さあ、ここから出よう
これにて完結。
いつまで待っても想像していた痛みは襲ってこない。
不思議に思って目を開けると、さっきまでいなかった人物が目の前にいた。何があったのか、鞭を振り上げていたはずの監督官は床に倒れている。どさっという音がしたのは彼女が倒れた音だったのだろう。
「大丈夫か、イスタ」
その言葉でやっとわたしは突然現れた男がカーシュだとわかった。声がカーシュの声だったし、わたしをイスタと呼ぶのは今では彼だけだ。
薄暗い地下牢を蝋燭の明かりが照らしている。こうして、明るい場所でカーシュに会うのは初めてだと今さらながらに気づいた。思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
いつも頭のなかで思い浮かべていたより平凡な顔立ちだ。
きっと美形だなんて思い込んでいたつもりはないのだけれど、想像のなかで少し美化しているところはあったかもしれない。高くも低くもない身長もあって、大勢のひとがいるところに紛れ込まれたら見つけるのが大変そうだという感想を抱く。一目見て危険な相手だとわかるような姿を想像していたから、あまりにも普通すぎるカーシュの容姿にはいささか拍子抜けしてしまった。はっきり言って地味な男だ。
黒と灰という目立たない色が主な服装だけが想像通りで、しかし、それがかえって彼の地味さを増している気がした。まあ、色彩豊かな格好の暗殺者なんて相手がカーシュじゃなくても想像がつかないのだけれど。
茶髪茶目なんてどこにでもある色味で、何も珍しくないのにまるで初めて見たような感動が心のどこかにある。ありふれた焦げ茶の髪に触れてみたいと思うのはなぜだろう。
心の赴くままに手を伸ばそうとして、じゃらりという音に邪魔される。枷が付いているのをすっかり忘れていた。
「すぐに外そう」
そう言って、カーシュはわたしを繋ぐ鎖に手をかける。ぼうっとそれと眺めていたわたしはハッとして今の状況を思い出した。
「カーシュ、よね? どうしてここに?」
喋ると口の端がぴりっと痛む。どうやら切れているようだ。頬を打たれたときに切れたのだろう。
血でも付いていたのか、カーシュの指先が拭うように口元に触れた。そういえば、彼に触れられるのは初めて会ったとき以来だ。正確には首へと伸びた手をわたしが止めたので触れられるのは実際はじめてに近い。
「些細な嫌がらせならともかく、惚れた女が鞭打たれるのを見る趣味はない」
「……そう」
攫いに来てくれたのかと思ったのに。
ここから逃げるつもりなんてさらさらないくせに、不満げにそんなことを思う。自分勝手なものだ。
「殺したの?」
床にうつ伏せで倒れている監督官に目をやって尋ねるのに、自然と身体が強張った。
「いや、気絶させただけだ」
そんなわたしの緊張に気づいているのかいないのか、カーシュはさらりと答える。視線の先にあるそれが死体ではないとわかってちょっとだけホッとした。嫌いな相手ではあるけれど、ひとの死をそこまで軽くは考えられない。
「殺してほしいのか?」
見た目以外は普通じゃない男は、知らず知らずのうちにわたしのうちからこぼれてしまった溜め息を別の意味に解釈したらしい。
「しかし、この場で殺すとなると面倒だな……後日でいいか?」
何も答えずにいると監督官の殺害が決定してしまった。慌てて否定の言葉を口にする。
「とにかく、誰も殺したりしなくていいから。というか、監督官を気絶させたりして大丈夫なの?」
「何がだ?」
「だから、ここへ来たことがバレたりとか……暗殺者なんでしょ? まずいんじゃないの?」
カーシュには自分が後宮に入り込んでいる暗殺者だという自覚がないようだ。警備の人間に見つかったら捕まるということもわかっていないのだろうか。
「まずくは……ないこともない」
「どっちよ」
「大丈夫だ。殺していない限りは見逃される」
どういうことなのだろうと気になったが、わたしが疑問を口にする前にカーシュは言葉を続けた。
「さあ、ここから出よう」
「ここ? でも……」
失態を犯して罰を受けるはずの奴隷が監督官を気絶させて地下牢から出る――気絶させたのはわたしではないとはいえ、このまま無事に済むとは思えない。でも、いつまでもここにいたって変わらない気もする。ここにいてもいなくても、重い処分を受けることになりそうだ。
「国王から許可はもらっている」
国王? カーシュは何を言っているのだろうか。
「イスタ。今日、俺はお前を後宮から連れ出す――お前が望んだように」
そっと壊れやすい物に触れるような手つきで抱き上げられる。
カーシュはその体格に似合わず結構な力持ちらしい。危なげない足取りでわたしを地下牢から運び出す様子は暗殺者というよりお伽話に登場する騎士のようだ。
まだ日は高く、地下牢から出ると太陽の光が眩しく感じられる。悲しくもないのに涙が滲んだのは、きっと太陽が眩しかったせいだろう。
「最初からこうしていれば良かったんだ」
ぽつりと上から落ちてきた呟きは囁くような声音で悔いるように苦いのにどこか甘く聞こえる。それは、きっとわたしがカーシュと同じくらい愚かになってしまった証だ。
ひと一人抱えているとは思えないほどの軽快さで、カーシュしか知らないらしい道を通り後宮から抜け出した。
腕のなかから振り返って見た後宮は思っていたより小さくて、もう二度と生きて出ることはないと思っていた場所がひどくちっぽけなところになってしまったように感じる。解放された、その実感が湧くのはもう少し先だろう。いきなり訪れた自由を手放しで喜ぶには不安要素がありすぎるし。
それでも、救われたことだけは確かで。
この先に何があっても、わたしはカーシュに救われた。この物騒な救い主に。
◇◇◇
あれからあっという間に二月が過ぎて、後宮にいた頃が嘘のように穏やかな日々が続いている。危険なことがまったくなかったとは言わないが、わたしが死を覚悟するほどのことは起こらなかった。
カーシュに連れ出されてから色々あったけれど、変わったことはそう多くない。とりあえず、わたしと彼の関係が恋人に落ち着いたくらいか。
わたしが奴隷じゃなくなったりカーシュが仕事を辞めたりなんてことはなくて、今もわたしの身分は奴隷のままだしカーシュも暗殺者のままだ。どう考えても先がないのだけれど、それでも不安に思わないのはカーシュの馬鹿がうつったせいだとわたしは思っている。攫うように連れ出されたときに賢明さとか思慮深さとか慎重さとか、そういったものは全部置いてきてしまったに違いない。
「お、美人のお嬢さん。今日は買って行かないのかい?」
肉屋の店主がそう声をかけてくる。昨日同居人が狩ってきた肉があるから今日は買わないと答えると、残念だと言って笑った。
市場のあちこちで似たようなやりとりが聞こえる。少し離れた場所で話している女性たちの会話からすると、今日は向こうの通りの店が安いらしい。こっちでの用を済ませたら行ってみよう。
自由に市場を歩くわたしを奴隷だと思うひとはいないだろう。
奴隷というのはそれ専用の首輪を付けているものだ。だから、それがないとパッと見では平民と大差ない。というより、わたしは一見して貴族だとわかる――貴族にしか見えない容姿をしているので、平民らしい格好をしていても貴族のお忍びかどこぞの庶子、落ちぶれた貴族だと思われるようだった。落ちぶれた、というのもあながち間違いではないので聞かれたら曖昧に濁すようにしている。隠すより匂わせるくらいの方が詮索されないらしい。
今のわたしの身の上を示す奴隷の証は背中の焼き印くらいで、それもカーシュの手を借りてわかりにくくしているから、衣服を剥がれても背中に大きな火傷の痕があるとしか思われないはずだ。
実のところ、奴隷だと知られる以上に元宰相アラーロイスル・ロタの娘だと知られる方が怖かった。
まだ小さかった頃に一度後宮を逃げ出したときの恐怖はわたしに染みついていて、あれから何年も経っているからロタの娘の顔を覚えている人間の方が少ない――それに後宮の外で、成長したわたしの姿を知っているひとはさらに少ない――とわかっていても、あのときのようにすぐに見つかってバレるのではないかと不安になってしまう。しかし、敢えて家名付きで名前を名乗りでもしない限りはバレないとカーシュが言う通り、こうして外を自由に出歩いていてもわたしが恐れるようなことは一度も起こっていない。
カーシュの拠点の一つだと言う家で暮らし始めて二週間ほどは外に出られなかったけれど、今では顔を晒して通りを歩くことにもだいぶ慣れた。
ただ、フードを被らずに出歩くと変なひとに絡まれる回数が増えるのが難点で、そのぶんフードを被っているときより怪しくないからか、買い物のとき店のひとがおまけをしてくれることが多くて助かる。値切り交渉を楽しんでいる辺り、わたしもすっかり庶民に染まってきているのだろう。
今日の夕食は何にしようかと考えながら歩いていると、前から来た男にどんっと肩がぶつかった。避けようと動いたのにぶつかったから、たぶん相手が故意にぶつかってきたのだろうと思う。
絡まれると面倒だ。逃げてしまおうと足に力を入れると、それを察知したらしい男が行く手を塞いだ。絡まれると面倒、ではなくもうすでに絡まれていたようだ。やっぱりぶつかられたら終わりなのかもしれない。なんという罠か。
「おいおい、ぶつかっといて無視する気か? ひでーな。詫びに俺に――」
男の言葉が不自然に途切れる。
驚いたように目を見開く男の視線の先に誰がいるかはなんとなく予想がついた。うん、よくあるよくある。いつものことだ。
「カーシュ……仕事じゃなかったの?」
「終わった」
「ふうん、早かったわね。それで、仕事が終わったから荷物持ちに来てくれたの?」
カーシュはわたしの言葉にこくりと頷いて、いまだ固まっている男の方を見た。とくに厳つい見た目をしているわけでもないカーシュに戦いているということは、彼の発する殺気とやらでも感じたのか、それとも見てはならないカーシュの登場を見てしまったのか。
武の心得なんてまったくないわたしの目では彼の動きは捉えきれないときがあるので、もし男がそれを見られたなら彼はただの破落戸ではないということになる。そう、ただの破落戸ではなくちょっとすごい破落戸だ。
「殺すか」
わたしに問いかけているようだが、本当に尋ねてくるときとは言い方が違う。この言い方だとほぼ断定だ。
どうやらカーシュとしてはこの男を殺したいらしい。おそらく、男がわたしの腕を掴んでいるのが気に障ったのだろう。肩がぶつかったくらいではそこまで怒らなかったはず。
後宮から連れ出してくれた後も、カーシュはことあるごとに誰かを殺すかと問うてくる。そういうところ、どうにかならないかなと思うけれどたぶん今さらどうにもならないだろう。ほとんど性格の問題だ。
こういう、彼の物騒なところには相変わらず慣れない。ひととして慣れてはいけない気もする。
「好きにしたらいいと思うけど」
「そうか」
おい、そこで嬉しそうにするな。
「でも、わたしは買い物がしたいから……もしやるなら先に行ってるわよ? あーあ、たまにはカーシュと一緒に歩きたかったのに、残念」
「俺も行く」
すかさず返ってきた言葉に思わず笑ってしまった。
カーシュは物騒な思考回路の持ち主で常識もないけれど、それなりに扱いやすい男ではある。
意外に素直で、わりと単純。そういうところは嫌いじゃない。複雑で理解できなくてぞっとするような部分もないわけではないが、それをわたしに向けないので気にしない。わたしもそこまで繊細じゃないし。むしろ図太い方だという自覚がある。
「本当に? 良かった。じゃあ、一緒に行きましょうか」
大通りに新しい店ができたという話をしながら、カーシュから顔を逸らさずに破落戸の男の方にひらひらと手を振ってやる。今のうちにさっさとどこへでも行け、という意味だ。それは正しく伝わったらしく、視界の端で男が一目散に逃げて行くのが見えた。
「わざわざ話を逸らさなくてもイスタが嫌だと言えば止めたが」
「嘘つき。それに、わたしが庇うと不機嫌になるでしょ?」
「それは否定しない」
恋人同士の甘い会話……というには少々物騒だが、わたしたちはこれくらいでいいのだろう。出会いからしてなかなかに物騒だった。
「ちょっと過剰だった気もするけど……助けてくれてありがとう、ハジュカーシュ」
微笑みながら言うと、胸を押さえて“どきっとした”なんて呟く――そんな、馬鹿で物騒な男がわたしの唯一の救い主。
いつも救われていて、これから先も何度でもわたしを救ってくれると信じている。
彼は暗殺者で、他者から命を奪うひとで、わたし以外にとっては彼の名は救いとは反対の意味を持つのかもしれない。でも、救いなんてないと思っていたわたしの世界を確かに救ってくれた彼は立派な救世主で。
歴史に載ることはないだろうその名を、わたしはもう一度紡いだ。今度は愛の言葉と共に。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
拙い作品ですが、少しでも面白いと思っていただけたら幸いです。
※追記
誤字報告ありがとうございました。フツーに誤用していました……もっと精進します。
修正箇所 琴線に触れた→気に障った




