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91.見てはいけない


 目を覚ますと、隣に寝ていたはずのアストルの姿はもう無い。夜が明ける前に別邸に帰ったのだ。

 魔法陣を行き来するところを見られてはいけないから、仕方ない。分かっている。分かってはいるのだ。でも。


 でもでもでもと唱えながら、寝間着を脱いだ。暖炉の火は熾してあったけど、やっぱり少し寒い。

 今日はどこに行く用事も無い。

 とっとと仕事着をまとって、伸びかけの髪を雑にまとめる。かつらは置きっぱなしだ。毛むくじゃらの生き物がぐったりしているみたいで、見るたびぎょっとするけど、あれだ、暮らしの彩りということにしておこう。

 そうして、朝食を済ませたら、今日も今日とて仕事である。


 今日は――そうだ、そろそろ色を付け始めるところだ。


 気が逸って、情事の余韻はどこかへ行ってしまった。薄情な愛人でアストルにはすまない。


 絵を描けるのは、それだけで嬉しい。でも、思い入れのあるモデルを描く時はひとしお嬉しいものだ。

 今はコルトー侯爵夫人を描いている。侯爵と対になる肖像だ。

 美しく聡明で曲者。最高ではないか。

 本当は、ジェラルディンの肖像の時と同じく、筆を持つ手が震えそうなくらい緊張している。でも、楽しいのも本当だ。だから目いっぱい楽しむ。


 わあああい。


 ともあれ。

 コルトー侯爵夫人の肖像は、塗り始めたばかりなのだ。

 まだまだ先が長い。まだまだ楽しめる。楽しい。


 下地塗りしたキャンバスに、薄めた茶色の絵の具を載せていく。

 作業が進むにつれて、キャンバスに漂う影のようだった夫人の姿が、重さを持ち始めた。

 そうしたら、筋肉の流れに沿うように、夫人の姿に緑や紫をべたりと塗る。

 粗いなりに調和していた画面が、躍る色彩に乱れる。この不調和こそが命となって、塗りこめた肌色の下で脈打つのだ。

 そんなのは気のせいと言う先生もいたけど。

 私は塗るのだ。

 塗りたいからね。

 それに、剝き出しの命、魂のようで、私はこの下塗りの画面が好きなのだ。やがて塗りつぶしてしまうこの画面を眺めるのは、私だけの特権だ。


  **


 夢中になっていたら、水銀に筆を持った腕を拘束された。


 「奥様、コルトー侯爵がお見えです」


 ずいぶんなやり方だが、声をかけられても気づかなかったということだろう。すまない。

 そんなことより、問題は訪問者だ。

 たかが絵師一人、呼びつければいいものを、わざわざここまで来たということは、夫人の肖像の進捗を見に来たのだろう。

 だが、完成するまでは誰にも見せるなというのが、侯爵夫人の仰せだ。


 「すぐ行くわ。でも、ここには誰も入れないようにして」


 私が言うと、水銀は直ちに分裂した。一人が私に先立って応接室へ向かい、もう一人が背後でアトリエの扉を閉める。

 十分に広いアパルトマンだと思ってるけど、移動に長い時間がかかるわけではない。私たちはすぐに応接室に入った。


 「ようこそお越しくださいました」


 全力でカーテシーをしたけど、作業用の服を着ているから、実に締まらない。そういえばかつらもかぶるのを忘れていた。

 なんということだ。

 幸か不幸か、侯爵は私のカーテシ―には見向きもせず、部屋の扉の方を見ている。


 今日のフェルナンド・コルトー侯爵閣下は、赤味の無い濃紺のベルベットの上着に、光沢のあるグレーのシャツ。

 何気ない色使いなのに、なぜか色っぽい。

 お付きの人も、ごく当たり前の貴族のお仕着せだろうのに、なんとなく垢抜けて見える。

 念のため言っておくが、ガレー大公別邸の皆さんが野暮ったいわけではない。


 「妻の肖像を見せてほしい」


 侯爵は言う。

 予想通りだ。

 

 「奥様からは出来上がるまではどなたにも見せてはいけないと」


 モデルが嫌というものを見せるわけにはいかない。その信頼関係があってのポージングだと思っている。


 「先に奥様にお声がけは」


 一応訊く。嘘でもいい、許可を取ったと言ってほしい。

 だが。


 「注文主は私だ」

 

 そうだった。


 「私が奥様に逆らえるとお考えでしょうか」


 一応、素直な気持ちを伝えて、同情を求める。


 「無理だろうな」


 頷いてくれたけど、侯爵は折れたわけではない。


 「だが、あれは私に逆らわない」


 そう言って、侯爵はにんまりと笑う。女に惚れぬかれている男にだけ許されている笑みだ。


 「それで? あれを連れてきて、許可を取れば良いのかね?」


 そんなことをしたら、間違いなく許可が出るだろうなあ。

 侯爵の笑み、声音、どこをとっても、夫人が逆らえる気がしない。

 でも、お互いの私室に置く、ごく私的な肖像だ。


 「あの肖像のことをご存じの方は?」

 「私と妻だけだな」


 ほらー。


 「では、奥様は、閣下にご覧に入れないようにと、わたくしに命じられたのではありませんか?」

 「そうだろうな」


 ほらー。

 ご夫婦のことだからあれだけど、つまり、お二人のプレイなのだ。そこへ私を巻き込まないでほしい。娼婦時代だって、そういう時は別料金を取っていた。娼婦から足を洗った今は、お金を貰ったって断るのが筋というものだろう。

 だが。


 「私の物なのに許可がいるのかね」


 彼が言う「私の物」は絵のことではない。アナスタシア・コルトーのことだ。

 金や権力で強制されたわけでなく、恋心一つ掴まれて、彼女はコルトー侯爵に隷属している。


 「……失礼いたしました」


 仕方がない。


 「どうぞ、閣下」


 私はアトリエへと侯爵を案内する。

 お付きの人には、侯爵自らこの場に残るように命じてくれた。夫人への思いやりか、侯爵なりの独占欲かは分からない。


 「こちらです」


 私が開けるから、水銀は扉を押さえてはいなかった。

 扉を開いた途端に、絵の具の匂いが鼻をつく。

 私のことはそっちのけで、侯爵は銀の杖をついて画架に歩み寄った。


 「これが、ナースチャか?」


 ひどく驚いた顔で、侯爵が私を振り返った。

 一瞬戸惑ったが、ナースチャというのは、アナスタシアの愛称だ。

 何をそんなに驚いて、と思ったが、今、肌の下に凄い色を仕込んでいるところだった。


 「さようでございます」


 ここぞとばかり、私は「だから言ったのに」という顔を作った。


 「これがナースチャか」


 画架に向き直り、コルトー侯爵は繰り返した。


 「さようでございます」


 私も繰り返した。


 「美しいな」


 侯爵は呟く。

 どういうことかと覗き込んだが、侯爵の肩越しに見える画布には、やっぱり緑や紫が暴れている。侯爵の顔を盗み見れば、普段の鋭い眼光が、愛おし気に和らいでいた。

 私と同じく、下塗りにモデルの生命の姿を見ているのだろうか。


 だが、訊ねるわけにはいかない。


 私は画架から離れ、無言で道具の棚をいじるふりをした。

 侯爵のあの表情を見たと夫人に知られたら、八つ裂きにされる。

 確信だった。

読んでくださってありがとうございます。

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