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67.火事のあと

 夜が明けたら、待っていたのは日常だった。

 水銀の作ってくれた朝食を摂り、アトリエで絵を描く。昼食の後で劇場へ顔を出し、役者絵の打ち合わせ。

 演出プランの修正が済み、衣装の変更も形になったとのことだ。衣装合わせの時に、役者たちにポーズを取ってもらうということで、話が進んでいく。

 それから、詩人のジュリオに声をかけられて、ヴァイオレットの新曲と、別の歌手の楽譜絵について相談された。

 昨夜の出来事が嘘のようにも思える。でも、雑談の話題は、どこでも公爵邸炎上だった。それも、みんなごく身近な話題として語るのだ。


 ダリオン公爵は、花冠座の出資者の一人だった。加えて、個人的に援助を受けていた役者も一人ならずいるそうだ。

 純粋に芸に対する支援だったか、そうでなかったかは知らない。

 ともあれ、座長のジェラルディンと、会計担当者たちが、会議室に籠って出て来ないくらいには、影響があるらしい。


  *


 アカシア通りの部屋に戻って、また絵を描いた。

 それが一段落つくと、別邸へ帰る。

 聞くまでも無いけど、アストルの帰りは遅くなるという。

 夕食を済ませて、隠し部屋へ籠る。

 シェンクンの密林を半分仕上げたところで、自室へ戻った。

 これで、フレスコ画の残りは三つ半。

 終わってしまうのが惜しくなったのだ。


 湯船に浸かり、身支度を整えて、アストルの帰りを待つ。

 昨夜は眠れなかったらしいカミラを早々に休ませ、私は手慰みに画帖を開いた。木炭を手に、アストルの顔を描く。

 さんざん見つめていたのに、いざ描いてみるとなんだか変だ。パーツの一つ一つは、鮮明に覚えているのに。

 目も鼻も口も、それぞれはそっくりに描けるのに、組み合わせると何か違う。

 やっぱり本人がいないと駄目だ。


  *


 夜遅くに帰って来たアストルは、疲れ切っていた。


 「コーヒーを淹れてくれないか?」


 ソファにだらりと座って、アストルは言う。

 今の彼に必要なのは、目を覚ますコーヒーではなくて、気を鎮めて眠りを誘うカモミールのお茶だ。でも、そう言っていられない時があるのも分かる。


 「頑張るのもほどほどにね」


 そう言いながら、私は小鍋に湯を沸かす。


 「それで、お嬢様は無事に母君に会えたの?」

 「むん……」


 よく分からない声を漏らしたと思ったら、アストルは寝入ってしまった。

 コーヒーは間に合わなかったようだ。

 起こすかどうか迷っている間に、呼んでもいない水銀が現れて、アストルを着替えさせてベッドに運ぶ。

 水銀の動きは迅速な分、雑に見えた。

 けれど、いびきをかき始めたアストルは、一向に目を覚まさない。


 「奥様も、お休みください」


 水銀は言う。

 そう言われてみれば、私ももう起きている理由が無いのだった。

 とりあえず小鍋を火から下ろして、アストルの隣に横たわる。水銀が灯りを小さくし、部屋から出て行った。


 アストルのいびきを聞きながら、お嬢様のことを考える。

 アドリエンヌは、お嬢様を元の暮らしに、と言っていた。

 けれど、父君である公爵が殺害されたのだ。元通りにはなりようがない。

 私はアストルに身を寄せて、目を閉じた。


  *


 私が目を覚ますと、アストルは私の画帖を眺めていた。


 「起こしちゃったね。君が起きるにはまだ早いよ」

 「ううん」


 暢気に画帖なんか眺めているけど、今日もアストルは忙しいのだろう。こうして無為に過ごせるのは、ほんの僅かな間なのだ。

 もったいないから、私も起き上がって、アストルに抱き着く。アストルが笑いながら、私の腰に腕を回してくれた。

 二人で画帖を眺める恰好だ。

 

 「こんなの、いつの間に描いたんだ?」


 そう言って彼が示したのは、昨日描いた変なアストルだ。


 「昨夜、貴方を待ってる間に。でも、よく貴方だって分かったわね」

 「そりゃあ、分かるさ。どう見ても僕だ」


 アストルは不思議そうだ。

 不思議はこっちの台詞だろうに。


 「でも、実物を見ないで描いたから、何か変でしょ」

 「変かな? カミラにでも訊いてみる?」


 アストルはそう言うけれど、何だか恥ずかしいから許してもらう。

 だって、頼まれもせず、そこにいもしない男を描くなんて、好きだと喚いてるようなものではないか。

 画帖を閉じて、私たちは昨夜飲み損ねたコーヒーを淹れることにした。


 「サラ。君の仕事はどう?」

 「次の舞台の準備が、ようやく始まるところよ。それから、ヴァイオレットの新しい楽譜絵が入りそう。……でも、劇場の方は、公爵が亡くなったことで、何か変更がかかるかもしれないわね」


 私がそう説明すると、アストルは小さく唸った。


 「君、剣は扱えたよね?」

 「一応。でも、何年も握ってないわ」


 だから、実戦では役に立たない。時間稼ぎにも使えないだろう。

 店で護身術を仕込まれた時も、筋があまり良くないから、戦うよりとにかく逃げる方を優先するように教わった。


 「それでも、基礎はできている」


 アストルは一人頷く。

 私に剣を揮わせたいのか。


 「貴方と同じ剣は扱えないわ。それに、銃の方が得意よ」


 私が仕込まれた剣は、ルシャイドの得物だった舶刀だ。湾曲していて、刃渡りも短い。この辺りの騎士が持つような剣とは、取り回しが違う。

 何より、人並みに剣を扱いたければ、体を一から造り直さなければならない。

 もちろん、銃だって鈍った体で扱うのは厄介だ。それでも、身体能力に左右されないのは銃の方だろう。


 「それでもだ。いくら君が器用でも、銃は咄嗟には撃てないだろう」

 「そりゃあ、弾薬を込める手間があるもの。ね、待って? 私、いきなり襲われるの?」

 「君が、というよりは、僕が妻と住む屋敷が、だね」


 アストルはにこやかに答えた。

 ああ、お湯が沸く音がする。

 コーヒーだ。まずはコーヒーだ。

 お湯に豆の粉を入れる。広がる香りを、私は胸いっぱい吸い込んだ。


 「……ここが、公爵邸と同じようになる可能性がある、と」

 「察しが良くて助かるよ」


 アストルはあっさり頷く。

 せっかくの隠し部屋が燃やされるのは嫌だな。ものすごく嫌だ。


 「犯人は分かってるんでしょう? 捕まえられないの?」

 「難しいよ。分かっているのは実行犯だけ。結構な人数なのに、一人も行方が分からない。背後の黒幕が分からない。証拠が無い」


 アストルは言う。それから、フェリシア嬢のことを思いだして、私はため息をついた。


 「捕まえたところで、証言させられないのだったわね」


 それをしたら、令嬢の名誉が汚されてしまう。


 「ちゃんと証言できるならね」


 アストルがベッドから降りて、私に歩み寄る。そうして、親指で私の唇に触れた。


 「言ってごらん。フェリシアが公爵家からどこへ連れていかれたか」


 ――悪魔の踵横丁にある娼館〈フィオナの家〉。

 けれど、何度も口にしてきた店の名が、どうしても言えない。


 「君が師匠と呼んでいる人の名は?」

 「アドリエンヌ」

 「では、昨夜、フェリシアは誰と一緒にいた?」


 この答えも、アドリエンヌ。

 それなのに、その名が言えない。


 「ずるい手を使うわけね」

 「そういうこと」


 アストルは良い顔で笑う。

 それは一安心、していいのかどうかも分からないけど。

 一番肝心なことを確かめなくては。


 「それで……お嬢様はどうしたの? 母君とはちゃんと会えたの? 他のご家族は?」

 「フェリシアは聖堂にいたことにできたよ。もちろん、叔母上とも一緒だ。公爵家の養子のコルネロは、夜会から早々に引き上げて、例の勉強会に参加していたそうだ。公爵夫妻それぞれの姉妹が皆、コルネロとの養子縁組を解消するつもりだったと聞かされている。本人も認めた。ただ、解消手続きが済んでいないから、相続をどうするのかははっきりしていない」


 アストルは息をつく。


 「コルネロは、相続権を放棄するつもりだと言っている。穢れた地上の財産に興味は無いそうだ。それが本音なのか、それとも、また襲われたら怖いとか、騒ぎの責任を取らされたら嫌だとか、そういうことを考えているかは分からないけどね」


 なるほど。公爵の死で、犯人の目的が達成したとは限らないのだ。


 「お嬢様の婚約は変更無し?」

 「そう願いたいよ。あの二人は相愛の仲だからね。本人たちは素直になれなくて、何かと悶々としてるみたいだけど」


 未来の王と王妃であっても、少年少女であることはどうにもならないらしい。


 「それで、政治的には貴方にとってどうなの?」

 「婚約続行なら、今回の件でうちの影響力は増すだろうな」


 ダリオン公爵夫人と令嬢を、大公家本邸で世話をすることになったのだそうだ。

 それにともなって、別邸の人員を本邸へ戻すと、アストルは告げた。

 夫人の侍女が一人、聖堂に供をしていて難を逃れたものの、彼女一人で二人分の世話は手が回らない。かと言って、新しく人を雇うのは危険だ。

 別邸の使用人なら、素性もはっきりしているし、能力も高い。


 「だから、カテリーナとカミラを、向こうへ借りる」

 「私は構わないけど、カミラは大丈夫かしら?」


 フェリシアの間近に仕えて、今回の詳細を知れば、カミラ自身の悲しみが、また生々しく蘇ってしまうのではないか。従兄に会った衝撃が、ようやく落ち着いてきたところだというのに。


 「立場というなら大丈夫。うちにいることは陛下の耳に入れてあるからね。問題は、あの子の精神状態だな。カテリーナとは仲良くやっているようだけど、辛そうなら連れ戻す」


 アストルは言う。

 ちゃんと考えてくれているみたいで嬉しい。


 「それから、公爵家の二人がいる分、警備を手厚くしたい。向こうに人員を回す。こちらは丸腰になるけどね」


 さて。

 コーヒーが入りましたよ、と。


 「丸腰ねえ。……水銀って、何人いるの?」

 「一人とも言えるし、千人万人いるとも言えるね」


 警備の「人目」が無くなれば、水銀はやりたい放題だ。

 アストルとしては、犯人を罠にかけたいのだろう。


 「ここに誘い込むのは良いわ。でも、公爵邸を襲った人が、ここを襲う必要があるかしら?」

 「今ね、僕がフェリシアの庇護者ということに、世間の目を誘導しているところだよ。犯人の目的がフェリシアを王妃にしないことなら、まず僕を潰してもらおう。売り飛ばしたはずのフェリシアが、聖堂から出てきたんだ。僕が揉み消したと考えるのが妥当じゃないかな? その僕は、毎晩、君のいるこの屋敷に帰るんだからね、ここを襲うべきだよ」


 実に楽しそうだ。


 「フェリシア嬢本人をどうにかしたい連中だったら?」

 「とりあえず、警備の中に水銀を混ぜてはあるよ」


 とはいえ、「人目」があるから、水銀も無敵とはいかないだろう。


 「私が足手まといになるのが厄介だけど、こちらを狙って欲しいところね」

 「武器の扱いを確認したのは、あくまで念のためだ。君のことは最優先で守るから、信用してくれ。もちろん、心配なら、アカシア通りの部屋でも、王都の外のどこかでも、避難してくれても構わないよ」


 アストルはそう言う。でも、疲れた顔をしたアストルを、一人にするのは嫌だ。


 「私は、貴方といたい。もしもそれで近所の人や劇場の人の迷惑になるなら、出歩く方を控えるわ」


 私が答えると、アストルは短く唸った。


 「確かに、無関係の人を巻き込むのは良くないな。でも、劇場の都合に振り回されたり、楽譜屋さんに何度も駄目出しされてる駆け出し絵師が大公妃だなんて、犯人たちは思わないんじゃないか?」


 大公妃という肩書を別にしても、アストルの言うのは、まあ、そうだろうと思う。

 でも、毎日のように別邸とアカシア通りを往復しているのを見れば、事実に辿り着かないわけがあるまい。


 私がそう言うと、アストルは笑った。


 「君は絵師じゃないか。ここには仕事に来ている、それで良いさ。なんなら、正式に依頼しよう。あるだろう? 君が一番上手で、しかも、君にしか任せられないことが」

 「何それ」


 訊き返した私に、アストルはにやにやしている。


 「大公妃のあられもない肖像。君、好きなだけ高価な画材を使いたまえ」


 それは。

 描くのは構わないけど、描かれるのは絶対に嫌な奴だ。

読んでくださってありがとうございます。

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