38.蜜蜂
今朝もアストルより早く目が覚めた。
ベッドから脱け出し、避妊の薬草茶を飲む。
今朝も、飲んでいる最中にアストルのいびきが止んだ。昨日に比べたらずっと静かだけど、目覚めを聞き分けられるくらいの音量はある。
でも、今日は寝たふりはしないらしい。
「それは何?」
「……美容のためのお茶」
そういうことにしておく。
「美味しい?」
「毎回おえってなる」
もしかして、これを飲むまでの緊張とか苦悶とか、そういう気配でアストルを起こしてしまっていたのだろうか。
「我慢して飲むだけあるね。凄い効き目だ」
ベッドから出たアストルに抱きしめられる。
「君がこんなに可愛いのは、それのせいだったか」
いろいろ違うけど、適当に頷いておく。
それから、今日の予定を話し合った。
アストルはまた王城で会議。王子のところにも顔を出すのだろう。それから役所も回るらしい。働き者だ。
私は、この部屋で客を迎える。詩人で作家のジュリオ氏と、作曲家のピエール氏。紹介状によれば、流行り唄をいくつも書いた人たちだという。
この紹介状は、ドミニクからのものだ。無下にして良い物ではないと思う。
客が男だと聞いて、アストルは面白くなさそうだけれど、仕事をする以上、男と関わらないわけにはいかない。人類の半分は男で、経済活動も男の方が主導権を握っているのだから、諦めていただきたい。
身に覚えのない疑惑を持たれた客人二人には、心の中でこっそり謝っておく。
*
約束の時間丁度に、二人は現れた。
水銀が応接室へと案内し、私は女主人然として、一足遅れてそこへ行く。
自分で出迎えても良いところだけど、気安い相手と思われてはいけないらしい。段取りを守るように、アストルから厳しく言い聞かされてしまった。
さて。
藁色の髪に、明るい緑の目をしているのがジュリオ。灰色の目で、片眼鏡をかけ、黒髪を短く刈り込んでいるのがピエール。ピエールの方は、隣の椅子にバイオリンのケースを置いている。二人とも、三十才手前といったところか。
最初にジュリオ、次にピエールと握手を交わした。指そのものはピエールの方が硬かったけれど、握り方はどちらも力強い。
「ヴァイオレットは良いね」
口にしたのは、ジュリオの方だった。この時、私はまだピエールと握手をしている。
「声量も無いし、まだまだ素人くさいけど、声が可愛くて、色気に嫌味が無い。根性もある」
ピエールと握り合った手をほどき、着席する間も、ジュリオはまだ喋っている。一方のピエールに、連れを気にした様子は無い。
「君、これは読める?」
私が座る間に、ジュリオはピエールの手荷物から、紙片を取り出した。楽譜だ。
口ずさみたくなる、弾むような可愛らしいメロディに、蜜蜂になぞらえた恋の歌がつけられていた。サビの浮気したら刺しちゃうと脅かすところだけ、短調に変わり、すぐまた明るいメロディに戻る。一途でコケティッシュで、少し臆病な女の子の歌だ。
故郷で、男に捨てられる前のヴァイオレットは、こんな女の子だったかもしれない。
「この曲、ヴァイオレットに似合うと思わない?」
「思うわ」
私は頷く。
「あの子が次の舞台に入るまで、少し時間があるだろう。その間に、〈七羽の雌鶏亭〉で、歌うことになっている。アントニオ・メリビエルの前座だから、間違いなく注目を浴びるよ」
ジュリオが言う。
店の名も、アントニオの名も知らないが、その仕事を取るために、ヴァイオレットが頑張ったことは分かる。
「で、あの子が歌う曲の一つがこれ。これが初演だ。あと二曲は、俺たちが以前作って、流行った歌。俺たちも、これをチャンスにしたい。君、僕たちが作った歌、聴いたことある? 『川霧』とか、『紅雀夜曲』とか」
「ええ。良い歌よね。ドミニクさんからの紹介状には、代表作として『あなたの靴』と『光る翼』が挙げてあったわ。こっちも大好き」
良家のご婦人方はご存じないかもしれない。けど、花街ではよく耳にしたものだ。辻楽師が歌っていたり、酒場で誰かれなく歌っていたりするから、我知らず口ずさんでいたりする。
「それは、ありがとう。でも、いくら流行っても、僕たちの懐は寒いままなんだ。大ホールで演奏会をするような高尚な曲じゃないからね。耳で覚えれば、誰でも歌える。伴奏も、ちょっと腕に覚えのある奴なら、何となくでどうにかできてしまう。つまり、楽譜が売れない」
ジュリオは声を出して笑った。一方のピエールは、黙ってうつむいている。
「この楽譜の表紙、この部分ね。ここに、ヴァイオレットを描いてもらいたいんだ。もちろん、本人も承知している。というか、君が描くって条件で承知してくれた」
それはまた、ありがたい限りだ。
それに、曲も良い。どんな絵を付けるか、次々浮かんでくる。
ちょっと失礼して、浮かぶ構図を紙に描きつけながら、肝心なことを訊ねた。
「文字だけの表紙に絵を付けたら、原価が上がっちゃうんじゃない?」
「売り上げ一部あたりの僕たちの取り分を減らすことで、版元は納得してくれてる。あ、今のそれより、前のが良いな」
ジュリオが私の手元を指差す。
顔のアップの周りに、花を巡らせる絵だ。まだただの覚書で、ヴァイオレットの顔も入っていないのだけれど。
しかも、私は今描いている、花畑に座らせる構図の方が好き。でも、小さな枠に収めるとなると、映えない気もする。
「……取り分を減らして、大丈夫なの?」
「元々楽譜じゃなくて、別の仕事の稼ぎで生活してるからね」
ジュリオは劇場の雑用、ピエールは酒場の伴奏や写譜が、主な収入源だという。
あんなに流行っている歌を作っているのに、世知辛い話だ。
表紙に絵を入れるだけで、そんなに売り上げが変わるだろうか。
しかも、今回は若い娘も手に取れるよう、裸は描かないとのこと。ヴァイオレットのファンは、慎み深い娘たちではなく、下心満載の若い男たちだと思うのだけど。
聞けば聞くほど不安になる。
それでも、絵の大きさや報酬、締め切りなどを決めて、二人は帰っていった。
話し合いの間、ピエールの声を一度も聞かなかった気がする。
いや、最初に名乗ったか? 思い出せない。
もう気にしないことにして、ヴァイオレットに手紙を書き、水銀に託す。モデルをする時間を作ってもらうためだ。
けれど、出かけて一時間もしないうちに、水銀はヴァイオレット本人を連れて帰宅した。
彼女は前に会った時と同じ女に付き添われ、以前より良識的な服装をしていた。豪華な毛皮の外套は同じだけれど、宝石は指環だけ、胸の開きも控えめだ。
「来ちゃった」
ヴァイオレットは可憐な笑顔で言った。
「お茶を一杯貰えるかしら。慌てて来たから、喉が乾いちゃった」
ヴァイオレットがそう言うそばから、水銀がホットワインを出した。
飲んでいる間に、どの構図にするか見てもらおう。加えて、ヴァイオレット本人を見て浮かんだ構図も、描きつける。
「これが良いんじゃない?」
ヴァイオレットが指さしたのは、ジュリオが選んだ構図だった。
それに落ち着くのか。
「こちが、良うござんすよ」
お付が横から指差す。この人、喋るのか。そりゃあ喋るだろうけど。
彼女が選んだ構図は、誰も選んでいなかったものだった。初めてヴァイオレットを描いた時と同じく、上体をひねるようにして、体の曲線を強くアピールするポーズだ。頭から尻まで画面に入れるから、人物が小さくなってしまう。
「腰が細いから、蜂そっくり」
お付は言う。
なるほど。なるほど……。
とりあえず、多数派の構図用の絵を描いてしまうことにする。正面を向いて微笑んでいるだけだから、この場で構わない。
次に、お付の選んだ構図で、ポーズを取ってもらった。横向きに立って、上体をひねってこちらを振り返る。片腕は壁に添え、もう片方はこちらへ差し伸べてもらう。
一瞬なら何でもないけど、これで静止するのはとてもきついはずだ。
途中休憩を二回。体を描いてから、同じ角度になるように立ってもらって、笑顔を浮かべてもらう。ちょっと顔を上げるようになるけど、振り向いた姿勢のまま微笑むよりはずっと楽だろう。
冬の短い日が落ちきった後、もう一杯ホットワインを飲んで、ヴァイオレットと、いまだ名前も知らないお付は帰っていった。
残った私はひたすら清書だ。
最初の、顔と花の絵はすんなり仕上がる。
ヴァイオレットの若さ、可愛らしさは出せたと思う。
問題はもう一枚だ。
依頼人の希望に従って、一枚仕上げた。だから、もう一枚は別に描かなくても良い。でも描く。
お付のあの女の言葉に、変な説得力があったのだ。ヴァイオレットが、取らなくても良いきついポーズを取ったのも、同じ理由だろう。
でも、やっぱり画面が小さすぎる。
さて。
考え込んで、下絵をぐるぐる回す。
何だ。
斜めにしたらもっと大きく入るではないか。凄い海老反りをしているように見えるけど。
思い切って与えられた枠をはみ出す。文字を花の上に被せる。
良いのではないか。
楽譜とは思えないけど。
灯りに、紙を透かせて、裏側から変じゃないか確認する。
良し。
私が納得したから、あとはペンを動かすばかりだ。
――完成。
ペンを置いて、伸びをする。
「終わった?」
テーブルに頬杖をついて、アストルが訊ねる。
「え? え? いつ帰ったの?」
「下絵が仕上がったくらいかな?」
彼も驚いている様子だ。
「君、今僕に気づいたのか」
「……はい」
私が頷くと、彼は長い溜息をつき、インク壜の蓋を閉める。
「夕食はまだだね?」
「はい」
答えた途端に、お腹が空いてきた。
「今日は楽しかった?」
「はい」
私が答えたら、彼は笑った。
「じゃあ、食事の後で、楽しかった話をゆっくり聞かせてくれ」
彼も大きく伸びをし、立ち上がる。
働き者の大公殿下は、今日もお疲れらしい。
それが、充実した疲れなら良いけど。
「アストル、貴方は、夕食は」
「これから」
それを聞いて、片付けもそこそこに、私も慌てて立ち上がった。途端にアストルが私を抱きしめて、キスをする。
「水銀が、良い羊肉が買えたって言ってたよ」
「貴方達、そんな話もするのね」
私たちも、他愛のない言葉を交わす。
信じられないくらい幸せなのに、まるで、日常のようだ。
読んでくださってありがとうございます。




