23.雪の日の客
ちょっと初心に戻ってみる。
やけに寒くて目が覚めた。
ベッドを抜け、暖炉の火を熾す。ショールをしっかり巻き付けて、窓の鎧戸を細く開けた。
刺すような冷気と一緒に、おぼろな光が射し入る。
雪だ。
窓の外では、夜闇を塗りつぶす勢いで、雪が降っている。
これは寒いはずだ。
私は鎧戸を閉め、灯りを点ける。
目はすっかり覚めてしまったので、ベッドに戻って借りた本を開く。
『博物誌』七巻。作者は街道を離れ、山道へ入ったところだ。
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この辺りの熊は人を襲わないという。
かつてガドマールのミハイル二世の王子が、謀反の疑いをかけられ、この地へ逃亡した。王子は追っ手を逃れるため、熊の毛皮をまとった。やがて追っ手が去っても、熊の毛皮を脱ぐことができず、その後を熊として生きた。
この地では、熊を撃つ際は、ガドマールの紋章である緑の羽飾りを銃に付ける。こうして、ガドマール人の仕業に見せかけるのだという。
住民には広く信じられている物語だが、信ぴょう性は非常に低い。
ミハイル二世には四人の王子があったが、みな夭逝しており、王位は唯一生き残った王女アリアズナが継承している。
緑の羽飾りは、おそらく弓矢で熊を狩っていた時代に、毒矢の矢羽根に印をつけていた名残りではないだろうか。
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信ぴょう性は非常に低い、なんてわざわざ書かなくても良いのに。それとも、書かれた当初は、こんな話でも本気で信じられてしまったのだろうか。
そんなことを考えているうちに、寝入っていたらしい。
目を覚まし、再び暖炉の火を熾こす。身支度をし、ショールを巻き付け、覚悟を決めて鎧戸を開けた。
窓の外は、案の定の銀世界だ。もう雪は降りやんで、雲の隙間から覗いた太陽が、積もった雪を煌めかせている。
窓から首を出して通りを見下ろせば、あちこちに雪かきの人が出ていた。この建物の前は、すっかり綺麗になっている。一階の文具店の人がやったか、それとも水銀の仕業だろうか。どちらにしても、実にありがたいことだ。
ジェラルディンの絵は、昨日のうちに届けたから、今日は出かけずに済む。
だから、一日中絵を描いて、ぬくぬくと過ごそう。
*
ヴァイオレットが現れたのは、午後、いきなりのことだった。
「サラ、遊びに来たわ」
満面の笑顔で告げる彼女は、質の良い毛皮の外套に、帽子、そろいのマフも付けていた。外套を脱ぐと、タンポポ色のドレス。大きく開いた胸元から、若々しい肌が覗いている。そして、昼の外出にはそぐわない、大ぶりの宝石。
パトロンが付いたのだろう。上から下まで、あからさまにお金のかかった装いだ。でも、シックではない。
初めて会う女が付き添っているが、服装には何も言わないのだろうか。それとも、これがパトロンの趣味なのか。
危なっかしいな、と思った。
「今日はどうしたの?」
私は訊ねる。
水銀が熱いスパイス茶を淹れ、ヴァイオレットの手土産のケーキを出してくれた。部屋の隅のソファに腰掛けたお付の女にも、熱い茶とケーキが供された。
「自由の身になったから、報告よ。女将さんったらね、足を洗うまでは、サラに会っちゃ駄目って言うの。あたしが、一番乗りね」
「そうだったのね。ともかく、おめでとう。お祝いしたいけど、何が良いかしら?」
あまり高価な物は無理、と告げる前に、絵を描いてくれと言われた。
「今の、ちゃんと服を着てる私をお願い」
ヴァイオレットは笑う。
「サラが描いてくれる絵は、鏡を見て、今日は可愛い、綺麗、って思う時の顔なの。アイリーンとも話したのよ。実物より美人に描かないけど、一番素敵な時の顔に描いてくれるって」
「ありがとう。モデルにそう言ってもらえると、本当に嬉しいわ」
「ただね、アイリーンは大変だったんだって。あんたが、あんな綺麗な脚を描いたから、踏まれたがるお客さんが増えちゃって」
「そりゃあ、また」
ちょっと申し訳ないような、そんなこともないような、妙な気分だ。
ともあれ、描くと決まれば、気取っている場合ではない。
「貴女はゆっくりどうぞ」
そう断ってから、私は残ったケーキを二口で平らげ、お茶で流し込む。
「今日は時間はあるの?」
「ええ。今日は休演日なの。それから、あと十回で千秋楽。そこから次の芝居にも声をかけてもらえたから、稽古に入って……」
良かった。見た目に反して、この子は地道に進んでいるようだ。
画架を立て、画帖を置く。その間に、ヴァイオレットはケーキを食べ終えてくれた。
そうして、小首をかしげるように頬杖をつく。両腕でさりげなく胸を寄せた。可愛らしくて、エロティック。あざとい。さすがだ。
さあ、手を動かせ。
「頑張ってるのねえ」
「頑張らなくちゃ、どうしようもないの。だって、あたしが一番下手くそなんだもの」
ポーズを取ったまま、ヴァイオレットは長い溜息をついた。
「声量が無い、発声がなってない、動きが大げさ過ぎる。でも、小さく動いてちゃお客さんに分からないし」
ちょっと話題になってるだけの素人に、ちゃんと助言をしてくれる人がいるらしい。それは、得難いことだ。
と思っていたら、ヴァイオレットがソファの方を見る。お付の女に、水銀が毛布を掛けてやっているところだった。暖かい部屋で、体を温める茶を飲んで、眠ってしまったらしい。
「よくお休みですよ」
下がり際、水銀がヴァイオレットに声をかける。ヴァイオレットは小さく笑った。
「あたしの、パトロンが付けてくれた人なの。あたしがこんなだから、いろいろ気を張って疲れてたのかしらね? 別に、パトロンに知られて困ることなんか無いんだけどね。……あのね、女将さんたら、あんたのことは色街から遠ざけてるでしょ? あたしにはね、困ったらいつでも戻っておいでって言うの」
ヴァイオレットは言う。
「あんたは、好き合った人と一緒になるために出てったけど、あたしは、出て行くためにあの人と一緒になったから。女将さんの言うことは、そういうことよね。彼も、きっと、あたしのこと飾り物か何かのつもりよ。名前が売れてるうちはお金をかけてくれるけど、そうじゃなくなったら、もう要らなくなっちゃう。そりゃあね、あたしだって、彼が破産とかしたら、さよならすると思うから、お互い様なんだけど」
ヴァイオレットは、柄にもなく難しい顔をした。そうして、問わず語りにパトロンの話をする。
彼女より二十も年上の、成金の商人であること。お腹は出ていないこと。初舞台の後で、別の踊り手のパトロンを通じて、ヴァイオレットを誘ったこと。即金で借金を返し、高級住宅街である糸杉通りにある部屋に住まわせてくれたこと。舞台が終わると、高級なレストランに連れて行ってくれること。それから、彼女のことを、芸名でもある「ルビカ」としか呼ばないこと。
「それからね、川沿いの大通りの、カリヨン商会で、レースのハンカチを一ダースも買ってくれたわ」
「こんなに早く買いに来るなんて、お店の人も思わなかったでしょうね」
そうね、と、ヴァイオレットは笑った。
私だって思っていなかった。
一緒に店に入って、ヴァイオレットが「ここで買い物する」と宣言してから、まだ一月も経っていない。
あまりにいろいろなことがあったから、遠い昔のような気さえするけど。何しろ、あの日のヴァイオレットは、ただ売れてるだけの娼婦だったのだ。私の髪も長かった。
「本当に、凄いわ、貴女」
さて、ここでちょっと休憩。そう言うと、ヴァイオレットは大きく身をよじり、伸びをした。続いてこちらへ寄って、画帖を覗きこむ。
「まだ顔は描いてないのね」
「ええ」
「ね、あたし、幸せそうに見える?」
そんなことを訊かれても困る。
困るということは、幸せそうには見えていないということだ。
でも、不幸にも見えない。
「あたし、分からないの。どんどん分からなくなってきたの」
こちらの手が止まっているのを良いことに、ヴァイオレットは涙目になってしまった。
「絶対、娼婦には戻りたくないの。でも、店のみんなが恋しい。店にいた時は、間違ったら誰かが教えてくれたでしょう? 女将さんでもマイラ姐さんでも、フランツでも、抱え妓の誰かでも。でも、今は、あたし、自分で考えなくちゃいけない。あたし、馬鹿なのに」
「馬鹿はみんな一緒よ」
ほら見ろ、馬鹿な相槌を打ってしまった。
ここは先輩らしく、何か良いことを言わなくては。
「ええと、ね。ヴァイオレット、芝居は楽しい?」
「ええ、楽しい。こんなに楽しいと思わなかった」
「だったら、大事にしてね。いや、私が言えたことじゃなかったわ」
何しろ、絵でやっていこうとして、騙されて売られたのだ。それも、ちょっと分別があったら、嘘だと分かる話だった。
芝居が一番なのは良いけど、そこを付け込まれるのは駄目なのだ。
「ええとね、うまい話って無いから。貴女のこと、店のみんなみたいに叱ってくれる人がいたら、よく話を聞くのよ」
「……うん」
あまり良い話にはならなかったが、ヴァイオレットは頷いてくれた。
ここで、休憩を切り上げ、元通りにポーズを取ってもらう。ちゃんと元通りのポーズだ。
初めて彼女を描いた時は、休憩の度に前と違うポーズになってしまって、ずいぶん苦労した。
「新人でも役者さんね。ちゃんと、さっきと同じポーズになってるわ。『ルビカ』の時は散々だったのに」
「ありがとう。でも、あの時は、ポーズが難しかったのよ」
そう。色っぽく見せるのが重要だったから、不自然に体をひねって乳房をつきだしてもらったりしたのだ。おかげで、彼女がじっとしていられる時間も短くて、何度も休憩を入れなくてはならなかった。
「あんたも、あの時に比べたら、絵描き先生らしくなったんじゃない?」
ヴァイオレットが笑った。
そう、私もだ。
小さな挿絵の仕事はあったけれど、本格的に絵を描かせてもらえるようになったのは、あの時だった。
「態度だけご立派になってたら嫌だわ。貴女に比べたら、ちっとも上達してないんだもの」
ついため息が漏れた。
「あんたも、自分はまだまだと思うの?」
「そりゃあ、本物を見ちゃえばねえ」
故郷で見たパーヴェル先生を始めとする大家の作品、古写本の挿絵、聖堂の壁画……。
比べるところにさえ、私はまだ立てていない。
「お互い、先は長いってことね」
ヴァイオレットときたら、ため息をつく姿さえあざとい。
画帖の中のヴァイオレットも、だんだんそれらしくなってきた。
可愛くて、無邪気で浅はかで、幼いのに色っぽい。『ルビカ』の頃よりも、目に力が宿っている。
この子が幸福にも不幸にも見えないのは、きっと、そんなことを感じる暇もないくらい、必死だからだ。
いい顔をしている、とても。
やがて出来上がった下絵を見て、ヴァイオレットは照れたように笑った。
読んでくださってありがとうございます。




