36.本と馬具、馬具(アルベルト視点)
アレな理由でも、誰かの役に立つことはあります。
馬関係、よく分からないまま書いてます。詳しい方、ご指摘いただければ幸いです。
「遅くなりまして申し訳ありませんでした」
入室した叔父上は、優雅に一礼する。
「今、アストルに貰った馬具の話をしていたんだ」
ルキノが告げた。
ルキノも兄上も、叔父上を呼び捨てにする。叔父上は家臣だから、王子がそうするのはおかしなことではない。
父上の従弟である彼を、私が『叔父上』と呼ぶのも、決しておかしくはないだろう。
幼いころからこう呼ぶように躾けたのは、側妃である私の母だ。異母兄弟との格差を、こんなことでまで思い知らされるかと、ずっと恨めしく思っていた。けれど、いざ叔父上の養子になると決まってみると、『叔父上』で良かったと思う。
「ガドマールの儀礼用の馬具です。……失礼ながら、お茶をいただけますか? 喋りすぎて、さすがに喉が渇きました」
叔父上が言うので、私たちは慌てて席に着く。
運び込まれた菓子は、見慣れない物だ。
大きさは一口大。タルトレットだろうが、真っ白なグレーズに覆われて中は分からない。グレーズの真ん中に、砂糖漬けの真っ赤なサクランボが載っているのが可愛らしい。ただ、育ち盛りの私たちには物足りない量しか用意されていない。
「叔父上のお土産ですか?」
「ええ。あちらのユリア殿下の好物とのことです」
兄上の質問に答え、叔父上はゆっくりと茶を飲む。
ガドマール王国の第一王女ユリア殿下。十五才。王妃殿下には姪、兄上とルキノにとっては従姉妹に当たる方だ。
「うわ、酔ってしまいそう」
早速手を伸ばしたルキノが、声を上げる。
私と兄上も、彼に続いた。
シャリシャリしたグレーズの下には、細かく刻まれた砂糖漬けの果物。その下にはアーモンドのペーストの層があった。
濃厚な甘さに、痺れるような香辛料の香り、そしてたっぷり使われた強いアルコール。
会ったことも無いユリア殿下に、ついつい怖気づきそうになる。こんなお菓子が好きだなんて、きっとあくの強い押しつけがましい人だ。
「……私にもまだ早いようです」
一つ食べきって、叔父上に告げた。小さな菓子一つで、もう頬のあたりが火照っている。
叔父上は笑って、給仕に別の菓子を運ばせた。
こちらはクッキーだろう。
薄い生地はやけに堅い。齧ると蜂蜜の濃厚な甘さと一緒に、レモンの香りが広がった。
「あちらの市井で食べられているものだそうです」
叔父上が説明してくれる間にも、ルキノが次から次へと手を伸ばす。
「私もこの方が良いな」
兄上が呟くと、叔父上も穏やかに頷く。
「実は、母君、王妃陛下のお好みなのです。出国前に、こっそり伺いました」
王妃陛下が市井の菓子を口にした経緯は、本人に伺うようにと叔父上は言う。
大方、宿下がりした侍女辺りが持ち込んだのだろう。
王宮の奥深くで育った姫君には、この堅くて薄い菓子が、空の青と同等のものだったかもしれない。
「最初のタルトレットと一緒に、作り方は厨房に伝えてありますから。お気に召したならいつでも召し上がれますよ」
叔父上の言葉を聞いた途端に、ルキノは一切の遠慮を捨てた。
「食べ過ぎると顎が痛くなりますよ」
叔父上が笑う。ルキノが一瞬怯んだ隙に、兄上の手が伸びて菓子をごっそり攫って行く。口いっぱいの菓子を咀嚼しながら、ルキノが抗議の唸りをあげた。その様子がおかしくて、私も笑った。
叔父上が甘いのを良いことに、私たちはわざと無作法にふるまう。庶民の兄弟は、毎日こうだろうかと想像しながら。
「そうそう。この先、どなたがガドマールに行かれるか分かりませんから、一度はあの馬具を試してみてくださいね。できれば、少し慣れていただきたい」
急に叔父上が言うので、私たちは手を止めた。
「到着時と条約締結直後に、王都の中をパレードしました。皆様方も、あちらの騎馬パレードの絵を、見たことありますね? 貴族や上級将校が、華やかな衣装を着て、胸を張って馬で進んでいく」
初歩的な地理の教本にも、騎馬パレードの絵が出ている。地理の勉強をさせてもらえる子供は限られているけど、その子たちは皆、ガドマールと言えば騎馬パレードを連想するのではないだろうか。
「あれは儀礼用の馬具で、使うと、自然とあの姿勢になるんです。鐙革も長くしていて、足を後ろに伸ばすような形になる。普段の乗馬とは全然違う筋肉を使わされて、パレードが終わった時には、全身がガタガタになってましたよ」
叔父上は泣き笑いのような顔をした。とても辛かったのだろう。
「私も行けるかな?」
ルキノが呟く。
「王室の皆様は、リナルド殿下とルキノ殿下に会いたがっておいででしたよ。ソフィア王太后陛下におかれましては、非公式にですが、お二人に同道いただかなかったことを、気が利かないとまで」
「お祖母様って、どんな方だった?」
「王妃陛下によく似ておいででした。お顔立ちはもちろん、気品に溢れ、聡明で、こっそり冗談をおっしゃるところまで」
叔父上が言うと、ルキノは擽ったそうな顔をする。
王太后陛下は、二人の祖母にあたる。
けれど、会いたがるのは肉親の情ばかりではないだろう。
ガドマールの王室は、純血主義で、しかも女王を認めていない。国王アンドレイ陛下には、王女三人しかおらず、純血主義のせいで側妃候補も限られる。
ルキノは十才。ユリア殿下より五才年下だが、政略結婚なら許容範囲だ。十七才で、まだ立太子されていない兄上なら、なお好都合だろう。
王配ではなく国王とするなら、現王との血縁が濃い方が望ましい。王の甥に当たる健康な二人の王子は、存在だけで外交の材料になる。
二人を同道させなかったのは、気が利かないどころか、意図的なものだったわけだ。
とはいえ、姫君方の年齢を考えれば、この状況は何年も続かない。あちらの後継者が決まってしまえば、血の繋がりを振りかざして外交を行うことになる。アンドレイ陛下がご健在のうちに、しっかり顔を繋ぎたいところだ。
*
ひとしきり騒いで、兄上とルキノは帰っていった。
叔父上はまだ部屋にいる。
場所は変えず、テーブルを片づけさせて、叔父上は話をしましょうと言った。
元々そのための茶会だったのだ。
「陛下から、養子の件はお聞きですね?」
給仕が下がり、室内にいるのが侍従や護衛だけになると、叔父上は口を開いた。
「一度、ちゃんと確かめなくてはいけないと思っていました。殿下ご自身、臣籍降下をご希望ですか?」
「もちろん」
希望しなくても、兄上がいる以上、そうなる。
けれど、降下先がガレー大公家なら、望外のことだった。
子供の頃から、何度も夢に見ているくらいだ。
夢の中の私は、叔父上を兄、その母君である大叔母上を母と呼んで、思うさま甘ったれて、我儘を言っていた。子供らしいとは、きっとああいうことだったと思う。
けれど、夢から覚めれば、私は両親からも同母姉妹からも遠ざけられた、小賢しい王子だ。
夢の中の幸福に焦がれるのは、仕方のないことだと思う。
それに、王妃殿下も、兄上もルキノも、きっと私がいない方が良い。
「今なら、リナルド殿下も立太子されてはいません。アルベルト殿下が王太子候補に名を挙げることもできます。それを望む勢力もありますし、ガドマールの後継問題に絡めれば、穏便にリナルド殿下を除くことさえ可能です」
叔父上の顔は、真剣過ぎて、意図が見えない。
「私は――私は、兄上に王位を継いでいただきたい。兄上こそ王の器だと思います。私はそうではありません。才を恃んで、大局を見失って、自滅するのが関の山です」
悔しいけれど、それが現実だ。
「殿下はまだ十二才です。今、それだけ分かっておいでなら、良い王になりうると考えますが」
「人の本質は、そう簡単に変わらないのではありませんか? 私は、叔父上のように、何か一つの分野を極めて、兄上を支えていきたい」
違う。
本当は、私は兄上を支えたいのではない。兄上や、ルキノや、王妃陛下に嫌われたくないだけだ。たとえ表面だけでも、家族として扱ってほしいのだ。
叔父上が長い溜息をついた。
今更、私は思い出す。
私が王を目指さなければ、叔父上は私に家督を奪われるのだ。
私は、誰かから奪わなければ、存在さえできない。
「ああ、もう。泣くことは無いでしょう」
苦笑交じりの声で、叔父上が言う。
言われて初めて、自分が泣いていることに気づいた。
「殿下がそのおつもりでいらっしゃるなら、安心です。当家の後継として、殿下を頂きたいと申し上げたものの、殿下が王位を望んでおられるなら取り下げなければならないと思っておりました。けれど、それを確かめられないうちにガドマール行が決まってしまいまして」
「叔父上が、望まれたのですか?」
私は呆気にとられた。
父上が押し付けたとばかり思っていたのだ。
「ええ。おそれながら、当家は貴族の筆頭です。万一の時には、王家に子女を差し出す家です。誰でも当主を務められる家ではないと、自負しております。殿下であれば、安心してお任せできますから」
「どうして。叔父上はまだお若いし、後継ならこれから――」
訊ねたら、叔父上は一瞬周囲に視線を走らせた。そうして、ちょっと悪い顔で声を潜める。
「殿下にはまだご理解いただけないお話かと」
侍従や護衛の耳さえはばかる話なのか。
何事だろう。いずれ話してもらえるのだろうか。
「さて。未来の愛息子殿に、父からお土産です」
叔父上の懐から、薄い四角い包みが出てきた。
「ガドマール王国の南端に、シアンニ教徒の国があったことはご存知ですね? そこに我々と同じランズ教徒も住んでいたことは?」
「奴隷、ですか?」
「いいえ。一般市民ですよ。大半がランズ教徒という集落もあったようですが、シアンニ教徒の中に混じって暮らしている人が多かったようです」
彼らは、その国、カシータ国が滅ぼされた後はどうなったのだろう。
けれど、叔父上の話はそこへは向かわなかった。
「彼らは、シアンニ教徒と同じシアノス語を使って生活していましたから、自分たちの神の教えも、シアノス語で子供たちに伝えていました。これはシアノス語の聖典の一部です」
叔父上は包みを解く。本が出てきた。黄ばんだ紙に、木版だろうか、黒いインクで書かれた、不思議な文字が並んでいる。
恐る恐る、私はその本を手に取った。
「文字の練習にも使ったのでしょうね。前の持ち主が練習した跡も残っていますよ」
そっと頁を捲っていく。
叔父上が言う通り、手書きの不格好な字が、色褪せながらも、頁の端にいくつも並んでいた。
見開きごとに入った挿絵は、きっと聖カイウスとその弟子たちだろう。私の見慣れた聖人像とは違う、まるで異教徒のような風貌に見えるけれど。
「今回の旅では、ガドマールの王都しか見られませんでしたからね。殿下に家督を押し付けて隠居したら、諸国を巡ってみたいと思っておりますよ」
叔父上は楽しそうに言った。
だが、今、押し付けると言われた気がする。いや、まさか。
「私も連れて行ってはくださらないんですか?」
試すように、甘ったれたことを言ってみる。
「ご一緒したいのはやまやまですが、大公位にあるうちは、物見遊山の余裕は無いかと」
今は叔父上に余裕が無く、叔父上に余裕が出来たら、私に余裕が無くなる。
「とは言え、何かとご同道いただくことはあるでしょうね。領地も放っておくことはできませんし、今回のように外交で国外へ出ることもありますから」
「楽しみです」
私がそう言うと、叔父上は自分もだと言ってくれた。それから、大叔母上も、私が大公家に入るのを心待ちにしていると。
信じても良いのだろうか。
「だから、殿下。泣くような話ではないでしょう」
叔父上が言う。
また私は泣いているのか。
どうか、まだ子供なので、許してほしい。
どうか、まだ子供なのだと、許してほしい。
読んでくださってありがとうございます。




