第九話 プライド
内覧会
医院開業の前に行われるもので、近隣の住民の皆様に向けて、開業の挨拶と建物の内覧、医療機器の紹介など行うのだ。製薬会社の営業マンがこぞって手伝ってくれるのもありがたい。
県立病院の内科部長の開業だと、知らないうちにこの辺の噂になっていたようで、近隣住民の期待値が高いためか、たくさんの人が訪れた。中には、犬上先生の大先輩で、既に開業してらっしゃるベテラン先生も、その内装や、扱う医療機器に興味深々の様子で来ていた。
すると、そのベテラン先生が私に、
「犬上先生のクリニックだと、この待合室では狭すぎるじゃない?あっという間に椅子が足りなくなるよ」
と、言ってくれた。私の新規開業の不安を一気に吹き飛ばしてくれる、ありがたい言葉だった。
「内覧会にこんなにたくさんの人が来るのをはじめて見ました」
と、内覧会の手伝いに来てくれた製薬会社の営業マンも、そう言っては、私たちの気持ちを担いだ。
11月22日
いよいよ開業の日を迎えた。11月22日は「良い夫婦の日」だからだ。いささかくだらなく思われるかもしれないが、当人たちはいたって真剣に、この日を開業の日に選んだのだ。
私も、十数年ぶりに白衣を着た。看護師として働いたのは大学を卒業してわずか3年間だけ、そのあとはホステスだったため、キラキラしたドレスを着るより白衣を着ることのほうが、気恥ずかしい…、いや、「着恥ずかしい」のだ。
一番最初の患者は、70代の女性だった。住所はこのクリニックからずいぶん遠いのに、犬上先生が開業したと聞きつけて、一番に来院した。
「私ね、ずっと、もう何十年も犬上先生に診てもらってるのよ」
と、聞いてもいないのに採血の時に自慢げに話し始めた
「だからね、あなたたちよりもずっと付き合いが長いの。」
と、ババアの得体のしれないマウンティングに若干イラっともしたが、ここは「医療もサービス業」と、自分に言い聞かせ、ホステス時代よりも、数百倍接遇に気を使った。
やはり、犬上先生の県立病院時代に診ていた患者さんが、犬上先生を追いかける、言わば「犬上ファン」が来院しているようだった。中には交番で場所を聞いて、おまわりさんに案内されて来た患者さんもいた。初日にしては50人と上々の来院数で、「良い夫婦の日」を終えることができた。
「お疲れ様です。犬上先生」
「お疲れ様、犬上看護婦長」
犬上先生も、もちろん私も、「順風満帆」という四字熟語がしっくりくるものだと、この日は疑わなかった。
医院開業の最初の2ヶ月は患者が何人来ようが無収入なのだ。それは診療報酬は2ヶ月後に支払われるからであり、11月22日開業だと、2ヶ月後の1月に振り込まれる診療報酬は11月22日から11月末日まで僅か1週間分。とすれば、まるっと3ヶ月はほとんど収入がないのだ。
「犬上ファン」の来院がほぼ一周回って、来院患者の数はイマイチ増えない…3ヶ月ほぼ無収入の上、患者数が伸びないことに、私は凄く焦っていた。勤務医の妻だった時は、通帳の残金など気にも留めなかったが、今はドカッ、ドカッ、っと音がして通帳の残金が減っていくのだ。「順風満帆」という言葉などあっと言う前に掻き消され「波瀾万丈」「前途多難」の言葉が湧いてきた。私達の船が座礁寸前だった。
開業して5ヶ月、患者もまばらなクリニックに四つ葉ハウジングの白石支店長が現れた。
「あ、奥さま、ご無沙汰しています。建物のことで何か困ったことありませんか?使ってみてから、色々なことが気になったりするものですから」
「白石さん、あれ?お痩せになりましたか?何か雰囲気が変わった様な」
と、ついついホステス時代に身についた社交辞令的な言葉が湧いてきた。でも一瞬、白石さんの少しの変化は本当に感じていたのだ。
「奥さま、実はわたくしこの度独立しまして、こういう者になりました」
そう言って、デザインを凝らした名刺を渡たされた。
「建築コンサルタント?Guard?」
「そうです。実は学生時代バスケットやってまして、身長低くてガードやってたんです。ま、存在は小さくても、大きな選手を動かして攻撃を組み立てる司令塔の役割と、この仕事と似ている様な感じがして…犬上先生のこの建物に関わらせていただいて、独立する自信がつきました。」
「へぇ〜おめでとうございます、これからは支店長改め社長ですね。」
「奥さま、何かお困りのことはありませんか?」
そう聞かれて、思わず私は、
「白石さん、実は、来院の患者さんの数が伸び悩んでいて…」
心の底からの言葉が思わず出てしまった。
「わかりました、わたくしトータルでコンサルタントしてるんで、少し預けて下さい」
そう言って、挨拶もそこそこに立ち去って行った。
「おはようございます」
受付が入ってきた患者さんに挨拶をした
「あの〜、風邪をひいたみたいで熱があるんですけど、診てもらえますか?」
「?。はい、もちろん大丈夫ですよ」
と不思議そうな顔を隠さないまま受付が答えた。
「建物がレストランみたいで、病院に見えなかったので…」
と。確かに、建物の外観は、よりキャッチーな感じに、と設計はこだわったのだ。まさか病院に見えなかったとは。私にとっては嬉しい評価だと呑気に喜んだ。
後日、白石さんが再度訪れた。
「奥さま〜、少しお話が」
そう、かしこまって、私は白石さんをミーティングルームへ招いた
「少し、ご近所でアンケートをとって参りました。結果、これは私どもが建てた設計のせいかもしれませんが、建物がオシャレすぎて病院と認知されていないようです、もっと分かりやすく大きい看板を立てましょう、コレは私がご開業のお祝いに無償でやらせて頂きます」
「あ、そういえば…」
数日前に、レストランかと思ったと言って入ってきた患者さんもいたな、とそのアンケート結果に合点がいった。
「あと…、駐車場がいつもガラガラで、逆に入りづらい、というお話もありました。スタッフさんの車をランダムに数台停めて置くのはどうでしょうか?」
なるほど、人の心理は難しいのだ。
「わかりました。犬上にも話しておきますね。ありがとうございました、助かりました」
私は心の底から感謝し、その話を犬上先生に伝えた。
「ふーん」
犬上先生は少し不機嫌そうに、そう反応した。
「でもね、僕はこのままでいいんだよ、つばめちゃん」
彼の「でもね」が凄く引っ掛かった。彼はそのまま何も言わなかった。
とは言っても、大きめの看板は、白石社長のご好意で建てて頂いた。
「白石さん、ありがとうございます。本当に助かりました。」
「白石さん、ご好意に感謝します」
犬上先生も御礼を言った。
「先生、スタッフさんの車の置き方ですが…」
そう、白石さんが言いかけたところで、私が慌てて静止した。
「あ、そのお話ですが」
と、犬上先生が淡々と話し始めた
「僕は、駐車場の車については、何もするつもりはありません。僕は、「僕に診てもらいたい」患者さんが来てくれればいいんです。何もあたかも車が停まってるようにスタッフの車を使ってまで繕う必要はありません。いつも駐車場がガラガラで入りづらいっていう人なら、最初からいらないんです。」
そう、言ってのけた。私は心の底から後悔した。犬上先生はそういう人なのだ。なぜ、この人をもっと信じてあげれなかったのか、目の前のお金の支払いに追われ、勝手に焦って、目の前の医者の実力を見ていなかった事、そしてそういう私のスタンスが、彼を傷つけてしまったのではと。
「先生、でしゃばった事を言ってしまい、申し訳ございませんでした」
深々と謝ったのは、私よりも先に白石さんだった。白石さんも私と同じ事を思ったようだ。
私は、お金が減っていくことに焦り、犬上先生を信じてあげれなかった。犬上先生が思う存分自分の「医療」ができるよう、私も、もう少しどっしり構えなきゃダメだと考えを改めた。
犬上先生の医師としてのプライドは、私には本当に高く眩しく、でも絶対に崩してはいけない、大事なものだと感じた。
「先生、もし破産したら、どこかの離島とかで診療所でもやりましょうか?」
「つばめちゃん、いいね〜、大丈夫だよ。僕はどこでも医者なんだから」
そう、ケラケラ笑った。