婚礼
――鐘が鳴っていた。
人間の国で聞き慣れたものより、少し低い音だった。
厚い石壁にぶつかり、天井の高い聖堂をゆっくりと震わせる。
その音を聞きながら、アルバート・シュミットは白い裾を踏まないように歩いていた。
普段より歩幅を狭くする。
背筋を伸ばす。肩を張らない。顎を上げすぎない。
――何度も教えられた通りに。
今日の自分は、勇者アルバート・シュミットではない。
人間の王女、エレオノーラ・フォン・ハイデンベルクだ。……少なくとも、この場にいる者たちにとっては。
左右に並ぶ参列者の多くは魔族だった。
角を持つ者。長い耳を持つ者。人間とほとんど変わらない姿の者もいる。
少し前まで、戦場で見れば剣を向けていた相手たちだ。
今は誰も武器を抜かない。和平が結ばれたからだ。
百年近く続いた、人間と魔族の戦争。
その終わりを保証するため、人間の王女が魔王へ嫁ぐ。
……それが今日の婚礼だった。
聖堂の最奥に、一人の男が立っている。
黒い正装。黒髪は短く整えられているが、襟足だけがシャツの襟に触れている。人間よりわずかに長い耳。
――魔王、ヴァルター・アルヴェイン。
顔を見るのは初めてではない。むしろ、よく知っていた。
戦場で三度、殺し合っている。
肩を裂いたこともあれば、脇腹を焼かれたこともある。互いに決め手を欠いたまま、戦線の都合で引き離されたこともあった。
あの男がどの距離から魔術を放つか。剣をどう振るうか。こちらの踏み込みにどう合わせてくるか。
……そういうことなら、知っている。
だが、正装した姿を見るのは初めてだった。
戦場では、魔王が立っていればそこは危険な場所だった。目が合えば、次に来る攻撃を考えていた。
アルバートは白いドレスを着て、その男のところまで歩いている。
魔王は剣を抜かない。アルバートも剣を抜かない。
あと十歩。まだ届かない。
九、八、七歩。ここからなら、聖剣を呼び出しても初撃は防がれる。
六歩。五歩。ヴァルターなら、おそらく右へ捌く。
四歩。三歩。今なら届く。
二歩。
だが、今日は殺さない。
一歩。
……アルバートは足を止めた。そして、練習した通りに笑った。
「お初にお目にかかります、魔王陛下」
ヴァルターがアルバートを見た。当然、その目に敵意はない。
目の前にいるのが、自分と三度剣を交えた勇者だとは思っていないのだから。
「ヴァルター・アルヴェインだ」
低い声。戦場では怒号と剣戟の向こうから聞いていた声だ。
魔王が手を差し出す。
この手が剣を握るところを知っている。魔術を放つところも知っている。アルバートの首を狙ったこともある。
その手が今は、王女を迎えるために差し出されている。
魔王は何も知らない。少しだけ、面白かった。
アルバートはその手を取った。
胸の奥で、心臓が一つ鳴る。
そのすぐ上。
ドレスの下に隠された勇者の紋章には、聖剣が眠っている。
……必要ならいつでも呼び出せる、魔王を殺すための剣。
――アルバートがここへ来た、本当の理由だった。
*
「あなたが死ぬ可能性が高い作戦です」
王城の一室。
そう言ったエレオノーラは、随分険しい顔をしていた。
アルバートは椅子に座ったまま、これから自分が成り代わることになる彼女を見ていた。
「魔王も死ぬ」
「魔王の話をしているのではありません」
「分かってる」
「分かっていません」
エレオノーラには即答された。
アルバートは少し考える。
今回の任務は危険だ。それは理解している。
和平の証として魔族領へ入り、王女として魔王の妻になる。近くで様子を探り、確実に殺せる機会を待つ。
成功した後、生きて戻れる可能性はほとんどない。魔王を殺した直後に魔族の国の中心から逃げるのだから、当然だろう。
……けれど。
「俺がやるのが一番いいんだろ?」
そう尋ねると、エレオノーラは口を閉ざした。代わりに、窓際に立っていた男が答える。たしか公爵だったはずだ。
「成功率だけを考えれば」
「なら、やる。正面から戦う方が好きだけど」
……それは本当だった。
騙して近づくより、剣を持って向かい合う方がいい。
魔王とは、そうして戦ってきた。
だが、好きな方法ではないことと、やらないことは別だった。
「必要なんだろ」
公爵が続けた。
「はい。歴代の中でも魔王ヴァルターの力は飛び抜けています。彼を排さなければ対等な和平の道はありません」
エレオノーラはアルバートに尋ねた。
「私に成り代わり嫁ぐなど、どう考えても無理があるでしょう。できるのですか?」
アルバートは黙った。エレオノーラの癖。
歩きはじめは右足から。体重移動の際重心をわずかに右に寄せる癖がある。
「所作の模倣はできる」
公爵が喜色を浮かべた。
「よろしい。長くなればボロが出るかもしれませんが、どうせ暗殺すれば終わりなのですから構いません」
「あなたはどう思っているのですか?」
エレオノーラが尋ねる。
魔族が信用できるか。魔王を殺すべきか。暗殺という手段を取るべきか。
……そういう意味だろうか。
「魔王は強い」
「……はい」
「あいつがまた戦うって決めたら、人間側の被害は大きいと思う」
「そうではなく」
エレオノーラはそこで一度言葉を切った。
「あなたは、それをしたいのですか」
アルバートは首を傾げた。
「必要なら、するけど」
エレオノーラが目を閉じた。
何か間違えたらしい。だが結局、任務は取り消されなかった。
――だからアルバートはここにいる。
*
長い儀式だった。人間側と魔族側、それぞれの形式を混ぜているらしい。
誓いの言葉を交わし、杯を交わし、互いの名を呼ぶ。
「エレオノーラ・フォン・ハイデンベルク」
「はい」
「ヴァルター・アルヴェインを伴侶とし、両国の和平を共に支えることを誓うか」
「誓います」
……嘘ではない。和平が続くなら、その方がいい。
ただ、そのために魔王を殺す。それだけだ。
隣を見ると、魔王は真っ直ぐ前を向いていた。
「ヴァルター・アルヴェイン」
「ああ」
「エレオノーラ・フォン・ハイデンベルクを伴侶とし、両国の和平を共に支えることを誓うか」
「誓おう」
戦場では聞いたことのない声音だった。静かで、迷いがない。
アルバートは少しだけ横目で見る。……この男も、和平を望んでいるのだろうか。
とはいえ、魔王は脅威だ。魔王がいる限り、人間は安心できない。
だから殺す。
任務を受けるには、それで十分だった。
鐘が鳴る。参列者たちが頭を垂れる。
――こうして、人類の勇者アルバート・シュミットは。
王女エレオノーラ・フォン・ハイデンベルクとして、魔王ヴァルター・アルヴェインの妻になった。
*
「疲れただろう」
式が終わり、ようやく人目のない部屋へ通された後、魔王が最初に言ったのは、それだった。
「いいえ、この程度なら問題ありません」
反射的に答える。
「そうか」
部屋は広かった。
人間向けに整えられているようで、家具の高さも王都のものと変わらない。
アルバートは室内を見回す。
窓が二つ。廊下へ続く扉が一つ。奥にも扉がある。
窓から地上までの高さは、おそらく三階程度。
飛び降りることはできる。
「エレオノーラ」
「はい」
呼ばれて振り返る。
……危ない。まだ、この名前に慣れていない。
魔王は気づいた様子もなかった。
「先に話しておくことがある」
「なんでしょうか」
「この婚姻についてだ」
アルバートは姿勢を整えた。
魔王は少し離れたところに立っている。戦場ならば遠い。
「和平の保証として、お前と俺は夫婦になった」
「はい」
「公の場では、それらしく振る舞う必要があるだろう」
「承知しています」
「だが、それ以外まで夫婦である必要はない」
アルバートは瞬きをした。
「……はい?」
「部屋も別に用意してある。ここはお前の部屋だ。俺は勝手に入らない」
「そうなのですか」
意外さを滲ませた返答をすれば、魔王が眉を寄せた。
「何か問題でも?」
「いえ」
アルバートは少し考えた。
王女として嫁いだ以上、そういうことも任務に含まれると思っていた。
「必要であれば、私は構いません」
ヴァルターが黙った。
「……何か?」
「いや」
魔王の眉間に皺が寄っている。
「必要なら構わない、という話ではない」
「はい」
「お前が望むかどうかの話をしている」
「はい」
「…………」
「?」
魔王はしばらくアルバートを見ていた。やがて小さく息を吐く。
「なら聞くが。お前は俺と同じ部屋で暮らしたいのか」
アルバートは考えた。
同じ部屋にいた方が、相手の行動を観察しやすい。寝ているところも狙える。
暗殺という意味なら、その方が都合がいい。
「その方が都合は」
「そういう話ではない」
遮られた。アルバートは口を閉じる。
魔王は額を押さえていた。
「……もういい。今日は疲れているんだろう」
「疲れてはいません」
「そういうことにしておけ」
「はい」
……よく分からない。戦場ではもっと話の通じる男だった気がする。
攻撃すれば防ぐ。防げば次を打つ。それ以外のことは何もなかった。
今はどうやらそうではないらしい。
「明日、城内を案内させる」
「案内?」
「ああ。お前は今後ここで暮らすことになる。立ち入りを禁じるのは軍事区域だけだ。それ以外は好きにして構わない」
「……自由に?」
「そうだ」
アルバートは少し驚いた。人間の王女なのだから、もっと監視されると思っていた。
「侍女も人間側から連れてきた者をそのまま置く。必要なものがあれば言え」
「分かりました」
「それと」
魔王がこちらを見る。
「ここでは、お前は人質ではない」
アルバートは目を瞬いた。
「婚姻の始まりが政治的なものであっても、お前を人質のように扱うつもりはない。ここでは俺の妻として遇する」
「はい」
「……本当に分かっているのか?」
「分かっています」
魔王はまた何とも言えない顔をした。
……やはり、何か間違えているらしい。
けれど今は、それより気になることがある。
戦場で知っていた魔王と今、目の前にいる魔王は同じ男のはずだった。
剣の間合いも、魔術を放つ癖も、こちらの攻撃への返し方も。
魔王を殺すために必要なことなら、随分知っているつもりだった。
……けれど。
「どうした」
「いえ」
知らないことが、思ったより多いらしい。アルバートは王女らしく微笑んだ。
「これからよろしくお願いいたします、陛下」
「ああ」
魔王はそれ以上追及しなかった。この男を知り、信用を得る。
――そして、確実に殺す。
それが勇者アルバート・シュミットに与えられた、新しい使命だった。
はじめて一次創作かきます。AIとチャットしながらかいてたらデータ消えて泣いた




