24.人でなしの連れ(無糖)
直截的な描写はありませんし、登場人物がするわけではありませんが、自殺に関する話題が頻出します。
苦手な方は、どうかお気を付けください。
(ここを読まなくても、以後の展開に大きな影響は無いはずです)
大女優ジェラルディン・ルゥルゥは、演じている姿を描かせるのを、気に入ったらしい。
清書した絵を受け取ると、そのまま私を引き留め、弟子の役者四人に賞金付きの課題を出した。
普段着、台詞無しで、役になりきってポーズを取り、私に肖像を描かせる。私は、こうだろうなと思ったものを描く。衣装も、貴族風とか、商人風とか、当たりをつけて、それらしく。そういう木炭デッサンを四人分描いて、銀貨一枚が私の報酬だ。課題の出来次第で、ジェラルディンから役者へ、最大で大銀貨一枚のご褒美が出る。
ミケーレ・ベンゾは、この課題に参加した一人だ。弟子入りしてから、まだ一年足らずだという。
年は私と同じ二十三才。舞台映えしそうな長身、黄金色の豪華な巻き毛に、澄んだ青い瞳の美青年だった。
課題が始まると、だらりと座り、気だるげにこちらへ視線をよこす。
疲れている役らしい。昨夜は遅くまで夜遊びをしていた設定だろうか。疲れていても、彼はどこか軽やかだ。湿り気とか、翳りが無い。きっと、お金に困ったことのない、苦い恋も知らない、裕福な青年の役なのだろう。育ちは良さそうだが、気品とか貫録があまり感じられないから、上位貴族ではなさそうだ。
書き上げた絵をジェラルディンに渡し、眠そうとか、悩みが無さそうとか、訊かれるままに思っていたことを答える。私が口を開くたびに、ジェラルディンの横から絵を覗き込んでいたミケーレが、頭を抱えた。それを見て、他の役者たちが、「いいよ、いいよ」「よくなってきた」と茶々を入れる。
彼が演じていたのは、破産して命を絶とうとしている若い商人だったのだ。
と言っても劇は喜劇で、彼は死のうとするたび、他の誰かを助けてしまう。もちろん、最後には助けた人々に救われ、美しい花嫁も得る。そういう物語だと思うから、きっと軽やかさ、晴れやかさが出てしまったのだろう。本人の資質もありそうだったけど。
*
アカシア通りの私の住処に、ミケーレが現れたのは、稽古場で初めて会った数日後の午後だった。
「こんにちは。寒いから、温かいお茶を飲ませてください。あと、何か食べさせてもらえるとありがたいな」
図々しいことを言いながら、彼は女性を一人連れ込んだ。三十代半ばから四十才くらいだろうか。服装を見たところ、そこそこ裕福な商家の夫人といったところだ。
少し寂し気で、派手さは無いけれど、整った顔立ちの人だった。体つきも、年齢の割に崩れていない。柔らかく熟しきった果実のような、官能的な体をしている。顔と体が、何だか不釣り合いに聞こえるかもしれないが、それが堪らないという層は少なくない。堅気の奥様を、娼婦目線で値踏みするのは申し訳ないけど。
それはさておき、ミケーレのファンだろうか。だが、贔屓の役者に連れられているにしては、なんだかぼんやりしている。
「どういうこと?」
「寒いと悲しくなるじゃない。そのうえ、お腹まで空いたら、ろくなこと考えないでしょ」
答えたミケーレは良い笑顔だ。
そうして、私もようやく異状に気づいた。この寒いのに、彼女は外套を着ていない。
「……ホットワインで良い? せめて事情を説明して」
とにかく二人にテーブルについてもらう。声をかけるまでもなく、水銀が厨房へ向かい、すぐに生姜と蜂蜜を入れたホットワイン、それからビスケットを用意してくれた。
「どこか寄れないかと思ったら、ここを思い出したんだ。アカシア通りの文具店の上だって、先生が言ってたから。いやあ、助かったよ」
言いながら、ミケーレは甲斐甲斐しく女の手にカップを持たせ、口元に運ばせる。「熱いよ」と囁くのも忘れない。
私は頭を抱える。
「その説明では、さっぱり分からないわ」
「実は俺も分からないんだ。知らない人だもん。それで、話を聞かせてほしいなと思って」
ね、とミケーレは女性に微笑みかけた。
「貴女、どうして死のうとしたの?」
なるほど、腑に落ちた。自殺志願者を見かけたから、放っておけなかったのか。巻き込まないでいただきたかったが、うちが一番近かったのだろう。
「水を覗き込んで、どんなこと考えてた? 怖かった? 教えてよ。死ぬんだったらさ、その前に俺に演技のヒントを頂戴」
親切かと思ったら、とんでもない人でなしだった。
「何も」
女は答えた。
答えちゃうのか。
「何もよ」
言いながら、女の目から涙がこぼれた。ミケーレの目が輝く。この男、本当に人の子か。
「何も変わらないもの。死んだところで、同じだもの」
そう言って、女は嗚咽を漏らした。カップを持ったままの手が震え、熱いワインがこぼれる。
慌ててカップを放させ、声を上げて泣きじゃくる彼女を台所に連れて行った。幸い火傷とまではいかないようだが、赤くなった手に、冷たい水をかける。
「つめたい」
嗚咽の合間に、女が呟く。
「そうね。冷たいわよね。痛くはない?」
繰り返し水をかけるうち、念のためと言って、水銀が軟膏を持ってきてくれた。リネンで女の手を丁寧に拭い、軟膏を塗る。
「……ごめんなさい」
女が言った。
何と答えていいのか分からないので、とりあえず肩をすくめておく。
「それで、その、ここはどこでしょうか」
どうやら正気を取り戻しつつあるらしい。
「アカシア通りです。私はサラ。ここに住んでる半人前の絵師です」
「絵描きさん……?」
ものすごく不審げに女は私を見る。
女で職業画家なんて、私も聞いたことが無いから、まあ、仕方のないことだ。
「ええと、その、半人前で、良いとこの奥様のお目に触れるような仕事はしてないんです。とりあえず、戻りましょう」
女を促し、応接間へ戻る。ミケーレは大人しく座って、一人でビスケットを摘まんでいた。溢したホットワインは、きちんと片づけられている。
「分かります? 貴女をここへ連れてきた人」
ミケーレを示すと、女はぼんやりと頷く。
「俺は、ミケーレ・ベンゾ。役者をやってる。自殺志願者の演技をしていたら、このサラさんに眠そうとか浮かれてるとか言われてさ。本当に自殺しそうな人ってどんな感じかと思って、手招き堀で見張ってたら、貴女が来たってわけ」
手招き堀というのは、後で聞いたことだけど、入水の名所なのだそうだ。この部屋からは、歩いて五、六分のところにある。
「……止めてくださって、ありがとうございます」
女が目を伏せる。
「お礼を言われることじゃないよ。自殺する時のことを、詳しく訊きたかっただけだからさ」
本気とも冗談ともつかない口調で、ミケーレは言った。
「申し訳ありません。……よく、覚えていないのです」
女は俯く。ミケーレがたたみかけた。
「じゃあさ、理由は? お金? 男?」
「ちょっと、その訊き方は無いわよ」
思わず口を挿んでしまった。
「でも、そんなもんじゃない、理由って」
ミケーレは唸る。
残念ながら、そうではなかった人を、一人ならず見知っている。娼婦でいることに耐えられなかった人だ。
順応しているように見えた人が、前触れもなく、突然一線を越えてしまう。〈フィオナの家〉でさえ、そういう人がいた。
「……他人を殺すより、自分を殺す方が、複雑な理由が要るのかもしれないわよ」
どうして、あのタイミングだったのだろう。
どうして、あの妓たちに出来て、私には出来なかったのだろう。
何が分岐点だったのか、今も分からない。
生き延びて良かった、それだけは分かっているけど。
「男です」
女が告げた声は、しっかりしていた。
「主人が、実の娘より若い使用人と浮気をしていました。私が目を掛けていた娘と。これまでにも、女はいました。でも、相手は玄人で、家には持ち込まなかったのに」
「貴女のプライドを傷つけられたってこと?」
人でなしの問いに、女は頷いた。ミケーレは首をひねる。
「初めてご主人の浮気を知った時は、死にたくはならなかった?」
「息子が生まれたばかりだったので」
訊く方も訊く方だが、答える方も答える方だ。
いや、言葉にすることで、心を整理しているのだろうか。
それにしても、最低な旦那である。
今の身なりからの想像だが、専属の乳母を雇うほどの家ではなさそうだ。赤ん坊の世話は、ほとんどこの人がしていたのだろう。産後で消耗した妻が、さらに身を削っている時に、浮気か。
そういう亭主に稼がせてもらっていたのだから、腹を立てられる立場でもないのだけど。
「繰り返されるたびに、じわじわ効いてきた感じ?」
ミケーレの問いに、女は首を振った。
「だんだん慣れて、どうでもよくなりました」
「じゃあ、やっぱり使用人に手を出されたのが一番嫌だった?」
女はぼんやりと宙を見る。
「いいえ」
女の顔から、生気が失われていく。
「いいえ」
代わりに広がっていくのは、絶望だろうか。
「じゃあ、俺、稽古があるから帰るね。ありがとう、ごゆっくり」
ミケーレが立ち上がる。
「この人でなし」
怒鳴りつけるが、人でなしは振り返りもしないで去っていった。奴の体に流れる血は、何色だろうか。
「ここは、私とあの人だけですから、どうか、御遠慮なく。ゆっくりなさってくださいね」
あの人、と言いながら、私は水銀に視線をやる。
「ご主人は?」
女が訊ねる。
「仕事で旅に出ております」
嘘ではない。
少なくとも、「私は愛人なので、主人はここには住んでません」というよりは良いだろう。
元娼婦で現愛人なんて、この女にとっては敵だ。
「お子さんは?」
「おりません」
そもそも作るなと言われている。
あの人といたければ、従うしかない。
すると、彼女の目から涙があふれだした。
いや、今の流れでは、泣きたいのは私の方ではないのか。
「私、子供は二人産みましたの。十七で、息子を産んで、十九で、娘を、産んで。そうして、先月、娘が、十九で、女の子を……産みました」
自慢かな? 羨ましい。
でも、女はずっと泣いている。
「私、お祖母さん、なの。もう、女、じゃない。娘が、できてから、ずっと、ずっと、女じゃ、なかった。もう、二度と、女に、なれない」
意味が分からない。
いや、言っていることは分かる。
ずっと、夫に相手にされていなかったところに、孫が生まれた。もう、女として求められることがないのだと、そういう話だろう。
そして、こちらの方が、浮気よりも彼女を痛めつけたのではないか。
でも、こんなに色っぽい体をして、現役でないだと?
建前上、堅気の女が、夫以外の男とどうこうなることはあり得ない。でも、建前を取り払ったところで、そんな機会はほぼ無い。
私が悪い人だったら、「ときめきとスリルを味わいませんか?」とか言って、秘密の売春に誘うところだ。素人の女性がこっそりそういうことをする店が、この都にもたくさんある。そこから始めて、趣味が本業に変わってしまって、娼館に沈んだ人を何人も見た。
でも、自殺するくらいなら?
いや。
身持ちの悪い女、という噂一つで、女は人として扱われなくなる。夫が不貞をしようと、妻を殴ろうと、世間は寛容だ。でも、どんなひどい夫に苦しめられていても、妻が夫以外の男とキスの一つもしたら、妻が全て悪いことになる。
「そんなにお綺麗なのに」
悪人になれるほど賢くないのは自覚している。だから、私はおためごかしを言うしかない。
「貴女には、分からないでしょう。若くて、綺麗で、結婚もしていなくて」
女は泣きながら言う。愛人であることはばれていたようだ。
「子供にも、家にも、縛られてない」
それにどれだけ縛ってほしいか、言ったところで分かるまい。
「貴女の男は、喜んで貴女を抱くんでしょう? こんな部屋までくれるくらいだもの。よほど結構なんでしょうね。いい気なものよ、奥さんが、どんなに泣いてるか知りもしないで」
八つ当たりされている。
「悪いけど、私のあの人は独り身よ」
それ以上は、口を噤もう。
ああ、あの人でなしのミケーレ・ベンゾ、今度会ったらただではおかない。
「ああ、そう。妻の座の代わりに、画家なんて御大層な肩書をくれたわけ。そこまでして寝たい女だって言いたいの」
言いたいわけあるか。
八つ当たりするなら、もう帰れ。
でも、ここを出た足で死なれては、それこそ寝覚めが悪い。
「……絵師には自分でなったのよ。銀貨一枚で、娼婦が名を売るための、裸の絵を描いてきたわ」
そう言った途端に、女は立ち上がり、後退りした。
「……来ないで」
脱がされると思ったのか。それとも、娼館に売られるとでも思ったのか。
「大丈夫よ。モデルには不自由してないの」
今は主に静物を描いてるから。
「お掛けなさいよ。何なら、煮立ててないワインを出しましょうか? 使用人に手を出すのに比べたら、昼間から酔っぱらうくらい大したことじゃないでしょ」
言っている傍から、水銀が女の前になみなみ注がれたワイングラスを置いた。私には無い。
立ったままで、女は、一息にワインを乾した。
「銀貨一枚よね」
女は腰に付けていた小さな巾着から、銀貨を一枚出して、テーブルに置いた。
そうして、景気よく服を脱ぎだした。あれもこれも床に放り出すのを、水銀が集めてたたんでいく。
「貴女、さっきは怖がってたじゃない」
「うるさい。娼婦みたいに描いて。百人の男に体を売ったみたいに描いてよ」
完全に自棄を起こしている。
それにしても、剥き出しになった女の体の、何と美しいことか。
張りは無い。豊かな胸だって垂れ気味だ。下腹もふっくらとしている。それでも、抱き着いたらそのまま包み込まれてしまいそうな、柔らかそうな肌の美しさときたら。
私は、水銀に画架を持ってくるように頼んだ。
「……ソファに行って」
肘掛に女の背を預け、クッションで当たりを整え、体重を支える。片腕を背もたれにかけ、もう片方はだらりと下ろす。足は背もたれ側を肘掛に載せ、手前は膝を立てさせた。
「ざまあ見ろ。私、こんなこともできてしまうんだわ」
女は声を上げて笑う。嬉しくてたまらないというように。
娼婦もへったくれもない、裸婦としては一般的なポーズだけど。でも堅気のご婦人は、普通裸婦のモデルなんかしない。
本人が良いと思うのだから、まあ、良いだろう。
「私、こんな女なんだわ」
うっとりと、女は呟き、擽ったそうに笑う。
その官能的な笑みを目に焼き付け、私は描き始めた。
とはいえ。
そんなにきついポーズではないけど、じっとしているだけで疲れはする。おまけに、体がきつくなるにつれて、だんだん理性も戻ってきたらしい。
自分がとんでもないことをしていると、女は気づきつつあった。
休み休みになるのがもどかしかったが、それでも急いでデッサンを終える。
「もう服を着て大丈夫よ」
そう言うと、女はこちらに背を向け、急いで服を身に着けた。
「もう一杯ワインを飲む?」
「……いただきます」
女は言い、出されたグラスをまた一息に乾した。水銀が注ぎ足すと、それも飲み乾した。
大丈夫だろうか。
そう思ううち、デッサンの時と似たようなポーズで、ソファで眠ってしまった。
とにかく、この隙に仕上げてしまおう。
彼女も名乗りたくないだろうから、帰りに渡せるようにしなければならない。
いつものように、間をおいて頭を冷やしてから、仕上がりを確認するのは無理だ。
インクの清書を終えた時は、冬の短い日はすっかり傾いていた。
女はまだ寝入っている。
女の家では、彼女を探してはいないだろうか。
他人事ながら、少し心配になる。けれど、少しくらい家の者を困らせてやれとも思う。
でも、それを決めるのは本人だ。
「奥様、奥様」
揺り動かすが、女は目を覚まさない。ずいぶん呼んだが駄目だ。
この「起きない」を、本人の選択として良いだろうか?
私は納得したことにして、同じ下絵から、着衣のペン画を描き始めた。
日が落ち、二枚目もあらかた描きあがったところで、女が目を覚ました。
「できてるわよ」
女に声を掛ける。
「夢ではなかったんですね」
「お生憎様」
着衣と裸像のそれぞれを見てもらう。
「綺麗でしょ?」
女は答えない。
インクがちゃんと乾いているのを確認してから、着衣の方を上に、二枚を重ねて、額に入れる。
「額縁はおまけよ。持ち歩きやすくなったでしょ?」
二枚目の、着衣の絵もおまけだ。
銀貨一枚ではまったく割に合わないけど、堅気の人妻が、自分の裸像をそのまま持ち歩くわけにもいくまい。
「私、綺麗だったのねえ」
女は呟く。
「そうよ」
頷いてやれば、女は、もはや見慣れてしまった、蕩けるような笑みを浮かべた。
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