ぼくたちの風景
「ね…ずみくん?」
「僕は君を傷つけたくないのに。君と一緒にいたいのに!!どうしたらっ!!どうして僕には―」
「ネズミ君!?」
崩れ落ちるように膝を突いたネズミ君。彼の声は苦痛と苦渋に満ちていて、ぼくも慌てて膝をつく。そっと触れた体は強張り小刻みに震えていた。
「本当は…ずっと思っていた。」
「え?」
「言わなくちゃいけないって。」
一撫での風にもかき消されてしまいそうなか細い声。
「君はこの森を離れるんだ。」
突然の突風に木の葉が舞いあがる。ぼくはただ目を見開くことしかできなかった。
「君だけじゃない。この森に住む全ての命がここを離れなければならない。」
向けられた瞳は先ほどの彼からは想像できないほど落ち着き払ったもので、巻き上げられた木の葉がぼくと彼の間を音もなく落ちていった。
「どうして…」
かすれる声。
「この森が…死んでしまうから。」
伏せられた瞳。
「どうしてだよ!!」
ぼくは語尾を荒げ彼に詰め寄っていた。すっと向けられた黒曜石の輝きがぼくを射抜く。
「ニンゲンが森を壊しているんだ。」
彼の声は色のないものだった。
「たぬき君が言っていた音があっただろ?それは彼らが木々を切り倒し、地面を掘り返す音なんだ!!彼らが森を侵食し、全てを奪い去っていく音なんだ…よ。」
ネズミ君はふいっと視線をぼくから離すと俯いた。ぐわぁん、ぐわぁんと頭の中で響く不協和音が足元をおぼつかなくさせる。
あの優しい温もりを持つニンゲンが?
ぼくを助けてくれたニンゲンが?
森を…壊す?
お日様のようなちぃちゃんの笑顔がチラリと心を横切った。
「森が死んでしまえば僕たちは生きていけないんだ…わずかな食料を求めて動物たちの間で争いが起きるはず。僕たちはお互いを傷つけあって、憎みあわなくてはならないんだよ。」
「そんな…」
ネズミ君の瞳は揺れていた。ぼくの脳裏に動物たちの顔が、零れんばかりの笑顔がパッと浮かんでは消えていく。
よそ者のぼくに森を隅々まで案内してくれたのはたぬき君だった。彼は好奇心だけはあるものだから太陽の光も届かないような場所にまでぼくを引っ張っていくんだ。でもね?そのくせちょっと風が吹いただけでも体をビクつかせていて、それを見てぼくはいつも笑っていた。
ちょっと神経質な小鳥くんは自慢の声で歌を歌ってくれたよね?ネズミ君がいなくて寂しいとき、今は傍にない温もりを思って瞳を潤ませるとき、慰めるように包み込んでくれたメロディはぼくのお気に入りだった。
ふふふ、キツネ君は意地悪だったけれど、困っているときは必ず助けてくれた。まだなれない森の中で迷子になったときは陽気な話しで不安なんか吹き飛ぶくらいの笑顔をくれた。一緒に悪戯をして怒られたこともあったよね?そんなときはいつでもお互いに顔を見合わせて笑うんだ。
グッと込みあがってくる悲しみ。
「ダメだよ!?絶対、それだけはダメだ!!」
ぼくは大きく首を横に振っていた。
みんなが大好きだった。よそ者だったぼくを快く受け入れてくれて、いつでもぼくに笑いかけてくれた動物たち。いつだってぼくはみんなと“楽しい”を作り上げてきたんだ。
「そんなことは悲しいだけでしょ?みんな苦しいだけだよね?」
大好きな友達を傷つけたことに傷つき。大切な仲間に傷つけられたことに傷つく。そんな思いは知らないほうがいいにきまっている。
「争ったっていいことなんて一つもないじゃないか!!そうだろ?ネズミ君!!」
彼はクルリとぼくに背中を見せた。
「そうだね…僕もそう思うよ?だから…さ。」
「だから?」
「僕たちはこの森を去るべきなんだ。」
「え?」
彼は空を仰ぎ見る。背中をピンッと真っ直ぐ伸ばして。
「僕たちが故郷を捨て、それぞれが新しい住処を見つければ食料を奪い合う必要はなくなるだろ?僕たちが争う必要なんてなくなるんだ。」
雲の切れ間から月の光が彼に降り注いだ。彼の艶やかなこげ茶色の毛並みが浮かび上がる。
「でもそうすれば二度とここには戻れない。そしてもう一度みんなが一緒に暮らすことはできなくなってしまう…」
その背中は凛としていた。けれど迷いのないそれが心に不安を呼び起こす。ぼくはこみ上げる焦燥感に従うように慌てて彼の腕をギュッと握り締めた。
「ねずみくん?」
自然と口をついて出た呼びかけに彼は振り返って微笑んだ。やんわりと握り返された手のひらにしみこむ温もりはぼくがよく知っているもので、けれどまったく違うもののような気がした。
「でも僕は思うんだ。」
彼は瞳でぼくに笑いかける。
「僕たちは故郷を捨てるべきだって…ね?」
けれど自分はそれに笑い返すことができなかった。
「僕はみんなと過ごした優しい記憶と温かい思い出を憎しみなんかで塗りつぶしたくないんだ…みんなと作り出した思い出を宝物としていつまでも大切にしまっておきたいんだよ。」
悪戯な風によって踊らされる木の葉を彼はそっと掴み取る。頭上に掲げられるそれはどこにでもある一枚の枯葉だ。けれどぼくの目にはそれがとても価値のあるもののように映った。どこにでもあるような風景に溶け込んでいて、別段目を奪われるようなものでもない枯葉は、ぼくたちの日常そのもののような気がした。
「だからね?僕はこの事実をみんなに話そうと思うんだ。話さなければならないと思うんだ。」
「争いが…起こる前に?」
「うん…だってみんなには笑ってさようならをいいたいじゃないか。笑って見送って欲しいだろ?」
彼はふっと微笑んだ。ネズミ君の指から離された枯葉はあっという間に風にさらわれて闇の中へと吸い込まれてしまう。その情景は現実感の伴っていなかった話にさっと色をつけた。
ぼくは失ってしまうんだ。天国から降り注ぐような木漏れ日も、ゆるりと頬を撫でてゆく風も、森に響き渡る動物たちの笑い声も、みんなみんな失ってしまう。当たり前のようにいつでもぼくのそばに溢れていた日常は二度と返ってこない。そして当たり前のようにこれからも続いてゆくと信じていた未来はかなうことなく枯れてしまう。
体から力がぬけて握り締めていたネズミ君の腕からぼくのそれがズルリと滑り落ちる。
「あっ…」
けれどそうなる前にぼくの腕を握りなおしてくれたのはネズミ君で、今まで見てきたどんな瞳よりも優しげな光を宿したそれが真っ直ぐと向けられていた。
ぼくはずっと心にくすぶっていた焦燥感と不安の正体がわかった気がした。
「君は?」
「え?」
それは―
「君もぼくと一緒に来てくれるんだよね?」
彼がぼくの手の届かないずっと遠くに行ってしまうということ。
「ッ!?」
ネズミ君の瞳がふっと翳りを帯び、舞台の幕が下りるように閉ざされた。
「僕は行かない…一緒にはいけないよ。」
どんなものよりも小さくそして鮮明な囁き。
「僕だけじゃない。僕のように体力のないもの。年老いているもの。怪我をしているもの。みんな新しい住処まで行き着く余裕がないんだ。」
ネズミ君は微笑んでいた。
「僕たちは新しい住処を探したところでその途中で力尽きてしまう。だからね?どこかもわからないような場所でそうなるくらいなら、僕はここに残りたい。」
あぁ…そんな―
「僕の故郷で、君との思い出がたくさんつまったこの森に―」
受け入れたように笑わないで。
ネズミ君は春の夜に浮かぶ月に良く似ていた。存在そのものが淡くおぼろげで、それ故にとても美しい。
彼に向かって伸ばすぼくの指が震える。
「やっと見つけたのに…」
「うさぎくん?」
「やっと分かったのに―」
頬に触れた指先が彼の温もりをぼくに伝える。彼は生きていた。今を生きている。
「ぼくが探していた風景は君だ!!君なんだよ!!ネズミ君!!」
探していた風景。
それはどこにいても、どんなときを過ごしていても帰りたいと思うただ一つの場所。自分と言う存在を置いておきたいとせつに願わずにはいられない場所。
「だから一緒に行こうよ!!ぼくが君をどこへでも連れて行ってあげるから!!」
「ッ!!」
諦めたくなかった。諦められるはずがなかった。笑って手放せるぐらいの思いならばここまで苦しみはしない。
「ウサギ君!!」
グッと堪えているネズミ君の瞳から初めてポロリと涙が零れ落ちる。
「僕は君のことが大好きだよ!!昔も今も、これから先ずっとずっと大好きだ!!」
抱き寄せられて彼の体に顔を埋める。
「君と笑いあい、寄り添う温もりに安堵し、溢れる思いに幸せをかみ締める。僕はこれからもそんな当たり前の日常を送りたい!!君と一緒に生きていたい!!でも…でもそれはもう無理なんだ!!」
「どうして!!ぼくたちの気持ちは同じじゃないか!!君とぼくは同じ…」
「同じじゃない!!」
回された腕にギュッと力がこめられた。
「同じでは…ないよ…」
悲しみをたたえた声音。
「君には僕と違って生きられる力があるじゃないか!!生きたくてもそうできない命に変わって、生きぬいていくだけの力がある。そうだろ?」
「ネズミ君…」
「わかるかい?ウサギ君。新しい住処を見つけるまではどの動物も自分が生き延びることに必死にならなければならない。自身以外を気にかけてやれる余裕はどの命にもないんだよ!!どんなに苦しくても誰も君を助けてはくれない。助けてあげることができない。僕はそんな過酷な状況の中で君の足手まといにしかならないんだ!!」
「それでも!!それでも…君と一緒にいられるのならぼくは―」
「それ以上は言わないで。そんな悲しい言葉は、ね?」
そっと促されてぼくは顔を上げた。彼は嬉しそうに微笑んでいた。
「ありがとう、ウサギ君。ありがとう。」
ネズミ君の瞳からハラハラと涙がこぼれ落ちる。
「僕、ずっと探していたんだ。自分の心を満たしてくれるものを。そうしてくれる風景を。ずっと…」
彼はぼくの毛をすくうように撫でた。
「僕は幸せだった。この森のみんなは優しかったし、僕を本当の子どものようにかわいがってくれたフクロウじいさんもいた。でも、心はどこか空虚だったんだ。からっぽだった。幸せだからといって心が満たされるわけじゃないことを僕は知った。」
目じりを和らげる彼。
「本当に贅沢な話だよね?でも、僕にしてみれば切実なことだった。ふとした瞬間に湧き上がってくる寂しさと空しさは幸せだったからこそ鮮明に描き出されてしまうものだったんだ。」
そっと瞳をふせた拍子に彼のそれから耐え切れないとばかりに涙が一粒こぼれ落ちた。
「でもね?僕は君に出会えた。」
彼の手のひらが包み込むように頬に添えられる。
「君と一緒なら僕は何をしていても心が一杯になるんだ。それは楽しいとか、嬉しいとか、幸せなんて言葉で表現できるものじゃなくて、もっと漠然としていて、湧き上がってくる気持ち。」
ぼくも…その気持ちを知っているよ?
「ふと目が合った瞬間。
何気なく触れた指先。
笑う君の瞳の中に映る自身の姿。
そうした一瞬に涙が溢れ出しそうになるんだ。悲しいことなどないはずなに―」
だって
「どこでもよかった。君がいる場所ならどこだって僕の探していた風景になる。僕の心を満たしてくれるただ一つの場所に。」
ぼくも同じだから。
「ありがとう、ウサギ君。僕、やっと帰りたいと思う場所に帰れる。だから―」
ぼくの心を満たしてくれるものは君のそばだから。
「ただいま。」
瞳に涙を浮かべながらネズミ君は晴れやかに笑った。
「ふっ…うっ…」
ぼくの体が崩れ落ちる。涙が止まらない。
「どうして…」
どうして彼はあんなふうに笑わなくてはならないのだろう?
どうしてぼくはさようならを言わなければならないのだろう?
どうしてぼく達が身勝手なニンゲンのために大切なものを失わなければならないのだろう?
握り締めた拳が小刻みに震える。心は急速に冷え、冷たい漆黒の炎が静かに燃え上がる。
「ゆるさない…」
思わず口から漏れ落ちた思い。
「ぼくはお前たちの力を許さない!!」
奪うことしか知らないニンゲンの持つ破壊の力をぼくは憎悪した。空に向かって叫んだ慟哭が木々を震わせる。けれど―
「違う!!」
その衝動を遮ったのはネズミ君の声で、必死な色をたたえた黒曜石の瞳がやんわりとぼくの心をたしなめる。
「違うよ、ウサギ君!!僕たちの、動物たちの声はね?あまりにも小さすぎてニンゲンには聞こえないだけなんだ!!」
「きこえ…ない?」
「うん、そうだよ。僕たちの声が届けば彼らは弱い命を、小さな命をきっと助けてくれる。僕はそう信じられるんだ。」
迷いのないネズミ君の眼差しはとても澄んだものだった。
「だって君はあんなに嬉しそうにニンゲンのことを話してくれただろ?君が心から信頼を寄せる命だからこそ、僕も信じることが出来るんだ。」
ぼく…が?
「君の大好きなちぃちゃんはウサギ君の声をちゃんと聞きとってくれたじゃないか。」
ぼくは彼女のやわらかな指の感触を思い出した。向日葵のような鮮やかな笑顔を思い描いた。そして、僕の名を呼ぶたおやかな声音が聞こえたきがした。
怒りに震える体からふっと力がぬける。目の前に映るぼくをいつでも見守ってきてくれたネズミ君の表情が彼女のそれと重なった。
「あぁ…」
彼女はニンゲンだ。けれど、奪うのではなくいつでも様々なものを与えてくれる力をぼくに向けてくれていた。
嵐のような衝動が過ぎ去った心の中に残る真実は一つ。
「ぼくは…ニンゲンが大好きなんだ。」
心のそこから搾り出した声をネズミ君は優しく受け止めてくれた。
「ねぇ、ウサギ君。僕は前に言ったよね?ニンゲンになりたいって。彼らは力を持っているって。」
静かな声音。
「どんな力かというとね?」
穏やかな表情。
「守る…力だよ。」
やわらかな微笑み。
「僕はニンゲンになりたかった。彼らのもっている力でこの森を、君の大切なものたちを守りたかった。僕は君の心を守りたかったんだ。」
涙をたたえながら晴れやかに笑うネズミ君の姿が雄弁にぼくたちの未来を語っている。
ぼくは気がついてしまった。
ぼくたちはさようならをしなければならないんだって。それを避けることはもうできないんだって。別れはいつも唐突で、ぼくたちの意思に反してやってくるものだった。
胸の中に渦巻いていた感情はすっかりとなりを潜め、掬い上げた手のひらから砂粒がさらさらとこぼれ落ちるように時が刻まれる。
「ぼくたちは―」
ぼくは競り上がってくる嗚咽を飲み込んだ。
「ぼくたちの距離はどうしてこんなにも遠いのだろう。」
さようならと言われるものとそういわなければならないもの。
生きる命と死にゆく命。
ぼくたちの間には決して手を伸ばしても届くことのない深い溝が横たわっていた。彼が酷く遠い存在に思えて仕方ない。
頬を伝って涙がすぅっと流れ落ちる。けれど、
「ウサギ君。」
呼びかけられてぼくは彼に近づくよう身をかがめた。そして彼は目線を合わせるように背伸びをする。
触れ合った鼻先。
「ほらね?こうすれば種族の違うぼくたちだってこんなにも近づけるんだよ?」
ぼくが最後に見た漆黒の宝石はどの世界にあるそれらよりも一番美しいものであった。