第9話「古代ウルトラマラソン」
神聖隊の長距離走競技会は、夜明けとともに始まった。神聖隊の訓練兵を取り仕切るディオスドトスの号令の下、一斉に走りだす。彼らが目指すのは、遥か470スタディオン(約90km)西に位置するデルポイの神殿だ。
出走した神聖隊の兵士達を、テーバイ市民が見守る。朝早いと言うのに、老若男女が多数集まっている。
90km程度なら、マラソンやウルトラマラソンの大会に参加した事のある読者の諸姉諸兄なら、確かにキツイものの、体を鍛えた者ならば可能な距離と思うだろう。しかし、この時代に長距離ランナー用の、運動に適したシューズなど無い。皆裸足で走っている。
オリュンピア祭で戦う時と同じく、自らの力のみで競技に臨むのである。
と言う訳で、当然全裸である。下帯一つ身につけない、真っ裸である。
とは言え、猥褻さは一切感じさせない。古代ギリシア人が信仰と呼べる程までに磨き上げた、鍛え上げた肉体に対する美意識が、今ここで発露している。
競技に臨んでいる神聖隊の兵士達は、まだまだ新米ではあるが、日々の訓練でその全身を磨き上げている。その肉体は、朝日の光を浴びて輝き、うねり、躍動する筋肉は眩い限りだ。
そして、肉体のみならずその精神も輝いている。彼らがこの競技で勝利したところで、賞金が出たり給料が上がる訳ではない。ただ、名誉が与えられるのみだ。
だが、それはただの名誉ではない。この長距離走は個人の順位のみで決するのではなく、ペアを組んだ二人の順位で決まるのだ。そしてその二人の男達は、皆恋人同士である。
愛し合う二人の力により勝利を勝ち取る事は、この世の何よりも尊いものだ。その事は見守るテーバイ市民にも分かっている。だからこそ、早朝から応援しに出てきたのだ。古代ギリシア社会では、男同士で愛を育むことは忌避されるものではなかったし、その素晴らしさはこの時代の有名な哲学者であるプラトンの著書でも語られる所である。テーバイ市民は皆、純粋な気持ちで応援していた。
「キャー! がんばってー!」
「ステキー!」
……黄色い歓声上げる者達もいた。テーバイの若い娘達だ。
オリュンピア祭では全裸で競技をするのが常識だと記述したが、それに参加できるのは男だけである。女性は観戦する事も許されない。理由は裸体だからというだけでなく、男神であるゼウスに捧げる競技であるからと言われている。
まあ、理由は何にせよ古代ギリシアの女性が、裸体の男達が運動競技をするのを見るのは、極めてまれだということだ。今回は特に制限が無かったので応援しているのだが、珍しい光景を見たのでこの様な反応が出るのも仕方がないだろう。純粋に戦う男の心意気を理解していないと、非難するのはお門違いだ。
また、神聖隊の兵士達は鍛えられた美しい肉体をしているのもあるが、彼らは皆眉目秀麗な若者ばかりである。少しばかり黄色い歓声を上げても仕方の無い事だ。
更に、神聖隊の兵士達は全員男同士のカップルである事はテーバイの若い娘達は全員知っている事だ。だから、声を上げて関心を引こうなどという不心得者は誰もいないのだ。この点を考慮すると、彼女らは純粋な心で応援していると言っても過言では無い。
まあ、実は彼女らは古代ギリシアの腐女子であり、若い男同士の恋人たちが裸体を煌かせて走っている光景を、腐った目で見ている可能性も無きにしも非ずなのだが、これは考えないでおくのが幸せというものだ。
さて、長々と述べたが、神聖隊の兵士達は皆、風の様に走り出した。彼らは日頃から筋力トレーニングの合間に駆け足をして鍛えている。また、中にはオリュンピア祭に出場する候補にすらなるアスリートも混じっている。その様な彼らの走る速度は並大抵のものではない。
裸足であっても、それは彼らが運動するときには当たり前の事であり、決して妨げになるものではない。純粋にタイム自体は現代人のアスリートの方が格段に上であろうが、裸一貫で比較したのならば、あらゆる悪条件に打ち勝つ剛健さは古代ギリシア人の方が上であろう。
そんな彼らの先頭を行くのは、テセウスとクレイトスの組みである。
テセウスは長距離を走るドリコス走で、オリュンピア祭の候補になるほどの逸材だし、クレイトスはそのテセウスを幼い頃から教え導いて来た男だ。彼らの走力は他の者達を圧倒している。参加者の内、デミトリアスは運動のトレーナーとして総合的な運動能力ではテセウス達に勝るが、走力では勝ち目が無い。
そしてデミトリアスと、彼のパートナーであるシシュポスは、最後尾を走っていた。
この二週間でシシュポスは、見違えるほど鍛え上げた。元々瘦せぎすだった体には、うっすらと筋肉が重ねられ、脂肪が少ないために彫刻の様な美しさだ。
しかし、流石に二週間の訓練では他の者達に追いつけなかったのだろう。皆がどんどん速度を上げて走り去っていくのに、それに追いつけずにずっと変わらぬ速度で走り続けている。
デミトリアスだけなら、テセウスとクレイトス以外を追い抜いてゴールする事が可能だろう。だが、今回のルールではそれは無意味な行為であり、シシュポスは最下位なら、デミトリアスも同じく最下位担ってしまうのだ。
だが、デミトリアスはそんな事は気にすることなく、シシュポスのすぐ後ろを、「1、2、1、2」と掛け声を出しながら淡々と走るのであった。