84.馬場にて(王妃視点)
朝食の時から、子供たちははしゃいでいるようだった。
午後の茶会までの短い時間だが、乗馬の訓練を私に見せてくれるのだという。
それもこの国のとは違う、私の故国であるガドマール式の乗馬法でだ。
着替えを済ませ、息子たちに急かされながら馬場に出る。馬はまだ支度が整わないようなのに、アルベルトがもう待ち構えていた。
「王妃様、ご機嫌麗しゅう」
アルベルトが礼を取る。私も作法通りに応じ、それからアルベルトの頬に触れた。いつから待っていたのだろう、すっかり冷えている。
「待たせてしまいましたね」
「……いいえ」
夫にも側妃にも似ていない顔が、泣き笑いに歪んだ。
「でも、寒かったでしょう」
「今日は陽射しがありますから」
アルベルトがそう言うと、リナルドとルキノも口添えする。
「馬に乗っていたらすぐ温まりますよ」
「母上こそ、お体を冷やさないようになさってくださいね」
二人に応えるように、侍女たちが野外用のストーブに火を熾す。
やがて馬の準備が出来ると、子供たちは私に背を向け、歓声を上げながら馬場の柵の向こうへと駆け出した。
ガレー大公の土産だという儀礼用の鞍が、淡い日差しに煌めく。その華やかさに比べて子供たちは稽古着というのがちぐはぐで、なぜか微笑ましい。
馬丁が馬の口をとり、霜の降りた馬場をゆっくり進めていく。
順番は、リナルド、ルキノ、アルベルト。
それぞれに両足を突っ張り、のけぞるほどに胸を張っている。姿勢を保つのに精いっぱいのようだ。万一にも落馬させないよう、馬丁も緊張していることだろう。
「まだまだ乗りこなすには程遠いわね」
わたくしは傍らの侍女のイリーナに洩らす。
「何をおっしゃいます。堂々たるお姿ではありませんか」
ガドマールからついて来てくれた彼女は、目に涙を浮かべていた。
わたくしの輿入れから十九年、イリーナは一度として故郷に帰っていない。故国独特の乗馬姿を見るのも、十九年ぶりということになる。
わたくしとしても、嫁いできたばかりの頃は、この国の人々の乗馬姿が、妙に気が抜けて頼りなく見えたものだ。こちらの方がずっと馬を扱いやすいことも、ほぼ世界中がこの乗り方をしていることも知らなかった。
「そうね。忙しい中、三人とも、よく稽古したこと」
「ええ、ええ」
イリーナは含みの無い優しい声で相槌を打つ。
側妃腹のアルベルトに対しても、イリーナの眼差しは温かい。憎むべき敵ではなく、次の王となるリナルドを支える、小さな同志と思っているのだ。
わたくしが、そう仕向けた。
王と側妃がアルベルトを顧みようとしないのも、わたくしの利となった。
厭うより慈しみ、兄弟の間に情愛を育てる。
あの子の孤独が怒りや野心に変わらぬよう、逃げ込める暖かく明るい場所を用意する。
それだけだが、成果は出た。
アルベルトを愛するのは簡単だった。
あの子は素直で聡明な子だ。
なにより、わたくしは王を夫だとは思っていない。
あれは、ただの種馬。
側妃は厩番。
嫉妬などしようはずもない。
そんなものは、前の生で使い果たしてしまった。
*
わたくしには記憶が二つある。
思い出したのは婚礼の朝だ。
故国からの船団が、都の水門を通り過ぎた瞬間、それは蘇った。
不安ゆえの妄想で片づけるにはあまりに生々しい。船室の窓から覗く河岸の景色も、記憶のままに移り変わっていった。
この記憶が事実であるなら、花婿にはすでに愛する相手がいる。
わたくしはそれを受け入れ、生き延びることを選んだ。
記憶の中のわたくしは、愚かにも王の寵愛を得ようとした。けれど何一つ得るものはなかった。王の心は揺るぎなくただ一人に注がれていたのだ。
嫁いで二年後、わたくしが男児を上げた途端、王は意中のひとマレーナを側妃に召し上げた。
記憶の中のわたくしは、彼女を憎まずにいられなかった。そうすることで、王は一層わたくしを疎んだ。
腹心の侍女たちは遠ざけられ、王の息のかかった者に監視された。産後の回復が遅れていると称して、外交の席さえ側妃に奪われた。手紙は当然検閲されるから、故国に助けを求めることも出来ない。
十六才で側妃となったマレーナは、立て続けに二人の姫を産み、すぐに三人目も身籠った。わたくしもようやく、二人目を授かった。
マレーナの三人目の子は、男児であったという。
側妃にとっては、喜ばしいことだったはずだ。けれど、当時エルトーとの関係が悪化していた手前、わたくしの故国との関係は良好に保たねばならなかった。
名も与えられなかった赤子は命を奪われ、死産であったと発表された。
そして一月後にわたくしが産んだルキノを、この腕に抱くことも許されぬうちに王は連れ去り、マレーナに与えた。
それでも、マレーナがルキノを慈しんでくれれば、わたくしも救われただろう。けれど、そんなことができるだろうか。わたくしにはできなかっただろう。そして、彼女にもできなかった。
わたくしのルキノを、彼女は玩具のように扱った。いや、玩具の方がよほどましな扱いを受けていただろう。
自分が産んだ二人の姫を巻き込んで、彼女はルキノを壊してしまった。たった三つで、ルキノは聖セレーナの腕に抱かれた。小さく痩せこけ、痣だらけで、言葉も知らぬうちに。
ルキノをいたぶる合間に、マレーナはまた身籠る。
幸福なのは王一人。
それでも、わたくしは側妃とその娘たちを許せなかった。
地獄が終わりを垣間見せたのは、わたくしが嫁いで七年目。
冷夏が大陸の北半分に飢えを運んできた。北の国境にエルトーからの流民が押し寄せ、それをきっかけに長年の対立に火が付いた。わたくしの窮状を知ってか知らずか、エルトーとの戦に、故国から援軍が駆け付けた。
戦争は続き、翌年の酷暑が思わぬ災いをまき散らす。
西風病と呼ばれる南の風土病が、この国にも広まったのだ。
最初は兵士、次は帰郷した兵の家族。
疫病は街道沿いに国中に広まり、王都の貴族たちにも襲い掛かった。
政府の機能は半ば麻痺し、南に留学するなどして西風病に罹患経験を持つ貴族たちが、聖堂に療養所を設けて看護に当たっていた。
わたくしにその手伝いをするよう伝えたのが、側妃の兄であるソレス伯であったのは皮肉だ。虜囚の手まで借りるのかと、八年ぶりに声を上げて笑ってしまった。
けれど、王宮を離れ、ただ病者に尽くしたその数日間が、わたくしの人生で唯一生きている時間であった。
そして、側妃が感染したことで、わたくしの生は呆気なく終わった。
わたくしは連れ戻され、マレーナの看病に専心させられた。唯一の王子リナルドも、マレーナが産んだ姫たちまでも高熱にあえぐ中、王は側妃マレーナの無事だけを求めた。
けれど、彼女は死んだ。
誰のせいでもない。最後の出産から、まだ三月も経っていなかったのだ。罪があるなら、この状況でなお子を産ませた者であろう。
けれど、わたくしが殺したと、王はわたくしを罵った。手ずから剣を揮い、わたくしを斬り伏せた。
王妃である以前に、同盟国の王女であるわたくしを。
わたくしの記憶を締めくくるのは王の声。
「バルデスを呼べ。マレーナを生き返らせろ。時を戻せ。マレーナを、マレーナを――」
*
馬場では子供たちが笑っている。
記憶の中では、リナルドもルキノも笑顔など見せてくれたことが無かった。アルベルトに至っては、ガレー大公家の次男であったはず。
ガレー大公バルデスは、あの冷夏のずっと以前に亡くなり、跡を継いだアストルは留学先を北のエルトーに変えてやったおかげか、カリヨンの娘に出会うこともなくいまだ独り身。健康そのものと見えたあの娘も、病死したという。
哀れなマレーナは、我が子を奪われなかった。休みなく子を産まされることはなく、一男二女を上げるにとどまっている。
何よりも冷夏は大きな被害をもたらさず、エルトー帝国との戦も避けられた。
「母上――」
ルキノが大声を上げ、わたくしに手を振る。馬が驚くといけません、そう馬丁が優しくルキノをたしなめた。
記憶とはまるで違う、暖かく穏やかな時。
これこそが現実。わたくしの幸福な現実。
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