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紗夜の夕食は特別豪華ではなかったが、質素でもなかった。
魚がメインの食事だったからほっとした。変なところだからよくわからないグロテスクなものを出されるのかと心配したが、昔ながらの純和食だ。さすがにパスタやハンバーグは出てきそうな雰囲気ではないのはわかる。
「ほかにどんなものを食べるの? 肉とか?」
「鹿や猪などがございますけれど、お好みがあれば伝えておきます」
「え? あ……うん……なんでもいいや……」
それらはどちらも、紗夜は日本で食べたことがなかった。どんな味か想像もつかないが、出された食事は美味しいのだから、きっと彼らの味覚は一般的なのだろうと思っておくことにした。
ずいぶん早い夕食だと思ったら、彼らは昼食というものを食べないという。さらに電気もガスも水道もない生活。だが、アマゾン奥地の先住民族のようかと思えば、そういうワイルドさや粗暴さはまったくない。食器や衣装を見れば質素という言葉とも無縁なのは一目瞭然だし、優雅で贅沢で洗練された空気の中でゆったりと過ごしている。
紗夜にはそれが矛盾しているように見えた。
そのとき、部屋の外でばたばたという足音が近づいてきた。
「あっ! やっと会えたわ~っ。こんな山ん中でどうしとったかて心配やったん、こなええとこあったんねえ」
ちょうど食べ終わって箸をおいたところで、廊下のほうから明るい声が聞こえた。半分巻き上げただけの御簾を、腰をほとんどかがめずに入ってきた子供の顔を、紗夜も覚えていた。
「え? 萌葱?」
彼女は、昨日とは変わって紗夜や卯花のような着物を身に纏い、ぼさぼさだった髪の毛や泥だらけだった顔や手を綺麗にしたらずいぶん愛らしい姿になっていた。
天真爛漫な彼女にほっとする自分がいて驚く。……昨日会ったばかりの知らない子なのに。
「どうしたの? なんでここにいるのー?」
「あたいな、紗夜と京に行きとうて邑を出てきたんよ」
「え、ええーっ?」
いわゆる上京? いや、家出? だが、この歳で……。
「では、わたくしは失礼いたします。近くに控えておりますので、何かございましたらお申し付けくださいませ」
気を利かせて二人きりにしてくれるらしい。膳を片付けて部屋を出て行った卯花の背中を見送ってから、萌葱は座り込んで長い裾をひらひらともてあました。
「村を出てきたって……ちょっと大丈夫なの。ご両親とか心配しているんじゃ……」
「ええの。おっ父とおっ母には言ってきたけんね。あたいは京に行きたいんよ」
無言の家出ではないなら少しは安心だ。それでもこの年齢では少しばかり心配だが、萌葱や家族が納得しているならかまわない。紗夜からしてみれば、知り合いが多いのはうれしいことだ。
「そんなことよりなぁ、ほんにこれ歩きにくいったらないんよ。ここ来るまでになんべん転びかけたかわからんわ」
「あはは。あたしもそうだよ。でも可愛いよ、似合ってる」
同じような感想を抱いている萌葱に、紗夜は一気に親近感がわいてきた。ここでは誰も紗夜のようには感じてくれないような気がしていたから。
「汗衫なんて女童の装束、初めて着さしてもらったんやけど不便やなあ」
「女童? 汗衫?」
また紗夜の知らない言葉ばかりだ。
「そうや。お姫さまのお世話をする子供をそう呼ぶやろ?」
つまり卯花のように紗夜の世話をしてくれるということか。だが、萌葱までも何かを勘違いしているのか、あの崚と名乗った紳士が何か余計なことを言っているのか。
「……えっと、でもね。あたしはお姫さまなんかじゃないよ」
「けんど、あの崚王が大切にしとるおひとなんやて、ほかの女童とか女房とかが噂しとったよ。紗夜の背の君やったん?」
萌葱が小さな肩をすくめる。大人びた仕草に思えた。背の君の意味はわからなかったので曖昧に否定しておいたが。
(『あの』崚王って……そんな風に言われるくらいすごいひとなの?)
卯花も褒め称えていたし、生まれや経歴は一般人とはとうてい言えないものだったが、京からはずいぶん離れているらしいこんなところでまで、『あの』と言われてしまう彼はそうとうの有名人なのかもしれない。
「崚さんって、崚王っていうの?」
「そや、尊きお血筋やからな、御名に王氏がつくんよ。ま、お偉いひとってんは名前じゃ呼ばんのやって、大納言様とかって呼ばなあかん。なしてそんなお人といっしょにおるん、紗夜」
「それがよくわかんなくて。だって昨日の朝会ったばかりだよ。なんであたしを助けてくれたのかもよくわかんないし」
萌葱は納得していない表情で紗夜を見上げたが、それ以上は何も言わなかった。
座っているのにも早々に飽きたのか、萌葱は簀子のほうへ這って出ると、庭などをきょろきょろと見渡した。……見えるところには誰もいない。
「紗夜はけったいな恰好の男といっしょやったって邑の男の子に聞いてきたけんね、崚王さんのおるところなら妖もおらんよなきっと」
「………………けったいなって」
あのサングラス男のことだろう。紗夜からしてみれば、その他大勢のほうがよほどけったいな格好なのだが。
「それにしてもな、ここも十分に贅沢すぎるって思うんやけど、京ってのはここよりすごいんやろな」
「卯花さんはもっと広い家があるって言ってたけど」
「さっきもな、そのへんに麦だとか鳥だとかが捨てられとってん、もったいないって思うんやけどなあ」
彼らは贅沢に慣れている身分なのだろう。妻が五十人いてもなおこの家だけではなく、いくつかの大邸宅を維持できる金持ちなのだから、麦くらいどうということはないのかもしれない。
萌葱は、簀子から紗夜を振り返る。
「なぁ、紗夜はもう会ったん?」
「え?」
「ここな、赫映様がおるんかもしれんって」
這って再び近づいてきた萌葱の声は自然と小さく、囁くようなものになっていた。
「……あー……、うん。卯花さんもそう言ってたけど会ってはいないよ。崚さんは、かぐやさまと知り合いなのかな」
大納言とかいう身分なら、お偉いさんたちの知り合いがたくさんいてもおかしくない、気がする。
「ほんにおるって言ってたんかっ?」
萌葱があまりにも素直な驚愕を示すから、紗夜は少したじろいで頷く。
「う、うん……ここはかぐつきのなんとかっていうお邸の仮のうちかなんかで、かぐやさまが住んでるんだって」
「耀月珠穂宮の行宮や。ほんにこの世にあるんやな。……けんど、そうなるとますますわからんなあ、なんで紗夜を助けたりしたんやろか」
気軽に会える人物ではなさそうなのは、卯花の態度を見ていればわかる。
崇拝―――その言葉には少しだけ違和感がある。どちらかというと、あれは畏怖だ。届かない高みにいるものを掴もうとして、でもできない……そんな心だ。
だが、紗夜がイメージするかぐや姫は、おしとやかに見せながらも男を手玉に取るしたたかさを持っていて、とても尊敬するような存在ではないのだが。
何人の男を騙してもまだ有り余るほどの美貌を持つ女。
「なんか、あたしは会ったことあるかもしれないって……知り合いに言われたんだけど」
「ほっほんに会ったんかっ?」
「……えっと……でもよくわからなくて」
「わからんはずはない。赫映様ってのは、猩猩緋の目が眩しくてこっちの目が潰れてしまうほどらしいんよ。すぐにわかるはずなんやけどな」
「猩猩緋?」
「そや、高貴なる色やて。陽のような色らしいけんど、あたいも見たことないからなぁ」
それが事実だとしたら、紗夜が思っていたあの着物の美少女はかぐや姫ではないのだろう。そんな太陽のような色をしているのだとしたら、気づかないはずはない。
「……えっと、念のため聞きたいんだけど、かぐやが何人ものひとを騙して捨てたとか、帝に求婚されたけど断わって逃げたとか……そういう話は、ない?」
「なんやそれ?」
案の定、萌葱はきょとんと紗夜を見返した。
「騙して捨てたってまた穏やかやないな。いまの赫映様のことは知らんけんど、ご先祖の赫映様の一途な恋は今でも語り継がれておるよ」
「え? 一途な恋?」
竹取物語とはずいぶんかけ離れている。
「そや、ご先祖の小碓尊様はな、何人もが言い寄るくらいお美しいお人やったけんど、ただ一人をずっと想っとったんやって。邑でもみいんな、あんな恋がしたいとか言うてたわ」
萌葱は紗夜が何を尋ねてももう驚かなくなっていた。教養のかけらもない田舎娘だと思っているのかもしれない。
「それがかぐやのご先祖様?」
「そや、赫映様ていうんは称号や。御名を呼んではあかん。あたいも今の赫映様の御名なんか知らんしな。初めて常世からまほろばに来た赫映様は特に有名やから御名も知られとって、それが小碓尊様ていうんやよ。代々その一族から、小碓尊様の魂を持ったお人がお生まれになって、そのお人を赫映様て呼ぶことになっとる」
「…………?」
どういうことだろう。かぐや姫の一族がいて、その子孫がかぐや姫の名前を代々受け継ぐのだろうか。魂……の意味はわからない。
「えっと……そのひとがまほろばを救ったってゆってたひと? そのひとが日本……じゃなくて常世からこっちに来たってこと?」
質問攻めにして悪いかとも思ったが、知りたい。
卯花や崚に聞いても教えてくれるかもしれないが、萌葱に尋ねるのが一番気分的に楽だった。
「そうでもないみたいなんやけど、そのへんはようわからん。小碓尊様は常世でいざこざがあって追い出されてまほろばに来たとも言うし、滅びかけてるまほろばのことを知ってそれを救うためだけに来たとも言っとる」
「そうなんだ……追い出されたって、何をしたんだろ」
「人を殺めてしもうて常世から逃げてきたとか、あんま穏やかなやないことがあったんやて」
「えっ?」
「けんど、それを救ったのが月夜媛様や。御名は伝わっとらんけんど、今でも常世に同じ魂を持っとる媛様がおるんやて」
「でも……ひとを殺したなんて悪いひとじゃないの?」
どんどん紗夜の知る竹取物語とは違う話になっていく。
「小碓尊様はな、生きなならんお人や。月夜媛様はそのために犠牲になったお人やけん、小碓尊様が月夜媛様を殺したていう見方もあるやろな。常世で人を殺したなんて話も、そういうことかもしれんしな」
「生きなきゃならない人?」
かぐや姫を生かすために月夜媛が犠牲になったということだろうか。
「赫映様は生き神さまや。不思議な力をいっぱい持っとって、今でもその力でまほろばを守ってくださる御柱なんよ」
滅びかけたまほろばを救い、今でもこうして神様扱いされているかぐや姫……想像がつかない。
(でもいろいろ矛盾してる気がするんだけど……やっぱり本当にあった出来事じゃなくて物語だからかな)
神様のように祀られながら人を殺して追い出されたとかいう人道に反することも伝わっているし、一方で一途に誰かを想うほどの情の深さもある。その人物像はひとつに納まらず、いくつもの顔を持っているような印象を受けた。
「ま、本当のことは誰にもわからんよ。もう千年以上前のことやからな」
考え込んでしまった紗夜に、萌葱はそう言った。
「……萌葱ってすごい詳しいんだね、いろいろ」
いくらこちら側の人間だからといって、十三歳の子供がこれほど紗夜の質問に答えられるだろうか。それともすべて、こちらの常識だったのだろうか。
「あたいはおっ父が持っとった国学の本をこっそり読んでたんよ。邑の子らはあたいが勉強するんを無駄や言うけんど、いつか京に行きたくてな」
「そんなに勉強がしたいの?」
「勉強がしたいんと違う。あたいはまほろばをもっと知りたいんや。あんなちっこい叉嗚邑におったらわからん、世の理の全部」
紗夜はなんとなく大学を受験して入って、恵まれた環境にいたというのにそんなことは考えもしなかった。日本の京であるはずの東京にいても、何も感じなかった。
(萌葱はそんなおっきいことを考えてるんだ……)
それにな、と萌葱は少しだけ小さな声で付け加えた。
「赫映の御方様がまほろばを守ってくれてるて言われてるけどな、本当やろうか。本当に赫映の御方様は、いるんやろうか。だったらなんで、おととしは凶作で邑がたいへんやったんやろかって」
何気なくつぶやいたであろう萌葱の一言が、紗夜は気になった。
(本当に、かぐや姫がいるのかってこと? でも卯花はあんなに信じてて、この邸はかぐや姫のものだって言ってたのに?)
卯花はかぐや姫に会ったことがあるのだろうか。けれど、盲目的に信じているだけなのだとしたら、ここは神社のように目には見えない神を祀る場所ということになる。
世界のどこにも実在しないのに、信じて祈ることで人々のこころは確実に救われる……そのための邸。
そこに真実は、いらない。
だとしたら、どちらが正しいのかなんて、紗夜にも誰にもわからない。




