七
佐古下の自宅はさいたま市内にある高層マンションである。八十科という時代錯誤な執事と共に暮らしている。その八十科には妻子がおり、その妻子共に天見家それぞれの執事をしているから年季が入っている。
もはやそれは彼らの伝統なのであろう。一種の文化がそこに根付いているのである。それはそれで興味深い事実だった。だからといって踏み入りたくはない領域である。
人は平等である。などというのは詭弁である。人どころか、そもそも世の中全てのものは不平等であることで保たれている。戦争が無くなることはないし、全員一律幸せになることは有り得ない。地球上の幸せの総量は変わらない。誰かが幸せを得るためには単数、もしくは複数の幸せから分配されてそれが単一の幸せとなる。幸せな状況とは何かと必ず比較になるからだ。
だが、世の中の人間はそれでも、いやそれを知りながら尚幸せが搾取であることを現実視せず夢を見る。政治家が夢を語っていれば、人はそれに賛同し票を投げる。だが政策のほとんどは世の中の人を幸せにできない。
大半の人間が有り難みを感じれば、マイノリティは大きな負担を強いられることになる。日本は民主主義であるが、資本主義でもある為、少ない人間の悲しみには目を瞑るのだ。否、瞑ることなく他に視線を向けているかもしれない。
「先生」
佐古下は久しぶりに口を開いた。
「何?」
霜村も自分も思考を巡らせていたことに気づいて、それを遮断した。
「私、先生に助けられました。まだお礼を言っていません。ありがとうございました」
佐古下の目は俯きがちに下を向いているようだった。
「助けてはいない。いずれにせよ彼は君を解放していたと思うよ。あそこを死に場所と定めていたみたいだからね」
「結局頑張って推理して、探偵の真似事をして、誰も助けられませんでした」
「何故君が責任を感じるんだい?」
「だって私は……そう、ですね」
「人の命は人一人分だ」
「え?」
「自分は単一、一人だ。社会性を持つ生物に違いないが生は単一の個体にのみ宿る。人の命一人分の責任は自分にしか持てないよ。君が責任を感じること自体おこがましいと思うね」
「先生って、本当に辛辣ですよね」
「そうかな?」
「ええ。まあそれが先生らしいんですけど」
佐古下は目を細めて微笑んだ。
「君さ」
「はい」
「その、もう僕は君の教師じゃないんだから、先生って呼ぶのは辞めて貰えないかな?」
「じゃあ何とお呼びすれば?」
「僕の苗字は霜村だ」
「分かりました。輪人さん」
「そっち?」
「だって霜村姓で呼ぶのはその姓を持つ方全ての呼称ですけど、下の名前はその人単一のことを指します」
霜村は信号待ちでカムリをゆっくり停めると、ステアリングから手を離して佐古下へ振り向いた。
一瞬ため息をつこうとした。しかしそれは失敗し、息を呑むことになる。そこにいたのは月明かりではない街灯に照らされて白く輝く女性だった。
止めた息を一気に吹き出して、霜村は笑った。
佐古下は分からない、という表情を浮かべてその後霜村と同じように笑った。
今このときだけは、世界のどこかの幸せをほんの少しだけもらった気がした。




