1
とどむべき ものとはなしに はかなくも 散る花ごとに たぐふ心か
(とどめておけるものではないが、散る花の一つ一つに、はかなく心が引かれるものだ)
桜がひとひら、落ちるたびに、時が無為に流れていく気がする。
砂時計のように。
止まらない。
気づけば桜は大地を桃色に染め上げ、自らは緑色の葉を少しずつ増やし始めていた。
部屋には子女の嗜みだと言われて文台と硯箱、倭琴などが置かれていて、卯花が熱心に教えてくれるが、とても一人で楽しんでできるというレベルではない。
なにひとつできないまま、落ちていく刻。
東北の対という部屋を与えられてから何日かが過ぎた。かぐや姫には会えないまま毎日はほとんど変わらずに、桜の色だけが刻の経過をささやかに告げていた。
ここは時間というものに対してひどく無頓着だった。
刹那的な時間を無駄に過ごすのに、未来を憂え、過去を懐かしみ、その無常を飽きもせずに歌にする。
(でもあたしは、帰りたい……)
この時間に飲み込まれてしまう、前に。
今日こそは……と無駄な決意をしたところで、ばたばたと忙しそうな足音が近づいてきた。最初に簀子に姿を見せたのは萌葱だ。
「また来おったで、紗夜」
予想通りの言葉に肩を落としたところで、少し遅れて衣擦れの音とともにやってきたのは卯花。急いでいるように見えながら、やはりその所作は上品だ。
「姫様。大納言様がお渡りになります。至急お支度を……」
「―――……」
またか、と思わずため息とともに口に出してしまったのだが、半分だけ開いていた御簾を閉じ、紗夜の前に几帳を置き、着物を忙しく調える卯花には幸運にも聞き咎められなかったようだ。
崚王が訪れるときはそうして部屋をすべて閉じてしまう。散る桜が見えないのは、少し寂しいと思う。刹那的にしか存在を主張できない、今が盛りのその色を、誰にも見られることなく落としてしまうのであれば。
「紗夜も大変やな」
「うん。面倒」
そんな会話をこっそりとする。萌葱は卯花のように美しさに縁取られた仮面がなく、その自由と奔放が紗夜を普通の感覚に戻してくれるのだ。
「あたいは別の部屋で待っとるわ。堅苦しいんは合わん」
萌葱はそう言って、さっさと妻戸から外へ出て行ってしまったが、紗夜も萌葱について行きたい気分だ。
仕方がないと覚悟を決めて正面を向いたとき、ちょうど御簾ごしに人影が見えた。
「ご機嫌はいかがですか、姫君」
軽やかな衣擦れの音とともに現れた、御簾に映る典雅な人影。
この世界にいる年頃の娘ならばその声だけでうっとりと聞き惚れてしまうのだろうが、紗夜は甘すぎる言葉にも簡単に乗せられはしなかった。
柱にそっと、寄りかかるようにして簀子に腰を下ろす。その拍子に御簾が揺れて、趣味のよさそうな花の香りが、紗夜の鼻腔を掠めていった。
人工的な香水とは違う、まるで本物の蜜のよう。
……が。
(機嫌がいいはずないんだけど!)
つい、甘い残滓を振り払うかのように毒づいてしまう。この艶めいた雰囲気が、紗夜は苦手だった。……というか、慣れていない。
ここからでは顔までは確認できないものの、彼がたしかに育ちのいい血筋なのだろうという雰囲気は、紗夜にまで伝わってきた。オーラが違う。そして、それがなぜだかぴたりとよく似合うのだ。育ちのよさというやつだろう。
これが大納言という身分の、崚王。
だが、当初こそ遠慮も少しくらいはあったかもしれないが、何日も過ぎればもう冷たくあしらうことに躊躇はなかった。
「だからその姫っていうの、なんとかなりませんか……って何度も言ってるんですけど」
ここでは本名をみだりに口にしない習慣があるという話は聞いている。だが、慣れないものは仕方がない。それに、卯花に呼ばれるのと、彼のこの美貌と甘美な声で呼ばれるのとでは印象がまるで違うのだ。
その懇願にも、崚王はいつもと同じ深い慈愛の笑みを返しただけだった。燈台が明るいとはいえ、御簾越しでは見えないのだが、そう感じた。
(……出たよ。『魔性の微笑み』)
我ながら単純かつ的確な命名だと思う。色仕掛けといえば絶世の美女と相場は決まっているが、彼の優雅な仕草はそれに勝るとも劣らない。
「今宵の臥待月もまた格別に美しい―――『つれなき人も あはれとや見む』といったところでしょうか」
「―――はぁ」
そう言われても、返す言葉が何もない。しかたなく後ろに控えてくれていた卯花を見やれば、彼女は扇で顔を隠しているが、耳まで真っ赤になってうつむいている。どうやら必殺口説き文句だったらしい。
(まぁたしかに、この顔と声で、君しか見えない!みたいな科白言われたら、卯花みたいになるかも)
あくまで一般論として紗夜はそう思う。自分はそんな罠に引っかかってやるものかという思いは、もはや意地に近かった。
だが、彼の甘い言葉はもはや挨拶のようなものでしかない。本気で口説いているわけではないだろう。
そもそも、妻五十人の男に愛を囁かれてもむなしくなるだけ。自分の容姿に自信を持っているならまだ張り合い、強奪愛を演じることもできるかもしれないが、自分の凡庸な容姿では、ライバルが卯花のような大人しくて愛らしい少女たちばかりだとしたらとても太刀打ちできない。自爆する前に身を引くのが正しい。そうに違いない。
(まあ、太刀打ちしようとも思わないけど……)
なにを言えばいいのかわからなかったから黙っていたら、後ろから卯花が耳元に口を近づけてきた。
「返し歌を」
つまりこちらも何か和歌を詠んで対抗しろということなのだが……。
崚王の教育の賜物なのか、洗い物などしたことがないように滑らかで白い手が、紗夜の視界の端に映る。彼女なら簡単に歌も思いつくのだろう。
(……あたしは卯花とは違うし、お姫様じゃない)
思い浮かぶ和歌といえば、せいぜい受験で覚えたいくつかの百人一首くらいのもの。うろ覚えの上、丸暗記のせいで意味を考えたこともないそれを、口に出すほど恥知らずではないつもりだった。
「今日は、なんの御用ですか?」
仕方なく単刀直入に尋ねてみる。沈黙よりはましだ。
珍しい菓子がある、今日は料理をした、琴でも弾いてみないか……毎日よくそれだけ言い訳を作れるものだと感心してしまうほど、違う理由をつけて彼は東北の対を訪れる。いつかかぐや姫に会わせてくれるのかと思えばそんな話は何もせず、紗夜の態度はついそっけなくなってしまうのだが、妻五十人の男はまるで動じなかった。
「月を愛でながらまた、昔話はいかがかと」
「……あたしなんかのとこにしょっちゅう来ていていいんですか? 奥さんたちに嫉妬されても困るんですけど」
卯花も女房の一人だと言っていた。顔を赤らめて恥ずかしがるよりも、妻でもない紗夜にまで甘言を囁く浮気性の彼をなじるほうが先なのではないかと思うのだ。
「奥さん……たち?」
表情をほとんど変えなかった崚王が、このとき初めて、開いた扇の奥で少しだけ戸惑った色を見せて反芻した。
「私はまだ妻など娶っておりませんが」
しかも複数形。
「はぁ?」
「どなたかのことを誤解していらっしゃるのでしたら、悲しいことです」
「誤解……? だって卯花が女房五十人もいるって」
再び彼女を振り返ってみると、たしかにその科白を覚えているらしく頷いたものの、意味がわからないというように曖昧に首を傾げてしまった。
崚王はといえば、扇で顔を隠して紗夜と目を合わせないようにしている。
「あの……姫様、それが何か? 差し障りがございましたでしょうか」
うろたえる卯花の声を聞いた崚王が、ついに声をあげて笑い出した。必殺『魔性の微笑み』しか引き出したことのない紗夜は、思わぬところで新たな一面を発掘して何度か瞬きする。―――これは喜ぶべきことなのだろうか。
だが、ここは笑われる場面ではなく、妻たちに素直に謝罪するか、上から目線で開き直るか、慌てて誤魔化すかのどれかしかないはずだった。
その笑いの意味は卯花にもわからないようで、珍しい崚王の姿に返す言葉がないようだった。
「姫。女房というのは、身の回りの世話をする女人たちのことを言うのです。そこにいる卯花のように」
「は?」
「ですから妻という意味ではないのですよ」
「はぁ?」
衝撃的な一言に、紗夜は思わず腰を上げそうになり、寄りかかっていた脇息を倒してしまい、盛大な音が響いた。ついでに肘をぶつけた……痛い。
(身の回りの世話っ?)
卯花を振り返ってみたら、自分が崚王の妻だと思われていたことに、扇を取り落として顔色を青くしている。本当に具合が悪くなったのかと心配になってしまうほど。
「あ、あのわたくし……そんなつもり、では……」
「かまわない、卯花。こちらの姫君はまだいろいろなことに慣れておられぬご様子。こういった誤解もあろう」
たしかに崚王は、卯花と話すときは敬語もなく主の威厳を持って卯花と接していたかもしれない。いまさらながら、紗夜はそれに気づいた。だが、ただの亭主関白だと思っていた。
卯花ははっと顔を上げたが、すぐにまた恥ずかしそうに俯いてしまった。そんな態度を見せられると、なぜか自分がものすごい悪事を働いたような気分になる。
(ちゃんと聞いておけばよかった……。っていうか教えてくれてもよくない? そりゃこっちでは常識中の常識なのかもしれないけど!)
そうしたら卯花も、主人の前で申し訳なく思うこともなかったのだ。自分のせい、だろうか。責任転嫁してはいけない。でも、だって知らないということも知らないのだから尋ねようもないではないか。
「しかし、そうですか……いや、私もそこまで考えが及ばず、姫君にも深いお悩みを与えてしまって申し訳ないことです」
「………………はあー」
まだ冷めることのない笑いを必死で押し隠しながらでは、申し訳なく思う気持ちなどまったく伝わってこなかった。
(『深いお悩み』はこれじゃないんだけどなぁ)
―――彼は日本のことを知っている。日本の常識がなんであるかを、わかっている。
だから、紗夜がこの言葉をどういう風に誤解したのかも理解した。卯花はまるでわからなかったこと……つまり、こちらの人間は知らないであろう事柄を彼は知っているということになる。
(そういえばあのサングラス男と一緒にいて普通だったし)
今ならあのサングラスが、こちらの人々に異様に見えて化け物扱いされたのだということがわかる。
それでも核心に触れた話をしないのは、たんなる嫌がらせかもしれないなどとひねくれた考えもあったが、崚王は第一印象と変わらずに優しく、甘い口説き文句を除けば居心地は悪く感じなかった。
(このひとは日本のことに詳しすぎる。まほろばとの違いとか……勉強になる)
その知識力は、日本に住んでいたはずの紗夜よりもずっと深い。なんでそんなことを知っているのかと問いかけても、文献を読んだとしか答えてくれなかった。
「卯花、少し外してくれるか。姫と二人で夜語りなどを、と」
崚王の突然の一言にも、卯花は何も言わず、衣擦れの音も優美に妻戸から出て行った。先ほどのうろたえた様子はすでになく、その代わり身の早さは主人の前だからなのだろうか。
二人きりの空間に、静謐が広がっていく。
ここは本当に、東京と比べると不気味なほどに雑音がなかった。
「誰もおりませんから、簀子に降りてきてもかまいませんよ」
口調は穏やかな提案だったが、どこか逆らえないものを彼には感じる。紗夜は膝行して御簾を掻き分け、簀子に座った。手を伸ばさなければ届かないほどの距離をおいて、崚王の隣に。
釣燈籠の灯りのおかげで、紗夜からでも崚王の顔がよく見えた。
御簾の内からではわからなかった華やいだ装いに、紗夜はなんとなく目を逸らした。白鳥を追いかけるアヒルの気分、もしくはこの望月から少し欠けた臥待月を眺めるすっぽんの気分だ。
奇妙だと思っていたその古めかしい格好も、よく見れば似合っているような気がしてくるから不思議である。顔がいいと得なのだ。
だが、紗夜は白鳥になんてなれず、きっといつまでもアヒルのままなのだろう。
「ずっと不便をかけてしまってすみません。徒然を紛らわすものなどはありましょうか」
「別に不便なんて……」
彼がそんなことを言うとは思っていなかったから、紗夜はとっさに手を振って否定していた。
だが実際、不自由をなじるほどここの待遇は悪くない。まほろばが異界だという話は信じがたいが、人々の感覚には似ている部分も多い。紗夜が楽しめるような娯楽が少ないことは認めるが、いつのまにか萌葱とはずいぶん仲良くなってしまった。
悪くはない―――そう思ってしまう自分が少し、怖い。
「―――紗夜さん」
諱を口に出さないのが当然という風習の中、この邸で彼が初めて紗夜の名を呼んだことに気づいた。だが、萌葱以外に名乗った覚えはなかった。
(初めて会った時もそうだった……あたしのことなんで知ってるの?)
宵の世界に惑わされて、騙されている気がする。
けれど、崚王の声は変わらずに、どこまでも暖かく穏やかな大人の口調で。
紗夜に視線は向けず、空をじっと眺めている。日本と同じはずの、月も星も、ここからはどんな宝石よりも綺麗に見えた。
彼の表情は、何も紗夜に読み取らせない。
紗夜が問いを口にするより先に、崚王が言葉を続けた。
「常世に、日本に帰りたいと思っておりますか?」
「……そりゃ、誰だって自分のいる場所に帰りたいんじゃないですか」
居心地が悪くないことと、強制的にすべてを置き去りにして定住してしまうことは違う。
(自分のいる、場所……)
自分で言ったその言葉に、なぜか違和感を覚えたことに、あえて気づかないふりをした。
「―――『赫映』のことを、聞いていますか?」
「えっ?」
彼の口から初めてその名前が明確に語られた気がする。
だが、会話が繋がっていない気がした。けれども、発せられた言葉を理解するより先に、崚王の腕が伸びて紗夜の袖を少し捲くると、その右手首を掴んだ。
あまりにも自然な動作で、紗夜もその腕から逃げるという選択肢を、脳裏の片隅にすら浮かべなかった。
「『赫映』はこの世の御柱、いなければ滅ぶ―――そう呼ばれる者の気持ちは、誰にもわからぬものです」
強くもなく、弱くもなく、そっと紗夜の手に触れる、人の体温。
ぴくりと自分の手が震えるのを脳裏のどこかで冷静に自覚したけれど、動かして拒むことはできなかった。
(……いなければ、滅ぶ?)
滅ぶなんてまたそんな大げさな……と思ったが、崚王の思わぬ真摯な眼差しに、紗夜は息を呑んで見つめ返すことしかできなかった。
何が……滅ぶというのだろう。まさか本当にまほろばが……?
(そんなまさか、ね……。萌葱の話だって、昔そう信じられてたっていうだけだよねきっと)
生きなければならない人……萌葱はそう表現した。
その感情を読み取ったのか、崚王はわずかに苦笑する。けれどその表情の意味を、紗夜は読み取ることはできなかった。
「……っ!」
はっと、息を呑んだ。
どちらの手からなのかわからないが、突然光を帯び始めたのだ。眩しいと思えるほどの光ではないが、部屋から漏れる蝋燭の明かりとは比べ物にならないほど強い。
紅い、閃光。
「この護りを開放します。もう、時間がないかもしれない」
いつのまにか、紗夜の右手首には紅い布きれが結ばれていた。光の中から浮かび上がってきたのだ。
紗夜は、本能的な恐怖で身体を硬直させる。
「……これ、どこから」
「淡紅の唐衣を纏った女人に、常世で会いませんでしたか?」
赤い着物……。
そこで思い出されるのは、一人しかいない。
あの雨の中、綺麗な着物を纏った人形のような女性は……桜の花びらや、雨の雫とともに、空から降ってきた。
「あ、あのひとが結んだっていうんですか? でも今まで何もなかったのに」
自分の手首に捲かれていて、何日も気づかないはずはない。
気味が悪い……だが、取ろうと紗夜が左手を伸ばしたとき、光は急速に衰え、それとともに捲かれていた布も見えなくなってしまった。触ってもそれは自分の手首の感触しかなかった。
「私にも、貴女を守らねばならぬ立場というものがあるのですよ」
「え? なんで……」
「それでは、姫。『たたまく惜しき 今日にもあるかな』といったところですが、失礼しなくてはなりません」
「はあ? ……ってちょっとっ」
またわからない和歌が出てきた。その答えに窮している間に、崚王は立ち上がって踵を返してしまう。逃げ足速すぎる……。長い裾を踏みつけてやろうかとも少し思ったが、ほぼ初対面の男しかもかなりのイケメンに、さすがの紗夜もそこまでの無茶を敢行する度胸をひねり出すことはできず、背中を見守るしかなかった。
紗夜は崚に言われた言葉をもう一度思い出していた。
かぐや姫がいなければ、滅ぶ。―――だがそれは。
(どっかで禊をしてるはずのかぐや姫が……この世界を、滅ぼす……?)
そういう意味にも、聞こえた。




