5.呼吸の止まる街で
車体が小さく揺れるたび、装甲の軋む音が耳に微かに触れる。
佐久を発ってから、すでに数時間が経過している。目的地、熊谷はもう遠くない。
戦略的地上移動要塞、E-Suite
研究者用に改装された中型の装甲母艦の内部は、昼夜のない灰色の光に満たされていた。
無数の計測機器が壁面を埋め、静音冷却ファンの回転がまるで呼吸のように断続的なリズムを刻んでいる。
その中央、俺は一枚のタブレット端末を睨んでいた。
そこには、逆信号照射装置、Phractureの起動準備ログと、佐久・高崎・熊谷を結ぶ三点座標のリアルタイム通信が並んでいる。
だが、目の奥には、ずっと別の映像が焼きついていた。
ナミ。
黒い舌に巻かれ、静かに“向こう側”へ引かれていった、あの時の映像だ。
再生されることのない記録映像のように、そこには音も、重さも、時間の流れすらなかった。
空気が軋み、世界が沈黙に変わった瞬間。
名を呼んだか。叫んだか。心の中だけか。もうわからない。
ただひとつ、確かなことは、ナミはもうそこにはいなかった。
その記憶に触れた刹那。
走行中のE-Suiteの前方ウィンドシールドに、黒い影が一体、ゆっくりと姿を現した。
“TARAK-X”
あの日の異形だ。
それはゆっくりと、だが確実に移動していた。
一歩、一歩と移動するたびに地響きが鳴る。
滑膜のような外殻が、かすかな光を歪ませ、四肢が明滅する都市の灯りに溶け込んでいく。
だがその足元には、崩れた建材と、煙を上げる車列――周囲の街区は無残にえぐられ、破壊の断面を晒していた。
その姿は、まるで「ただそこにいる」だけで、世界の秩序が崩れるかのようだった。
呼吸が、数秒間、止まった。
ナミの消えた夜が、脳の奥底から這い戻ってくる。
(目を逸らすな)
無言で、自分に命じた。
舌がナミに触れた時、世界が終わった。その終わりの瞬間を、いま、再び追体験するようだった。
吐き気と共に込み上げてくる衝動。それでも、俺は端末のタッチパネルに指を戻した。
しかし周囲では、別の騒がしさが広がっていた。
地響きの影響なのか、ユニットの外装が予定通りに展開せず、技師がカバーを蹴って固定具を叩き込んでいる。
電源ラインが一瞬不安定になり、誰かが「ブレーカー落ちるぞ!」と叫ぶ声が上がる。
砂塵に巻かれながらも、技術者たちは冷静と混乱の狭間で手を動かし続けていた。
その全てが、遠くに聞こえた。
世界の輪郭が、過去の光景と重なって滲んでいた。
「Phracture、干渉ユニット設置完了。照準アンカー、展開開始」
車列の周囲では、夜を切り裂くように複数の支援車両が走っていた。
機器が地面に打ち込まれ、干渉のための座標が次々と形成されていく。
Phractureは、交渉ではない。
反論というには、あまりに冷たい。
“存在”という暴力に、“形式”という答えを返す装置。
「現地制御、五十嵐亜美移動開始。E-Suiteより分離、補助母艦へ」
スピーカーからの音声に、わずかに頷く。
亜美は別ユニットに移り、前線で制御を担う。俺は司令ユニットに留まり、Phractureの制御中枢を握る。
「Phracture起動、カウントダウン開始。出力レベル、第三域へ」
金属的な音が低く、しかし鮮明に響く。
光波、音響波、生体信号が同時に束ねられ、TARAK-Xの感覚構造への干渉が始まる。
――だが。
起動から数秒後、主制御画面に赤いエラーが走った。
《SYNC ERROR : 構造共鳴未到達》
《FEEDBACK DETECTED》
装置の一部から火花が飛び、制御盤が過負荷で黒く焦げた。
「干渉失敗。同期波形に戻りがあります。Phractureはノイズを受信しています!」
誰かの声が、硬直した空気を引き裂く。
眉がわずかに歪む。
TARAK-Xの構造が、Phractureの波形を拒絶している。
あるいは――理解した上で、押し返してきた。
その瞬間、回線に別の声が割り込んだ。
「ナギ、聞こえる?」
亜美の声だった。静かで、そして確かだった。
「TARAK-Xの中心振動が変化してる。相転移直前……だけど、制御できる。
電磁応答が微かに残ってる。信号修正、間に合うかもしれない」
後方の研究チームが即座に応答する。
「生体フォトンのスペクトル変化を検出。パターン割り出し、位相差から再干渉可能!」
「Phracture波形、調整値入力完了。再起動、いけます!」
無言で制御パネルに触れる。
修正済みの信号が、静かにTARAK-Xへと向けて放たれる。
夜そのものを貫くように、装置からの干渉波が伸びていく。
逆信号照射装置、Phractureが、ようやく俺の内側にあった叫びに、応え始めた気がした。
そして。
黒い“それ”の外殻が、ふいにわずかに沈んだ。
光を放たず、音もなく。
膝を折るでもなく、破壊されるでもなく。
TARAK-Xは、ただ動かなくなった。
電源を断たれた人形のように。
世界から引き剥がされた影法師のように。
沈黙が、全てを包んだ。
俺はタブレットを見つめたまま、一度だけ深く息を吐いた。
ナミは、まだいない。
その言葉だけが、まだ俺の中にあった。
彼女がいない、という事実が、どこにも行き場を持たないまま残っている。
夜は、変わらずに続いていた。
――呼吸の止まる街で。




