなかった。
それなのに、彼は一言も急かさず、ただ「興味深い」とだけ返した。
その瞬間、心の中でいくつもの扉が静かに開いたような気がした。
それから私は、資料を整理して彼に見せるようになり、論文を引き写したメモの余白には、いつのまにか「君にも見せたい」という気持ちが染み込んでいった。
ある日、私は思いきって彼に呼びかけた。
「……ナギ、これ、見てくれる?」
そのとき、彼の動きが一瞬だけ止まった。
瞳が、わずかに揺れた気がした。
「……ああ」
静かにそう応えた彼の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。けれど、その奥にはなにか、違和感のようなものが潜んでいた気がする。
その違和感には触れないまま、私は画面に視線を戻した。
それ以来、彼を「ナギ」と呼ぶようになった。
彼がその呼び方をどう思っているのか、私は知らない。
拒まれない限り、私はこの呼び名を続けると決めていた。
私の舞い上がりかもしれないけれど、彼自身も少しずつ打ち解けてくれているのだと感じる。
口調が、だんだんと年相応に砕けてきたのだ。何気ない場面で「なぁ」などと言われると、その度に、鼓動が高鳴ってしまう。思い違いでなければ、いいのに。
国際共同防衛研究機関VELUCTが正式に発表されたのは、五月の末。
ただ、水面下では四月の終わり、私たちが出会ってすぐの頃には、すでに編成が進んでいたらしい。
ナギが病室で佐々木さんから説明を受けた時点では、まだ「未発表」の段階だったという。それが今では、完全な連携体制に移行しつつある。
夏になると加盟国も協力機関も増え続け、私たちは五十一カ国から届くデータに目を通し、条件の一致する検体や、異常な波形を拾い上げていった。
主な任務は、その判別と整理だ。そうして日々は、報告書と共有ログの束になって、積み上がっていく。
残暑の嫌な湿気が残るある日、彼が制服のまま、私の隣を通り過ぎていった。いつもの白衣ではない。連絡もない、突発的な呼び出しだったのだろう。
別件なのだろうか。
声をかける勇気なんてなく、私は見えなかったふりをして、端末を操作し続けた。けれど、指先は熱を帯びていた。
私には研究しかないと思っていた。なのに彼は、別の戦場へ呼ばれていく。それが誇らしくて、悔しくて、苦しくて……それでも嬉しいと、どこかで思っている自分がいた。
端末を覗き込むたび、無意識に彼の所在を探している自分に気づく。
私が彼を気にかける回数に反比例するかのように、彼は何度も、不定期に姿を消すようになった。
記録されない任務。その内容を、誰も語らない。そして戻ってくるたび、彼の瞳には、新しい“静けさ”が宿っていた。私は、その静けさを何度も見た。
ある夜のこと。
彼が研究室で、私の資料を読みながら、ぽつりと呟いた。
「……よく書いてあるな、これ。俺にはない視点だ」
その言葉が、やけに嬉しかった。
お礼も言えないくらい、胸の奥がじんとした。
……私は、きっと。
彼に、恋をしていた。
ただ、それをはっきり自覚するには、もう少しだけ、時間が必要だった。
秋が近づく頃、VELUCTとの連携はさらに密になった。
海外拠点とのセッションにも呼ばれるようになり、多言語での報告や質疑にも慣れてきた。
それでも、誰かが彼の名を「アイザワ」と呼ぶたび、胸の奥に薄いしこりのような感情が残った。
彼は、すごい。
でも、私だけのものじゃない。
そんな当たり前のことが、苦しくてたまらなくなるなんて、思いもしなかった。
私は、今日も記録を残す。
彼が戻ったとき、すぐに伝えられるように。
解析済みのデータと伝えきれなかった想いを、ひとつひとつラベル付けして、今日の日付とともに、そっと並べておく。
――研究の形をした、手紙のように。
【ファイル名:AIZAWA_LOG_0929】
提出先:AIZAWA_N / VELUCT共有フォルダ(優先)
備考:可能であれば本人へ直接説明したい。理由は記載省略。




