68.大晦日の夜
お待たせした割に、短く、話も進んでません。
最後の一筆を入れて、上体を引く。最後の区画を眺める。
塗り残しは無いか。筆を足せるところは?
……もう無いようだ。
終わってしまった。
私は足場を降りて、描きあがった絵を眺める。
華国の帝都、青京の早暁。人の話と書物でしか知らない、最果ての街。
竜江をの急流を遡るには、夜風に乗るのが一番だという。
両岸はそりたつ岩壁。流れのあちこちには暗礁。
夜闇の中で船を進めるには、熟練の水先案内人を頼るしかない。
物流の要であるはずの竜江が、都を守る防壁でもあるのだ。
夜を徹して船を進めれば、未明の最も闇が深まる頃に岸壁が途切れる。そこへ注ぎ込む支流へと舵を取れば、光の花園のような都が広がるのだ。
丹を多用した街並みが、無数の灯りに照らし出される。通りの賑わいは昼夜を問わない。街のあちらこちらに、反り返った屋根を持つ高い塔。これは天帝を祭るものだ。そして、都の最奥には、天帝の化身とされる皇帝の住む城が、塔よりも高く聳え立っている。
まあ、本当か法螺かは、分からないんだけど。
もうこの絵にすべきことは無い。
自室に戻り、薄汚れた作業着を脱いで湯に浸かる。伸びをしたら、肩が、背が、腰が、枯れ枝を折るような音を立てた。
「…………」
湯の中の自分の体を眺める。
白い。
十年前には考えられなかった白さだ。
子供の頃の私は、海商の跡取り娘だった。
令嬢らしい習い事もしていたけど、多く過ごしたのは港であり、海の上だ。
年に一度は、父に連れられて、数か月に及ぶ航海に出ていた。
もちろん、ただ船に乗せられていたわけではない。
男の子の服を着せられ、同世代の少年水夫と同様に、船上の雑用をこなしていた。掃除、洗濯、物見。海賊との小競り合いの時には、銃も。もちろん、微力ながら櫂も持たされた。
短い自由時間には、画帖を開く。すぐに寝落ちしたから、どのページにも木炭の変な線が残っていた。
そんな日々を過ごすうち、顔も手足も赤銅色に日に焼けて、赤い髪ともあいまって、私は素焼きの壺のお化けみたいになっているのだ。
最後の航海は十五才の時。
帰って間もなく、弟が家を継ぐことが、正式に決まった。
日焼けがおさまるより早く、私の縁談もまとまる。
相手は取引先の息子で、互いに顔見知りでもあった。恋愛感情は一切ない。あるのは家同士の利害だけ。
だから、私が赤茶色に焼けているなんてのは、些末なことだった。
それでも、いつの間にか肌色は落ち着いて、駆け落ちした頃には、そこそこの白さを取り戻していたように思う。
そして、今はさらに白い。
この国に昇る太陽は、故郷のそれよりもずっと控えめだから。
女の肌の質感にも、陽射しの差が出ていると思う。
私たちの肌は、きめ細かくて、張りがある。丈夫で、潤っているともいえるけど、そのせいか、ちょっと厚みや重みがある気がするのだ。
一方、この国の女たちの肌は、とても薄い。月の光を貼り合わせて作ったみたいに、透明感があって、青白い。
湯船を出て、夜着をまとう。
一人、暖房の効いた部屋で、鏡を見て、自問自答する。
――この女なら、どう描くか?
赤毛のネライザ女。目の色は緑。
整った顔立ちではあるけど、とびぬけた美貌というわけでもない。
知性とか人徳とか婦徳とかが滲むようなことも無い。滲むほどの物を持ってないから。
でも、あんな商売をしていたわりに、表情に翳りも無い。
間の抜けた、ぼんやりした女だ。
肩から夜着を滑り落とす。
体も何も主張しない。
船の暮らしも、娼館の暮らしも、痕跡を残していないように見える。
皮膚、肉、骨。
ありふれた体。
「ただいま?」
不思議そうに言いながら、夜会服のままのアストルが部屋に入って来た。
今夜は大晦日。
星祭ほどの規模ではないそうだけど、王宮ではまたしても夜会が開かれていた。
「何事?」
床に落ちた私の夜着を、アストルは拾い上げる。
「どう描けば良いのかと思って」
私は答える。
「描くのかい?」
そう訊ねた時、アストルは私の体を「物」のように見た。私もきっと、妓たちの体をそういう風に見ていたのだろう。
「私、ずるいの」
私の返事は、きっと返事になっていない。
「私ね、女の裸を描くのは好きなの。でも、自分が描かれるのは絶対に嫌だと思ったの」
散々みんなの体を描いたくせに。
「知った人の、故郷の人の目に触れたらどうしようとか、そんなことばかり考えてしまうの。自分の保身ばかり」
私が喋る間に、アストルは私の肩に夜着を掛け、前合わせをしっかり閉じた。
「あの店の、一番の売れっ妓も、その理由で断ったと言っていたじゃないか。そうして、ヴァイオレット嬢は自分から名乗りでたのだろう? そりゃあ、君が描いた人たちが、全員進んでモデルになったかどうかは分からないけどね。でも、裸は嫌だと言われたら、君、何とか考えただろう」
「そりゃあ、考えるけど」
肌を隠しながら淫蕩な雰囲気を出す方法は、いくらでもあるから。逆に、肌を露わに、清楚に見せる方法だってある。
「考えようと思うのは、君が相手に共感できるからじゃないかな。君がずるいとしたら、君のずるさに守られた人もいるかもしれない」
「甘やかさないで」
まるで私に罪が無いような言い方はしないでほしい。
「それに、絵師は君一人じゃなかっただろう。きっかけは君だったかもしれないけど、君がいなくても、いずれ誰かが思いついたさ」
「でも」
「口答えは許さないぞ。知ってるか? 今、この屋敷に君の味方はいないんだ」
馬鹿なことを言うアストルに抱き上げられて、ベッドに運ばれる。
確かに今は、私たちの馬鹿さ加減に居心地悪そうにするカミラも、悲しそうに目を逸らすフェデリコさんもいない。
「僕が甘やかしたいんだから、君は甘えなくちゃいけない。ほら、温かくしないと風邪をひくぞ。……あ、臭かったか?」
私をベッドに下ろしてから、アストルは自分の上着を嗅ぐ。
その言葉通り、彼の体からは、酒と料理と女の香水の匂いがしていた。
ダリオン公爵邸襲撃犯を煽るために、頑張って目立ってきたのだろう。
事件から明日で十日。
公爵家の処遇について、話もまとまりつつあるらしい。
養子のコルネロは、故人の遺志に基づき、養子縁組を解消し、親元へ返された。
騒動の責任を取るということで、公爵家の爵位は侯爵に格下げ。被害者なのに。
先代、つまりフェリシア嬢の祖父の代に得た領地を没収、王家の管轄に。
新ダリオン侯爵の地位は、亡くなった公爵の長姉の息子の一人が継ぐとのこと。
フェリシア嬢と王子との婚約は、変更無し。
襲撃犯の狙いが、フェリシア嬢を貶めることだとしたら、さぞ悔しがっていることだろう。
でも、襲撃犯の動きはまだ無い。
数年ぶりに銃や舶刀の訓練を再開して、私も待ち構えているのだけど。
「風呂に入ってさっぱりしてくるから、眠らないで待っていなさい。寝てたら起こす」
「コーヒーでも淹れて待ってる?」
「……うん。でも、ちゃんと温かくして」
言いおいて、アストルは部屋を出て行った。私はベッドから這い出して、上着を引っ掛ける。
暖炉に小鍋を掛けたら、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
年が明けたようだ。
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