如月 秋乃
レコーディングを始めて3日目の夜。
鞄のなかでアラームが鳴った。
その機械的な電子音に眉を潜めながら、私は鞄に手を突っ込んでスマホをまさぐり当てると、スッとスライドさせてアラームを切る。
このアラームは、忘れっぽい私がレコーディングをするのを忘れないようにするためにセットしたものだ。
ああ、書かなきゃ....
重いタメ息がもれる。
気が重い。何故なら今日もコンビニで買い食いをしてしまったからだ。
長谷川に話を聞いて衝撃を受けた私はその日、なにも買わずに帰ってとてもひもじい思いをした。
お腹がすいてひもじかった訳ではない。
つまむおやつが無いことが辛かったのだ。
何で私ばっかりこんなにも好きなものを我慢しなければならないのか。
食に興味のない人間は、苦もなく痩せているのに!
『お腹すいたなーって思うだけ』ってなんだ。
そんな風になんて、とてもじゃないけど思えないぞ!
ヘルシーなものが好きな人間も、好きなものを食べて痩せているし!
不公平だ!!
そう思えてならなかった。
そして昨日、今日と買い食いをした。
昨日はそれでも書き上げたが、その量の多さにうんざりとした。
そして今日。
正直、もうどうせカロリーなんてとんでもなくオーバーしてるのは分かってるんだから、書かなくてもいいんじゃないだろうか?と思う。
だいたい、1日に1200カロリーなんて少なすぎると思うんだよね。だって、おかしいでしょう?
1200とか、ご飯茶碗一杯で240はいくのに、3食食べただけで720もいくんだよ?
残り480カロリーを3で割ったら1食160カロリーしか食べられない。
つまり、目玉焼きを2個食べたら終わりだ。
そんな馬鹿な話があるか!
本当に皆、そんだけしか食べてないの?
ああいやだ、書きたくない。書くなら食べられないじゃないか。大好きなあれもこれも、食べられないじゃないか。
......そうだ、忘れたことにしよう。
悪魔が囁いた。
それはとても甘美な誘惑だった。
そうだ、今日は仕事が忙しくて大変だった。
だから、今日は無理だ。書けなくても仕方がない。
忘れても仕方がない。
明日....そう、明日の朝書けばいい。
たぶん起きられないけど....いいや、きっと起きれるよ、うんうん。
よし、寝よう寝よう。おやすみなさーい。
そしてもちろん次の日、またしても体重が増えていたのだった。
なんて自分はダメなんだろう。
またしても落ち込みながら身支度をすると、しかしどんなに落ち込んでいても仕事はしなければならないので重い腰をあげてでかける。
仕事をし始めてしまえば、落ち込んでいるとかは関係なく時間が過ぎていく。
ただ、動くと直ぐに脚の間接が痛くなるのが厄介なくらいだ。
落ち込みながらもいつも通り賄いを食べ、いつも通り夜のピークタイムを迎えるべく仕込みをしていく。
そんな中、店長が急遽従業員を集めた。
店長の隣には、TVから飛び出してきたアイドルのように美人な女の子が、それこそアイドルばりの笑顔で立っていた。
「今日からアルバイトをすることになった、如月 秋乃さんです。」
「如月 秋乃ですっ。高校3年生ですっ。よろしくお願いしまぁすっ。」
にっこり。
これはやばいな。と、私の直感が告げだ。
そっと冥王を盗み見ると、うすら笑っていた。こ、恐い。
冥王こと田中 美紀は我が社で1,2を競うお局様だ。
私が移動してきてからまだ1年半だが、その1年半の間になんと15人を辞めさせた強者で、パートのおばちゃんなのに、その発言力は店長よりも強い。
たぶん逆らったら目から怪光線を出してくるからだと、私は常々思っている。
「じゃあ如月さん、田中さんについてホールの仕事をしてね。」
店長が指示を出すと、回りの従業員たちは死刑宣告をされた人間を見るような同情のこもった目で如月さんを見た。
如月 秋乃は肝のすわった娘だった。目上の人間には
異常なほどの人なつっこさで話しかけ、同じ高校生アルバイトの娘たちには兄貴分のようなところを出して好かれ、男の子にはほぼ告白されていた。
高校生らしい失敗をすることもあったが、他の飲食店でもバイトをした経験があるそうで、初日から仕事はよくできた。しかも美人なので男性客にもちやほやされた。
もちろん冥王は完全に如月をターゲットにロックオンした。
執拗な嫌がらせを受け、いいつ辞めてもおかしくないと思われた。
しかし、如月は辞めなかった。冥王と仲良くなる事こそ無かったが、悟りを開いたような目をしながら「ああ、そうやれば周りに自分は悪くないって売り込みながら、相手を貶められるのかって学びました。」と言われたときは、将来の冥王誕生を感じさせた。
そんなある日、私は久しぶりの早上がりシフトにウキウキしていた。しかも明日はお休みだ。ああ、今がこの世の花!
休憩室に入ると、如月やその他の女子高生バイトが先に着替えていた。
「あっ、佐川さんお疲れさまでーすっ。」
「お疲れー。」
ロッカーは狭いので如月たちが着替え終わるのを待ってロッカーの前に立つ。私の着替えはシンプルだ。
仕事の制服を脱いで、下に着ていたTシャツの上から上着を羽織るだけだ。
いつもならすぐに帰るのだが、その日は珍しく友達からラインが来ており、その返信をしていた。
如月たちはバイトが終わってもそのまま女子高生らしい会話を繰り広げており、それを聞くとはなしに聞いていた私は、その話の面白さについつい会話に混ざってもりあがってしまった。
しばらくしてふと気付くと、如月がゴミ箱を構えて髪をといていた。
その後ゴミ箱の上でしっかりと櫛ですいてから、髪を巻き始める。
私は思わず声をかけてしまった。
「すごいね、ちゃんとゴミ箱に髪を入れるようにしてるんだ。そんな人初めてみたよ。」
すると、如月は嬉しそうに笑った。
「そうなんですよー。秋乃こう見えてすっごい綺麗好きなんですよ!冥王は認めないけど!」
ちょっと当て擦りながらも、誉められてご機嫌に笑う様子はやっぱり高校生だなぁと思う。可愛い。
「秋乃ねぇー、帰りもちゃんと髪を巻かないとダメなんだよねぇー」
調子にのって語り出す如月に、周りの娘も乗っかって女子力についてのトークが始まった。
部屋は朝晩2回掃除機をかけるとか、朝顔を洗う時必ず蒸しタオルで毛穴を開くとか。
皆にとっては当たり前の、しかし私にとっては驚きの女子科女子目女子の生態にはっとした。
今までバイブルを読みながら、でもそれはどこか特殊な人しかやらない事だという考えがあった。だから何だかんだと理由をつけては見るだけで終わっていた。
でもこんなに身近にも女子力を発揮している人間がいたのだ。
私は試しに常々疑問に思ってることをちょっと聞いてみることにした。
「女子力の高い秋乃にしつもーん。」
すると如月ものってくる。
「はいどうぞー。」
「鞄の中ってすぐごみたまるじゃない?それってどうしてる??」
そう、人前で物を取り出すとき、よく埃とか砂?のようなものが一緒に飛び出して恥をかくことがある。
でも、素敵女子はそんなことにならないのは何でだろう、と不思議に思っていたのだ。
如月はちょっとキョトンとしたあと、答えた。
「あー、秋乃はねぇ、家に帰ったら必ず中身全部だしてコロコロかけますよー」
毎日!そりゃ綺麗なはずだわー。
ていうか、やっぱり女子力保つにはなにがしか私の知らない生態が有るようだ。
みんなどこでそんなことを知るんだろう。やっぱりバイブルかな?
私がほうほうなるほど、と感心していると、周りの女子高生の目がちょっと引いていた。
あ、あれ?私、不潔って思われてる?しまった....!
焦ってごまかそうとしたところに冥王が仕事を終えてやって来たので、その日の会合?はお開きになった。
しかし、私は久しぶりに方向を見つけたような気がして高揚していた。
美人の如月。綺麗好きの如月。女子力の高い如月。
如月の真似をすれば、私も素敵女子になれるんじゃない?