83.選んだ人
今更な注意書きですが、過去の性暴力を仄めかす描写があります。苦手な方はご注意ください。
一日のうちで時間を区切り、コルトー侯爵の肖像と、役者絵や楽譜絵を描いている。仕事で仕事の気分転換をしているような感じだ。
役者絵は昨日劇場へ持って行き、今日は午前中に肖像画を九分通り仕上げた。午後にはヴァイオレットの楽譜絵を描くことになっている。
ありがたいことに、仕事が途切れない。幸せだ。
いつものお付と現れたヴァイオレットは、造花を縫い込んだターバンを巻いていた。
私がコルトー家のサロンでターバン姿を披露してから三月足らず。街中でもこのターバン姿を見かけるようになってきた。コルセット無しのドレスは劇場のような晴れの場でもなかなか見ないから、ターバンは大当たりだったようだ。
と言っても庶民のはいちいち巻き付けたりしない。伸縮性のある生地で、ぐるぐる巻いた形に作っておいて、そこに髪と頭を押し込む。髪をまとめる暇がない時の応急処置に便利だ。
さて。
今回のヴァイオレットの歌は、恋人に解かれた髪をターバンでごまかす歌だった。
母親が帰って来る間際まで触れてもらって、その指の感触まで包み込んで――まあ、髪だけで済んでるはずない、というのはねっとり甘い曲調でお察しだ。
そんなわけで。
今日もヴァイオレットはあざとく可愛く艶っぽくポーズを取った。
でも、表情が冴えない。補正可能だけど、心配はしてしまう。
「どうかしたの?」
「下絵は済んだ?」
ヴァイオレットは、くすんだ作り笑いのまま訊ねる。
「待ってね、もう少し――」
私は手を動かす。
「――よし。さ、終わったわよ」
私が告げた途端、ヴァイオレットは声を上げて泣き出した。
「え、どうしちゃったの?」
「ご出世しなすったのさ」
ヴァイオレットの代わりに答えたのは、部屋の隅に控えていたお付の女だった。
名前は何といったか、ジョアンナ? ジョルジーナ?
ともあれ、彼女によればこうだ。
ヴァイオレットが住むアパルトマンに、パトロンが男を連れてきた。
エイクモン伯爵。平民であるパトロンより格上の男だ。
ヴァイオレットも同席させて、二人の男は歓談する。話題は、社交界の上っ面を撫でるような中身の無いもの。ヴァイオレットは酌をしたり、男たちの戯言に笑ったり拗ねたりして、役割をこなした。
そのうちに、パトロンが呼び出される。
お付がここまで話すと、ヴァイオレットはぐしゃぐしゃの泣き顔を上げた。
「あの人、ご無礼の無いようにね、って言った。猫撫で声で」
そうして、パトロンと伯爵は目くばせを交わした、という。
「分かっちゃったのよ。見たことあるの。この街に着いて、何も分からなくて、親切ぶった奴が、案内してあげるって。宿の、奴と顔を見合わせて」
「もういいわ。分かった。私も分かった。見たことあるもの」
私が見たのは、駆け落ち相手と最後に会った日だ。
街の有力者に挨拶してくるからと待っているようにと、男は私を路地の奥の食堂へ連れて行った。界隈に似合わない、若い娘が好みそうな、小ぎれいな店だった。
男は給仕と目くばせを交わす。
本当に危険な相手だったら、私にはすぐ分かるはずだった。王侯貴族とも海賊とも対峙したことはあるのだから。
でも、人を殺したことも牢にぶち込まれたことも無い、ちょっと悪ぶっただけの若造には、油断した。
馬鹿すぎる。
一人の大親分の後ろには、千人のチンピラがいるのに。そのチンピラとは対峙したことがなかった。
全く馬鹿にもほどがある。
給仕が出した茶に私が口をつけるのを見てから、駆け落ち相手は機嫌よく店を出て行った。
店の奥から、給仕の同類みたいな若い男が、一、二、三、四人。
入り口に鍵を掛ける音。
茶に何を仕込まれていたのか、膝が笑ってまともに立つこともできない。
そうじゃなくて。私の話じゃないのだ。
それで、何の話だっけ?
そう、ヴァイオレットは伯爵に売り渡されたのだ。
「いつのまにか、ジャンニーナもいなくなってるし」
ヴァイオレットはお付を睨む。お付は気にする様子も無い。
「もう、腹を括るしかないじゃない。伯爵は酔い潰そうとせっせとお酌してくれるし。だから私、本当は葡萄酒は渋くて苦手って言ったの。ジャムや蜂蜜を入れて、甘く甘くしたら美味しいのにって。でも、伯爵様の前で、そんな無作法したら叱られてしまいますって」
ヴァイオレットにそう言われたら、そりゃあ伯爵はジャムや蜂蜜を用意させるだろう。そうして、「告げ口させないように」という名目で、部屋から人払いさせる。
後は話すまでもない。
伯爵はヴァイオレットを大層お気に召し、めでたく新たなパトロンに納まったわけだ。
ヴァイオレットは、さらに贅沢な暮らしと、伯爵が後援する《銀の牡鹿座》の準主役の座を手に入れた。
《銀の牡鹿座》の格は、中の中くらいか。ここの準主役なら、いっぱしの役者を名乗れるのではないか。評価されればもっと上の舞台への道も開ける。
「ご出世なんて、嘘よ。私、今だって体を売ってるだけだわ」
ヴァイオレットはまた声を上げて泣き出した。
「邪魔をするわ」
声の方を見ると、侍女のキアラを従えたコルトー侯爵夫人が立っていた。そのまた背後には、水銀がいる。
水銀を出し抜くとは、侯爵夫人おそるべし。
「勝手に押し入って悪かったわね。注文の進捗を見たかっただけよ。構わないでしょう?」
「もちろんですわ」
私が答えると、夫人はすぐにアトリエへ行こうと向きを変え、隅に控えているジャンニーナに目を止めた。
「貴女、もう随分稼いだでしょう。まだ足りないの?」
夫人が言う。
「道楽でござんすよ」
ジャンニーナが答える。
二人は知り合いだったのか。
「貴女が付いているということは、エイクモン伯爵も踏み台ね」
夫人は微笑む。
エイクモン伯がヴァイオレットのパトロンになったことも、もうご存知らしい。
なるほど、耳が早くなければ、流行の仕掛け人にはなれないか。
「さてさて、山出しの小娘がどこまで行けますか。奥様でしたら、王弟殿下でも大公殿下でも思いのままでござんしたのに」
ジャンニーナは大げさにため息をついた。私は、泣き止んだヴァイオレットと一緒に、呆気に取られて二人を眺めている。
「……あの、お二人は」
私はどうにか口をはさんだ。
「娼婦と、遣り手、のようなものよ。客の見定め方から、落とし方、夜会での振舞いまで、全部その人に教えてもらったわ」
かつて高級娼婦だった侯爵夫人は、優雅に微笑む。
「良うおっしゃる。最後の最後に掌を返しなすったお人が。あんな貧乏伯爵の四男、それも騎士のくせに馬にも乗れなくなったような男に入れあげて」
ジャンニーナは苦々し気に言った。
「あの、それって」
「主人よ」
口を挿んだ私に、侯爵夫人は答える。
なんだかんだ言って、侯爵夫人の方がジャンニーナより目が利いたということか。
いや、そう言ったら、きっと夫人は気を悪くする。
地位もお金も関係なく、この人は惚れた相手のもとへ飛び込んだだけ。出世したのはたまたまか、夫人の内助の功あってか。
「さ、絵を見せてもらうわね」
夫人はもうジャンニーナには目もくれず、軽やかに部屋を出て行く。もちろんキアラ、それに水銀も従った。
「……何? 今の人」
紹介もしてもらえず、最初から最後まで蚊帳の外に置かれていたヴァイオレットが言う。
許可なく貴婦人に話しかけなかったのは、ジャンニーナの教育の賜物だろうか。
「アルラウネ」
ジャンニーナが答える。
「昔々、裏社交界の女王だったお人でござんすよ」
「今は?」
「つまらない貴族の奥方様さあ」
ジャンニーナの口ぶりはなかなかに不敬だ。
「どうしたらそうなれるの」
ヴァイオレットは訊ねた。
「平民でもいいの。お金持ちでなくていいの。もう売り買いされたくないのよ」
「特別になりたいと言ったくせに。芽が出かけたらもうこれですよ」
ジャンニーナはせせら笑う。
厳しい。
けれど、仕方ないではないか。
世間知らずの若い娘だ。経験を積むたびに、望む幸せも変わるだろう。それが成長というものではないのか。
けれど。
「賭けても良うござんす。今逃げたところで、すぐ派手な暮らしが恋しくなりますよ」
続けてそう言われて、ヴァイオレットは黙り込む。
ジャンニーナが言うのは、歌や芝居に打ち込み、喝さいを浴びる暮らしのことだ。贅沢はおまけのようなもの。
そう考えれば、私も身に覚えがある。
アストルと絵とどちらかを選べと言われたら?
どれほど考え抜いて選んでも、選ばなかった方への未練は残る。死ぬまで焦がれるに決まっている。
「奥様、侯爵夫人がお帰りになりました」
水銀が部屋の外から声をかける。
しまった、見送りもしていない。
「仕上がりを楽しみにしてくださるそうです」
水銀が言う。
本当に、侯爵の肖像画を見たかっただけなのだろう。絵師が礼を取ろうがどうしようが、侯爵夫人にとってはどうでも良かった。
何しろ彼女は、迷うことなく侯爵を選んでしまったのだから。
読んでくださってありがとうございます




