I — すべての始まり
この冷たい夜の中、遠くから聞こえてくる街の音がまだこの森まで届いていて、数メートル先では彼女が眠っている。俺は指定された時間を待ちながら、これを書いている。日の光が差したとき、何が起こるのか分からない。デレクを見つけられるのかも分からない。サムが生き残れるのかも分からない。それどころか、俺自身が次の夜明けを見ることができるのかさえ分からない。
最初から始める。すべての災厄が始まった、その瞬間から。
俺の名前はジェイコブ・レンツ。三十歳で、雑誌のカメラマン兼編集者として働いている。決して給料のいい仕事ではなかったが、生活していくことはできたし、ときどき本当に欲しいものを買うこともできた。特別な人生を送っていたわけじゃない。大きな計画もなかったし、自分の名前が歴史の本に載るなんて考えたこともない。ただ、月末までどうにか食いつなごうとしている一人の男だった。
そして、すべてが変わった。
新しいウイルスについて最初のニュースが流れ始めた日のことを、俺ははっきり覚えている。9月12日だった。
最初は、誰もそれほど心配していないようだった。初期の報道では、インフルエンザに似た病気で、発熱や倦怠感、そのほかの症状があると伝えられていた。少なくとも初期の専門家たちによれば、まだ大きな警戒を必要とするようなものではなかった。ニュースでは新たな感染者について報じ、政府は冷静になるよう呼びかけ、医師たちはまだ結論を出すには早すぎると繰り返していた。
言い換えれば、世界はいつも通り回り続けていた。
人々は仕事へ行き、レストランは相変わらず混雑し、車は道路を走り続け、飛行機は離陸を続けていた。そして俺も、それは数週間もすれば消えていく、ほかのニュースと同じものだと思っていた。
両親は、何年も前にも世界のさまざまな場所で不安を引き起こした別の病気で、似たような状況を経験したことがあると話してくれた。夕食のときにその話をしたのを覚えている。父は、メディアというものはどれだけ大げさに騒ぐことがあるかについて何か言い、母はただ話題を変えた。
彼らにとって、それは数ある心配事の一つだった。
俺にとってもそうだった。
しかし、インターネットでは話がまったく違っていた。ソーシャルメディアにはミームや冗談、さまざまな陰謀論があふれた。マスクを買っている人たちを笑う者もいた。新しいウイルスを過去の病気と比較する者もいた。視聴率を稼ぐためにメディアが大げさに騒いでいるだけだと言い張る者も多かった。
俺も笑っていた。
今となっては認めるのが難しい。でも、俺もそうしていた。すべては始まったときと同じように終わると思っていた。数週間ほど人々が心配して、その後は静かになる。
俺はこれ以上ないほど間違っていた。
先へ進む前に、このすべてが始まるずっと前から俺が持ち続けていたものについて話したい。
俺のカメラだ。
撮影した写真を、ほとんどその場ですぐに現像できるインスタントカメラだった。初めて給料をもらった頃の金で買ったものだ。ドイツの「レッド・グラス」というブランドで、俺のような人間にとっては決して安いものではなかった。
でも、俺はそれが大好きだった。
いつも持ち歩いていた。カメラマンとして、他の人が見落とすものを見ることを覚えていた。表情、影、誰もいない通り、夜中に明かりの灯った窓。あの写真が、いつかこの日記の一部になるなんて想像したこともなかった。
このページの間にある写真のいくつかは、あのカメラで撮ったものだ。最初は仕事のために使っていた。その後は、記憶するために使った。そして最後には、忘れないために使った。
最初のニュースから数日が過ぎても、ウイルスはメディアで絶えず取り上げられていたものの、日常生活にはまだある程度の平穏が残っていた。
少なくとも、俺たちはそう思っていた。
その夜、俺はオフィスでの勤務を終えようとしていた。午前2時、ようやく勤務終了を知らせるベルが鳴った。
何人かの同僚と一緒に建物を出た。夜の空気は凍えるように冷たかった。風が駐車場を横切り、ジャケットの襟元から入り込んできた。少し前まで雨が降っていて、アスファルトにはまだ薄い水の膜が残り、街灯の黄色い光を反射していた。
車へ向かって歩いていると、濡れた砂利を踏む靴の音がした。バックパックを入れるためトランクを開けたとき、同僚の一人が近づいてきた。
「ジェイコブ、悪いな。明日、妻が仕事終わりに迎えに来られないんだ。家まで送ってもらえないかと思って。無理ならいい。タクシーに乗るから」
俺は数秒間、彼を見つめた。
「いや、問題ないよ。明日、仕事が終わったらここで待ってる」
「本当に?」
「ああ。別に手間じゃない」
男は笑った。本当に安心したようだった。
「ありがとう、兄弟。本当に助かる」
彼は俺の肩を軽く叩いてから離れていった。
「また明日」
「ああ、またな」
俺は昔から、人の個人的な問題に首を突っ込むのが好きではなかった。彼が妻との間で難しい状況を抱えていることは知っていたし、噂では二人の関係はあまりうまくいっていないらしかった。でも、それは俺には関係のないことだった。
助けられるなら、助ける。
俺は一人で駐車場に残った。数秒間、車のそばに立ち、風の音と遠くから聞こえる街のざわめきに耳を傾けていた。
そのとき、俺はそれを見た。
数メートル先、道路の向こう側を、一人の男がふらつきながら歩いていた。俺はそれほど注意を払わなかった。角を曲がったところに、夜になると人でいっぱいになるバーがあった。単に飲みすぎたのだろうと思った。
俺は車に乗り込もうと振り返った。
なぜか、もう一度見た。
男は立ち止まっていた。
俺を見ていた。
道路の真ん中で完全に動きを止め、身体をわずかに前へ傾けていた。酔っているようには見えなかった。タクシーを待っているようにも見えなかった。
ただ、そこにいた。
俺を見ていた。
俺は首を振って車に乗り込んだ。あれが、数日後にはあまりにもよく見覚えのあるものとして認識することになる存在を、初めて目にした瞬間だったなんて、そのときの俺は知らなかった。
エンジンをかけた。音が駐車場の無人の建物の間に響いた。ラジオをつけ、いつもの放送局、44.7チャンネルを探した。駐車場を出る間、クイーンの曲が流れ始めた。
道路はほとんど空いていた。この時間なら珍しいことではなかった。でも、その夜には何かが違っていた。説明するのが難しい感覚。まるで街全体が息を潜めているようだった。
タクシーが反対車線を通り過ぎ、通りの向こうへ消えていった。
あれが、普通の交通がまだ俺の人生の一部だった最後の夜の一つになるなんて、俺は知らなかった。
信号に差しかかった。音楽が流れ続ける中、突然、放送が中断された。
「この放送を中断して、すべての市民の皆様に自宅に留まるようお知らせいたします。新たな指示があるまで、いかなる理由があっても外へ出ないでください。当局は今後の発表で、さらなる情報を提供します」
放送が終わった。
音楽が再び流れ始めた。
何事もなかったかのように。
俺は数秒間、ラジオを見つめた。
「変なの……」
信号が青になった。
俺は運転を続けた。
そのとき、青い光が目につき始めた。
一台。
そのあと、もう一台。
さらにもう一台。
パトカーだった。
一台が猛スピードで俺の横を通り過ぎた。その後も一台、また一台と続いた。誰かを追っているようには見えなかった。ただ、ライトを点けたまま街を走り、まるで手遅れになる前にどこかへたどり着こうとしているようだった。
別の信号に着いた。
今度は、警察のバンが俺の横で止まった。
助手席の窓が下がった。
「こんばんは、ジェイコブ」
俺はすぐにその男に気づいた。
「こんばんは」
マーティンだった。父の昔からの友人だ。何年も前から知っている。
「お父さんは元気か?」
「知ってる限りでは元気だよ。かなり長いこと会ってないけど」
マーティンはうなずいた。
「それならよかった。放送は聞いたか?」
「ああ。ちょうど家へ帰るところだった。何が起きてるのか聞いてもいいか?」
マーティンは前方を見た。数秒間、何も答えなかった。それから再び俺を見た。
「俺たちも、君とほとんど同じことしか知らない。命令が届くたびに、それに従っているだけだ」
「ウイルスは?」
「今のところ、そう言われている。すべてウイルスに関係していると」
「じゃあ、本当なのか? 悪化してるのか?」
マーティンは一瞬、答えるのをためらった。
「分からない、ジェイコブ」
声が変わっていた。俺が知っている、あの気楽な男の声ではなかった。
「でも、俺たちには街から人を退避させるよう命令が出ている。それだけは言える」
「何か問題があるのか?」
マーティンは少し視線を落とした。
「それについては話せない」
気まずい沈黙が流れた。
「とにかく家へ帰れ」
「分かった」
信号が変わる前に、マーティンは手を上げた。
「それともう一つ。もしまた検問に出会っても、信号のことは気にするな。車を通せという指示が出ている」
「赤信号でも?」
マーティンは少し笑った。
「赤でもだ。でも、それに慣れないようにな」
俺は小さく笑った。
「努力するよ」
信号が変わった。
「気をつけろ、ジェイコブ」
「そっちもな、マーティン」
バンが走り出し、通りの先へ消えていった。
俺は家へ向かった。
家に着くと車を停め、中へ入った。家の中は完全に静まり返っていた。
静かすぎるほどに。
鍵をテーブルの上に置き、ジャケットを脱いでベッドに横になった。携帯電話を手に取った。何が起きているのか理解したかった。
ニュースでは感染者数が大幅に増加していると報じていた。記者たちは、ウイルスについてまだ十分な情報がないこと、研究者たちがその起源を特定しようとしていること、そして当局が刻々と状況を追っていることを繰り返していた。
ある放送では、記者が病院の前に立っていた。背後では救急車の白いライトが入口を照らし、医療車両が絶えず出入りしていた。
「保健当局は、この新しいウイルスが具体的にどのような挙動をするのか、まだ確認できていません。現在、専門家たちは感染経路と感染した患者の経過を調査しています。市民の皆様には冷静さを保ち、不必要な接触を避け、公式発表に注意を払うようお願いします」
チャンネルを変えた。
別の記者も、ほとんど同じことを話していた。
その次も。
さらにその次も。
情報は何度も繰り返されたが、数時間おきに新たな感染者が現れていた。
やがて俺は携帯電話をベッドの上に置いた。
これ以上答えを探すには、あまりにも疲れていた。
靴すら脱がずに眠ってしまった。
夜中、いくつかの奇妙な音で目を覚ました。何の音なのかまでは分からなかった。まだ半分眠ったまま、天井を見つめながら、もう一度何か聞こえないか耳を澄ませた。
何もない。
ただ静寂だけ。
車かもしれない。動物かもしれない。ただの通りの音だったのかもしれない。
俺は再び眠った。
午後1時、アラームが鳴った。
驚いて目を覚まし、自分がどこにいるのか思い出すまで数秒かかった。午後4時には仕事へ行く準備をしなければならなかったので、起き上がってキッチンへ向かった。
昼食を作りながらテレビをつけた。
今度はニュースが違っていた。
ここ数時間で感染者数が大幅に増加していた。さまざまな都市で新たな集団感染が発生していた。病院にはより多くの患者が運び込まれ始め、いくつかの医療施設はすでに通常の収容能力を超えていた。
それでも、完全に崩壊した都市の映像はまだなかった。街中を走り回る大群衆も、店を略奪する人々もいなかった。
まだ。
記者たちは心配そうに話していたが、声の調子は抑えられていた。医師たちは冷静になるよう求めていた。政府関係者は状況を監視していると繰り返していた。
そのとき、公式発表が流れた。
「この時点から、当局は市民の皆様に自宅に留まるよう要請します。必要不可欠ではない活動を停止し、移動を制限します。当局が安全な状態になったと判断するまで、市民は自宅に留まらなければなりません」
俺は画面を見つめた。
俺の仕事も停止になった。
もうオフィスへ行く必要はなかった。
国は、ついに隔離状態へ入った。
9月16日――隔離命令から1日目。
こんなに長い間、一日を完全に自由に過ごせることは初めてだった。早起きする必要も、仕事に間に合うよう急ぐ必要も、コンピューターの前で何時間も過ごす必要もなかった。最初は、それほど悪くないかもしれないとさえ思った。
一日の一部を映画を見たり、ゲームをしたり、家の中を片づけたり、絶えずニュースを確認したりして過ごした。状況は相変わらず奇妙だったが、まだ世界の終わりには見えなかった。
ソーシャルメディアには相変わらずウイルスについてのコメントがあふれていた。まだ冗談として受け止めている人もいたが、その数は少しずつ減っていた。
デレクとも、ときどき話していた。俺たちは子供の頃から、学校の頃からの友人だった。隔離のせいで会うことはできなかったが、電話で連絡を取り合っていた。ウイルスのこと、家族のこと、閉じ込められているのがどれだけ退屈か、何でも話した。そして、ときどき、これもすぐに終わるとお互いに言い聞かせようとした。
テレビ放送にも、奇妙なことに気づき始めた。
発表が繰り返されるようになった。
何度も。
同じ司会者、同じ言葉、同じ病院の映像。テレビ局が受け取る新しい情報が、どんどん少なくなっているように見えた。
あるいは、誰かが俺たちに知りすぎないようにしているようにも見えた。
そのときの俺は、あまり重要なことだとは思わなかった。
今なら、気にするべきだったと分かる。
9月17日――隔離命令から2日目。
俺は車を掃除するため庭へ出た。空は完全に曇っていて、空気には嵐の前に漂うような湿った匂いがあった。雲が街の上まで降りてきたように見え、冷たい風が庭を通り抜けていた。
ボンネットを布で拭いていると、隣人が植物に水をやっているのが見えた。
名前はハーシェル。
60歳くらいで、一人暮らしだった。
俺を見ると、庭同士を隔てるフェンスへ近づいてきた。
「おはよう、ジェイコブ。隔離生活はどうだ?」
「おはよう、ハーシェル。まあ、元気ですよ。少し寂しいときもありますけど。そちらは?」
俺はフェンスへ近づいたが、ある程度の距離は保った。
ハーシェルはホースを地面に置いた。
「まあまあだ。でも、今朝から少し頭が痛くてな」
「大丈夫ですか?」
「たぶん」
彼は首の後ろをかき、自分の家へ目を向けた。
「ただ、変なことがあったんだ」
「何が?」
「今朝、男が玄関を叩いたんだ。配達員だと思った」
彼は一度言葉を切った。
「でも、そのあと考えたんだ。理論上は、誰も外に出ちゃいけないはずだって」
「それで、どうしたんです?」
「開けた」
まるで、自分がなぜそんな間違いを犯したのか、まだ理解しようとしているような言い方だった。
「その男がいきなり飛びかかってきて、俺の手を噛んだんだ」
彼は包帯を巻いた手を持ち上げ、俺に見せた。
「何ですって?」
「ああ。引き離すのに苦労したよ」
「どんな男でした?」
「よく見えなかった。全部、あまりにも早く起きたんだ。外へ押し出して、ドアを閉めた」
「その後は?」
「ドアを叩き続けてた」
ハーシェルは唾を飲み込んだ。
「変な音を出してた。うなり声みたいな」
俺は包帯を見た。
「医者に連絡したほうがいいですよ」
「必要ない。きっと酔っ払いだったんだ」
「ハーシェル……」
「心配するな、ジェイコブ」
自分の言葉を自分自身で信じているようには見えなかった。
「少なくとも気をつけてください。状況が落ち着くまで、できるだけ家から出ないほうがいい」
俺が返事をする前に、遠くからサイレンが聞こえ始めた。最初はかすかな音だったが、次第に大きくなっていった。
ハーシェルと俺は顔を見合わせた。
言葉は必要なかった。
俺たちは二人とも、急いでそれぞれの家へ戻った。
9月19日――隔離命令から4日目。
この二日間、インターネット上に奇妙な動画が現れ始めた。最初は少なかった。一人が別の人間を襲う映像、通りを走る人、見知らぬ人間に噛みつく男。窓から撮影されたものもあれば、携帯電話や監視カメラで撮影されたものもあった。何が起きているのか理解するには、あまりにも不鮮明なものも多かった。
最初のコメントでは、薬物を使用している人間、パニック発作、精神疾患、さらには食人事件だという話まで出ていた。
でも、俺には気になることがあった。
動画が消えていた。
誰かが動画を投稿すると、数分後にはもう見られなくなっていた。別の動画が現れても、それもすぐに消えた。
テレビでは、記者たちが何が起きているのか説明しようとしていた。
「ここ数時間で、極めて攻撃的な行動を示す人々に関連するとみられる複数の暴力事件が発生しています――プエルト・グリス総合病院の外から、記者が報告しています――当局は、これらの事件がウイルスと直接関係しているかどうかについて、まだ確認していません」
記者はイヤホンから指示を受け、横を見た。
「また、国内の別の地域でも同様の事件が発生しているとの情報が入っています。現在、当局は市民に対し、出所を確認できない動画を共有しないよう求めています」
俺はテレビを消した。
何を信じればいいのか分からなかった。
でも、初めて恐怖を感じ始めた。
状況は悪化した。
当局は新たな制限を発表した。人々は、いかなる理由があっても自宅から出ることを禁じられた。軍が街路へ展開し始め、隔離命令に違反した者は拘束される可能性があると警告された。
街はますます静かになっていた。
ときどきエンジン音やサイレン、ヘリコプターの音が聞こえた。そのあと、また静寂が戻った。
日に日に、人の動きが減っていた。
その夜、俺は早く寝た。明かりを消したまま、数分間天井を見つめていた。
家族のことを考えていた。
仕事のこと。
これが終わったら、自分が何をするのか。
もう二度と普通の生活に戻れないかもしれないなんて、そのときの俺は知らなかった。
9月20日――隔離命令から5日目。
ひどく喉が渇いた状態で目を覚ました。ベッドから起き上がり、キッチンへ行って水差しをつかみ、グラスに注いでから部屋へ戻った。
携帯電話を手に取った。
不在着信がいくつかあった。
家族。
デレク。
折り返してみた。
誰も出なかった。
ニュースはさらに悪化していた。人々が他人を襲う動画は増え続けていた。記者たちは国内のさまざまな場所で暴力事件が起きていると報じていたが、当局はいまだにパニックを引き起こしかねない言葉を避けていた。
まるでホラー映画のようだった。
ただし、俺はその中にいた。
しばらくすると、外から小さな声が聞こえた。
俺はゆっくりと窓へ近づいた。
ハーシェルかもしれないと思った。
階段を下り、裏口へ向かった。
ドアノブに手を置いた。
開けた。
「ハーシェル?」
そのとき、彼が振り返った。
そして、俺が最初の感染者を見たのは、その瞬間だった。
数秒間、俺は反応できなかった。ハーシェルだった。でも、同時にもうハーシェルではなかった。服は破れ、暗い染みで覆われていた。腕と顔にはいくつもの切り傷があり、口を覆っていた血が首から胸の一部にまで広がっていた。まだ新しいように見える血もあった。それが誰の血なのか分からなかった。でも、俺の一部は、それを受け入れたくなるより先に答えを理解していた。彼の目は完全に虚ろだった。俺を見ているのに、俺を認識しているようには見えなかった。
「ハーシェル……」
俺は彼に一歩近づいた。
「どうしたんです?」
返事はなかった。喉から荒い音が出た。ほとんどうなり声のようだった。そして口を開き、届かない何かに噛みつこうとするように歯を打ち鳴らし始めた。
俺は後ずさった。
「ハーシェル、俺だ」
何もない。
もう一度名前を呼んだが、彼はただ乾いた音を立てながら、俺へ向かって進み続けた。
そして、突然飛びかかってきた。
俺は素早く後退し、ドアを勢いよく閉めた。ハーシェルがドアに激突し、その衝撃でガラスが震えた。また叩いた。そして、もう一度。
「ハーシェル、やめろ!」
反応しなかった。ほんの数時間前まで、ただの頭痛を訴えていた人間とは思えない力で、ドアを叩き続けた。さらに後ろへ下がると、ガラスの一枚が割れる音がした。
破片が一つ床に落ち、別の破片が枠にぶら下がった。ハーシェルの腕が開いた隙間から伸び、ガラスが皮膚に食い込み始めた。血が前腕を流れ始めたが、彼は止まらなかった。腕を引こうともせず、叫び声も上げず、痛みを示す様子さえなかった。ただ、俺に届こうとし続けていた。
そこで俺は、それが普通ではないと理解した。
俺は自分の部屋へ走り、ドアを閉めた。家の向こう側から聞こえる打撃音を聞きながら、息を切らしてドアにもたれた。一つ一つの衝撃が、身体を強張らせた。震える手で電話を探し、緊急通報した。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、誰かが出た。
「緊急です」
「助けが必要です。隣人がおかしくなりました。家に入ろうとしています」
「落ち着いてください。誰か怪我をしていますか?」
「いいえ。俺は大丈夫です。でも、彼は血だらけです。俺を襲って、家に入ろうとしています」
「血液に接触しましたか?」
「してません。たぶん」
「分かりました。彼に近づかないでください。触れたり、話しかけたりしないでください。距離を保ち、血液との接触を避けてください。噛みつこうとしてきた場合は、すぐに離れてください」
家の奥では、まだ打撃音が続いていた。
「でも、誰か送ってください」
「現在、同様の通報を多数受けています」
「それはどういう意味ですか?」
「自宅から出ないでください。すべてのドアと窓を閉め、その人物から離れ、対峙しようとしないでください」
「でも、家に入ろうとしているんです」
短い沈黙があった。
「分かっています」
声の調子が変わっていた。もう、通常の手順に従っている人間の声には聞こえなかった。
「できる限り対応していますが、現時点では誰も派遣できません」
「派遣できないって、どういうことですか?」
「閉じこもっていてください」
通話が切れた。
俺は電話を見つめた。家族に電話をかけてみたが、誰も出なかった。もう一度かけた。何もない。デレクにも電話した。彼も出なかった。
打撃音は続いていた。
俺は部屋に閉じこもり、待った。一時間が過ぎた。そのあと、もう一時間。いつの間にか、ハーシェルの音が聞こえなくなった。すぐには出る勇気がなかった。ベッドの横の床に座り、電話を手にしたまま、もう少し待った。
やがて、疲労が恐怖を上回った。
俺は眠りに落ちた。
9月21日――隔離命令から6日目。
翌朝、俺は驚いて目を覚ました。数秒間、何が起きたのか思い出せなかった。それからドアを見た。
ハーシェル。
ゆっくり起き上がり、部屋を出た。階段を下りる。家は静まり返っていた。打撃音は聞こえなかった。何も。
裏口へ近づき、外を見た。庭は空っぽだった。
ハーシェルは消えていた。
だが、地面には血の跡が残っていた。
数秒間、それを見つめた。あの数時間の間に何が起きたのか分からなかった。でも、それを知りたいとも思わなかった。
居間へ戻り、テレビをつけた。前日との違いはすぐに分かった。ニュース番組は完全に混乱していた。渋滞した道路、満員の病院、街を走り抜ける警察車両、都市から逃げようとする人々の映像が流れていた。放送は新しいニュースが入るたびに中断されていた。
その一つでは、記者が警察車両で作られたバリケードの後ろに立っていた。その奥では、何人もの警官が通りを無秩序に走る人々へ向けて発砲していた。カメラは震え、音声は叫び声とサイレン、銃声で飽和していた。
「どうやら、感染者の波がここ数時間で大幅に増加しています!」記者は冷静さを保とうとしながら言った。「警察部隊は襲撃を食い止めようとしており、当局は安全区域を設定するために動いています!」
カメラが動いた。数秒間、車両の間を走る人々が見えた。一人が倒れ、別の人間がその上へ飛びかかった。
放送が切れた。
すぐにスタジオの司会者が映った。
「可能になり次第、現場の記者との接続を復旧します」
画面が切り替わった。
数分後、医師がカメラの前に現れた。疲れ切っているようだった。深い隈が目の下にあり、白衣には染みがついていた。
「現時点で、私たちはこのウイルスについてほとんど何も分かっていません」と彼は説明し始めた。「ただし、血液を介して感染することは確認されています。そのため、感染者とのいかなる接触も避けるようお願いします」
彼は続ける前に一度言葉を切った。
「誰かが攻撃的な行動、意識喪失、見当識障害、その他の異常な症状を示した場合、近づかないでください。距離を取り、すぐに当局へ通報してください」
医師は一瞬、横を見た。
「ウイルスの正確な起源はまだ分かっておらず、感染が発症するまでにどれほどの時間がかかるのかも分かっていません。医療チームと科学者たちは、これを止める方法を見つけるために動いています」
映像が再び司会者へ戻った。
「当局は、自宅に留まり、ドアと窓を閉め、軍および医療機関の指示に従うよう求めています」
俺はテレビを消した。
そのとき、電話のことを思い出した。確認すると、不在着信が一件と、デレクからのメッセージが一件あった。メッセージは夜中に届いていた。
開いた。
「ジェイコブ、もう一度外へ出てほしい。ブリサを探さなきゃならない。彼女はアッシュフォード空港にいる。俺はそこへ向かっている。でも一人じゃ無理だ。これを見たら電話してくれ」
二度読んだ。
ブリサは彼の恋人だった。
彼は彼女をそこに置き去りにはできなかった。
すぐに電話をかけた。一度、二度、三度。出なかった。もう一度かけたが、応答はなかった。
俺はどうすればいいのか分からないまま、画面を見つめた。一方では、当局が閉じこもっていろと言っている。もう一方では、友人が愛する人のもとへ向かおうとしていて、おそらくあの混乱の中で一人きりだった。
そのとき、玄関のドアを叩く音がした。
俺は動きを止めた。
もう一度叩いた。
助けを求めている誰かかもしれないと思った。隣人かもしれない。警察かもしれない。
慎重に近づいた。
「誰だ?」
返事はなかった。もう一度叩いた。さらに近づいて窓から見ようとしたが、何も確認できなかった。ドアノブに手を置いた。
開けた。
すべてが一瞬で起きた。二体の感染者が入口へ飛び込んできた。俺は勢いよく後退し、床に尻もちをついた。一体が俺に手を伸ばし、もう一体が後ろから入ってきた。俺は後ろへ這いずり、どうにか立ち上がった。考える暇はなかった。廊下へ走り、入口へ通じるドアを閉めた。
すぐに反対側から打撃音が始まった。
ここにはいられない。
家の裏側へ走った。出る前に車の鍵をつかみ、ドアを開けた。雨が降り始めていた。雨水が庭を激しく叩き、地面は泥に覆われていた。冷たい空気が顔を打つ中、車へ走った。後ろのドアを閉めて鍵をかけ、車へ駆け込み、エンジンをかけた。
あの感染者たちが家から出られるのかは分からなかった。確かめたいとも思わなかった。
車を走らせ、家を出た。
俺の町には千人ほどしか住んでいなかった。小さな町で、ほとんど全員がお互いを知っているような場所だった。でも、その朝は十倍も大きな都市のように見えた。そして、崩壊し始めていた。至る所に車があった。出ていこうとする車、入ってこようとする車、道路を走る人々、荷物を抱える家族、窓から指示を叫ぶ人々。サイレンは鳴り止まなかった。パトカー、救急車、軍用トラック、建物の上空を飛ぶヘリコプター。数キロ先から煙の柱が立ち上る中、低空を飛ぶ飛行機まで見えた。
すべてが同時に起きていた。ほんの数時間前まで空っぽに見えた街が、今では住民全員を吐き出そうとしていた。
家へ戻るつもりはなかった。感染者たちが中へ入っていて、何体いるのか分からなかった。それに、デレクは電話に出なかった。できることは、彼がまだ自宅にいるか確かめることだけだった。
彼の家は約3キロ先にあった。
普段なら数分で着く距離だった。でも、その日の道路は混乱していた。交通はほとんど進まなかった。道路の真ん中で止まった車、衝突した車、車を捨てていく運転手、どこへ行けばいいのか分からず走り回る人々。地域から逃げようとする人もいれば、家族を探す人もいた。サイレンがエンジン音や叫び声、ヘリコプターの音と混ざっていた。
ようやくデレクの通りに着いた。家の前に車を停め、急いで降りた。周囲ではまだサイレンが鳴り続け、交通の音も絶えなかった。でも、その瞬間の俺は、彼を見つけることしか考えていなかった。ドアまで走り、ノックした。
「デレク!」
数秒待った。
何もない。
もう一度、今度は強くドアを叩いた。
「デレク! 俺だ!」
電話を取り出し、同時に彼へかけた。何度も呼び出し音が鳴ったが、誰も出なかった。家の窓を見ながら、もう一度かけた。動きはない。一度。二度。三度。何も。
「頼むよ、デレク……」
そのとき、通りを近づいてくるエンジン音が聞こえた。
振り返った。
軍人の部隊が車の間を進んできた。武装し、素早く動きながら、地域を確保しようと家や通りを監視していた。俺が家の前にいるのを見ると、数人が立ち止まった。
一人の兵士が銃を上げ、俺を指した。
「おい! 家から離れろ!」
俺は動かず、両手を上げた。
「友人を探しています。ここに住んでいます」
「中に入ったのか?」
「いいえ。今来たばかりです。電話しているんですが、出ません」
一人が数歩近づいてきた。
「噛まれたか?」
「え?」
「噛まれたのか? 怪我は?」
「いいえ」
兵士は数秒間、俺を見つめた。
「車へ戻れ」
「でも、友人がここにいます」
「車へ戻れと言った」
俺は最後にもう一度、デレクの家を見た。誰もいなかった。
「分かりました……」
ゆっくり後退し、車へ戻った。運転席に座ったが、すぐにはエンジンをかけなかった。部隊が通りを進み続けるのをバックミラー越しに見た。そして、そこで理解した。デレクを待っていることはできない。彼が家の外にいるなら、見つける方法がない。もし家の中にいるのなら、おそらく俺も中へ入って探すことはできない。
できるのは、彼のメッセージに書かれていた場所へ向かうことだけだった。
アッシュフォード。
問題は、そこへたどり着くのが簡単ではないことだった。
再び道路へ出ると、また混乱に巻き込まれた。交通はさらに悪化しているようだった。横転した車、事故、空いている場所ならどこへでも進もうとする人々。何時間経っても、数キロしか進めなかった。
五時間。
あの忌々しい渋滞を抜けるのに、それだけかかった。衝突した車、言い争う人々、車を捨てる運転手、道路が完全に塞がったことを理解して徒歩で進もうとする家族を、五時間見続けた。
あるとき、誰かが車の窓を叩いた。振り返ると、60歳くらいの年配の男がドアの横に立っていた。顔は疲れ切っていて、髪は完全に白かった。男はガラス越しに、数メートル後ろに停まっている別の車の中の少女を指差した。
窓を下げようとしたが、サンバイザーが引っかかっていて動かなかった。何度か試しても無理だったので、結局ドアを開けて外へ出た。
「何か必要ですか?」
「水は持ってるか?」男が尋ねた。「孫娘がさっきから咳をしていて、薬を飲ませたいんだ。でも、水がどこにもない。何人かに聞いたが、持っていないか、自分たちに必要だと言われた」
俺は車を見た。収納スペースの一つに小さな水のボトルが入っていた。
「あります。ちょっと待ってください」
車内へ戻り、ボトルを探して男へ渡した。男は両手で受け取った。
「ありがとう」
「気にしないでください」
男はボトルを見て、それから再び俺を見た。
「今は金を持ってないんだ。でも……」
「いや、いや、大丈夫です。払う必要はありません」
男はゆっくりとうなずいた。
「ありがとう。本当に」
数秒間、俺たちはそこに立っていた。エンジン音と、道路に閉じ込められた何百人もの人々の声に囲まれていた。こんな状況で普通の会話をしていることが、妙に感じられた。
「何が起きているか、何か知っているか?」男が尋ねた。
俺は首を横に振った。
「あなたと同じです。ニュースで言ってることと、それくらいしか」
「どこへ向かってる?」
答える前に道路を見た。
「アッシュフォード。空港です」
男は眉をひそめた。
「アッシュフォード?」
「はい。そこで人を探さなきゃならない」
数秒間、彼は黙った。
「そこから近いところに友人が住んでいる。今朝電話があった。空港が感染者だらけだと言っていた」
胃が締めつけられるような感覚がした。
「何?」
「たくさん感染したらしい。人々が……変な行動を始めた。他人を襲っていた。まるで人食い人種みたいに。状況はものすごい速さで手に負えなくなったそうだ」
俺は唾を飲み込んだ。
「それで、今は?」
「彼の話では、空港の中に閉じこもろうとしたらしい。でも、感染が一緒に中へ入ったようだ。そこには大量の死者がいると言っていた」
俺は答えなかった。
ブリサはその空港にいる。デレクの恋人だ。
そして、彼はそこへ向かっている。
俺がそれ以上何かを言う前に、警察のバイクが車の間から現れた。警官は俺たちの横をゆっくり通りながら叫んだ。
「車に戻れ! 車から出るな!」
バイクは車列の間を進み続けた。
俺は男を見た。
「従ったほうがよさそうです」
彼はうなずいた。
「ああ。その通りだ」
「気をつけて」
「あなたも」
男は自分の車へ戻り、俺も同じように車へ戻った。ドアを閉め、数秒間何もないところを見つめた。それから再びハンドルに手を置いた。
数分が過ぎた。
そのとき、叫び声が始まった。
最初は少なかった。エンジン音に混ざる遠くの声だった。それが次第に増え、やがて轟音のようになった。人々が車の間を走り始めた。車を捨てて道路を走る者もいた。急いで動こうとして衝突する車もあった。ドアが次々と開き、バックパックやスーツケース、バッグを手にした人々が走っていた。
何かが起きていた。
ドアを開け、何が起きているのか確認しようと顔を出した。最初は走っている人々しか見えなかった。後ろを見ると、車の数が多すぎてよく見えなかった。
そこで、高さを稼ぐために座席の上へ立った。
そして、見えた。
遠く、車の間からいくつもの人影がふらつきながら現れた。歩いているものもいた。ゆっくり走っているものもいた。完全に酔っている人間のように、互いにぶつかり、バランスを崩し、数秒後にまた取り戻していた。
でも、酔っていたわけじゃない。
感染者だった。
そして、こちらへ向かってきていた。
感染者の前にいた人々が、あらゆる方向へ逃げ始めた。叫ぶ者もいた。後ろを振り返らず走る者もいた。スーツケースを引きずる女性、その隣で子供を抱えて走る男。車を捨てて道路を走る人々も何人も見えた。
すぐに座席から降り、ドアを閉めた。
考える時間はなかった。
人の波が車の間を通り始めた。ドアを叩きながら道を開けようとする人もいた。俺の車のすぐそばを走り抜ける人もいて、その足音がすぐ隣から聞こえた。
そして、それが起きた。
感染者の一体が群衆の中から現れ、両手で俺の窓を叩いた。ガラスが血で染まった。
俺は一瞬、動けなくなった。
そして、反応した。
バックギアに入れてアクセルを踏んだ。車が車列の間を後退し、何人かの運転手が必死にクラクションを鳴らした。ハンドルを右へ切り、列から抜けて道路脇の土の上へ入った。
俺だけではなかった。数台の車も渋滞から抜け、即席の道を使って逃げようとしていた。泥と凹凸の中を進みながら、必死に左右を見た。
そのとき、分岐を見つけた。
右側に、幹線道路から離れて木々の間へ入っていく細い道があった。
考えなかった。
急ハンドルを切ってそこへ入り、アクセルを踏んだ。背後からは叫び声、エンジン音、銃声がまだ聞こえていた。
五時間ぶりに、渋滞が後ろへ消えた。
道はやがて、木々の間へ入っていく未舗装の道路へ変わった。どこへ続いているのか分からなかったが、あのまま閉じ込められているよりは何でもよかった。
かなり長い間、森の中を運転した。タイヤが泥を巻き上げ、凹凸を通るたびに車が揺れた。空が暗くなり始め、雨で道は土と水が混ざった状態になっていた。
ようやく森を抜けた。
脇道へ戻ることができた。すでに日が沈みかけていた。数分進むと、遠くに青い光が見えた。
パトカーだった。
サイレンを鳴らしながら道路の真ん中に停まっていた。速度を落とした。雨は弱くなっていたが、アスファルトはまだ完全に濡れていた。パトカーの赤と青の光が道路に反射し、水の上に広がる色の染みのように見えた。
数メートル後ろに停まり、待った。
何も起こらなかった。
「誰かいますか?」
返事はなかった。
車を降りた。空気は冷たく湿っていた。ゆっくりとパトカーへ近づき、運転席の窓から中を見た。
座席に血があった。
それだけだった。
警官も、武器も、車内に隠れている人間もいなかった。
ただ血だけがあった。
そこに留まりたくなかった。急いで車へ戻り、運転を続けた。
走っているうちに夜が完全に訪れた。しばらくすると、数軒の家といくつかの店が点在する小さな町に着いた。あまりにも小さく、本当に町なのかと思うほどだった。
速度を落とした。
そのとき、遠くに何かが見えた。
感染者の集団が一台の車を取り囲んでいた。
車を止めた。中に何があるのか分からなかった。携帯電話を取り出し、カメラでズームした。手が震えて映像も揺れた。
そして、見えた。
中に誰かがいた。
人だった。
意識を失っているようだった。怪我をしているのか、ただ眠っているのかは分からなかった。でも、生きていた。
感染者たちを見た。正面から相手にするには多すぎた。
そのとき、考えが浮かんだ。
車のアラームを鳴らした。
音が夜を貫いた。感染者たちが振り返り始めた。反応するまで数秒かかるものもいたが、やがて俺の車へ向かって歩き始めた。
ライトを消し、道路の端をゆっくり進んだ。草地を使い、感染者たちの視界に入らないようにした。もう一台の車へ十分近づくと、はっきり見えた。
若い女性だった。肌は白く、髪は茶色だった。車内で意識を失っていて、服と身体のあちこちに血が付いていた。
ドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。周囲を見回し、窓を割れるものを探した。大きな石も、道具も、使えそうなものは何もなかった。
ほかに方法がなく、肘を上げてガラスを殴った。
何も起こらなかった。
腕全体に鋭い痛みが走っただけだった。
「映画だともっと簡単なのに……」俺は小声で呟いた。
感染者たちを素早く見た。小さな打撃音では注意を引けなかった。俺の車のアラームのほうがはるかに大きく、その音が無人の通りと小さな町の家々の間に響き続けていた。
そのとき、突然、アラームが止まった。
静寂が戻った。
感染者たちはそれぞれ違う方向へ振り返り始めた。完全に興味を失ったようなものもいた。別のものは目的もなく歩き始めた。
俺はまだ車のそばにいた。
そのとき、携帯電話が音を立てた。
小さな通知音。
単純な「ピン」という音だった。
完全に静かな通りでは、予想していたよりずっと大きく聞こえた。
感染者たちが振り返った。
全員が。
画面を見た。
デレクだった。
メッセージにはこう書かれていた。
「ノースブリッジで移動手段を探している。車を盗まれた。これを読んでいるなら、朝にはアッシュフォード方面へ向かう街の外れにいる」
その瞬間、動かなければならないと理解した。時間を無駄にはできなかった。
窓ガラスを見て、それから携帯電話を見た。しっかり握り、端末の下部を指の間に持ち、その縁で叩けるようにした。
殴った。
ガラスにひびが入った。
もう一度殴った。今度は小さな穴が開いた。携帯電話が地面に落ち、画面が完全に壊れた。まだ使えるか確認する時間はなかったので、ポケットへ入れた。
肘で窓をもう一度殴った。ガラスが完全に割れた。
隙間から手を入れ、内側からドアを開けた。
女性はまだ意識を失っていた。
彼女を抱き上げた。思っていたより重かった。彼女のバックパックを自分の背中に背負い、走り始めた。
感染者たちはすでに近くまで来ていた。道路の端を走り、両側から近づいてくる感染者を避けようとした。ゆっくり動くものもいれば、俺を見ると速度を上げるものもいた。女性は俺の腕の中で完全に動かなかった。
生きているのか分からなかった。どれだけ時間が残されているのかも分からなかった。
ただ走った。
感染者たちはもう近くにいた。周囲を素早く見回すと、何体もが直接こちらへ向かってきていた。考える時間はなかった。少女を胸に強く抱きしめ、その体重でバランスを崩さないよう、速い足取りで道路の中央を走った。
感染者たちが十分近づいたところで、右へそれ、道路沿いの未舗装路へ入った。二体ほどは何とかかわしたが、そのとき、数メートル先に待っている問題が見えた。
俺の車のそばに感染者が一体いた。
ほかに選択肢はなかった。
車まで行き、後部ドアを開け、他の感染者たちに追いつかれる前に少女を中へ入れなければならない。
歯を食いしばり、速度を上げた。腕はどんどん重くなり、呼吸が胸の中を焼くようだった。感染者は車のそばに立ち、身体をわずかに揺らしながら、近づいてくる俺を見ていた。
勢いをつけた。
十分近づいたところで身体をひねり、右肩をその胸へ直接ぶつけた。
乾いた衝撃だった。
感染者は後ろへ吹き飛び、地面に倒れた。俺も衝撃でほとんどバランスを崩したが、どうにか立ったまま持ち直した。速度を落としたのは後部ドアへたどり着くために必要な分だけだった。
開けた。
少女を慎重に後部座席へ入れ、頭をドア枠にぶつけないようにして、できる限りの形で横たえた。すぐにドアを閉めた。
そのとき、背後から音がした。
感染者がすでに立ち上がっていた。
反応する前に飛びかかってきた。シャツをつかまれ、後ろへ引かれた。顔が数センチまで迫り、歯が首へ危険なほど近づいた。
引き離そうとしたが、できなかった。
前腕をその首へ押しつけ、全力で押した。奴の頭を自分から離したまま、感染者はうなり、近づこうとした。
どうにもできなかった。
そのとき、右側を見た。
ほかの感染者たちがこちらへ走ってきていた。
どんどん近づいていた。
あと数秒ここにいたら、追いつかれる。
そして、俺を生かしてはおかない。
自由な手で必死にポケットを探り、携帯電話を取り出した。強く握り、感染者の頭の横を殴った。
衝撃で、奴は一瞬ひるんだ。
それで十分だった。
全力で押し、道路の端へ追いやった。感染者は地面へ倒れ、土の上を数センチ転がった。
立ち上がるか確認する時間はなかった。
車へ走った。
運転席のドアを開け、飛び込んだ。ポケットに手を入れて鍵を探したが、アドレナリンで手が震えすぎていて、指から鍵が滑り落ち、床へ落ちた。
「クソ……」
身体をかがめて探した。鍵をつかみ、差し込み、回した。
エンジンが反応するまで一秒かかった。
その頃には、何体もの感染者が車まで到達していた。手でドアや窓を叩き、俺に届こうとしていた。
エンジンがかかった。
バックギアに入れてアクセルを踏んだ。車が勢いよく後退した。ハンドルを切り、方向を修正し、ほんの一瞬ブレーキを踏んでから、前進ギアへ入れた。
再びアクセルを踏んだ。
通り過ぎる際、感染者の一体が車体を叩き、ボディに新たな血の染みを残した。
振り返らなかった。
まだ進路を塞ごうとしてくる感染者たちを避けながら進み、ようやくあの場所を離れた。
十分遠くまで来ると、速度を落とした。
息を吐いた。
道路は再び空いていた。
バックミラーを見た。
もう奴らは見えなかった。
ただ、離れたかった。
十分遠くまで来たところで、車を止めた。女性はまだ意識を失っていた。
彼女を見た。
呼吸していた。
でも、かなりひどい状態だった。
いくつもの切り傷があり、皮膚にはまだ小さなガラス片が食い込んでいた。傷の周囲には乾いた血があり、まだゆっくり出血している傷もあった。
車に積んでいた救急箱を開けた。たいしたものではなかった。ガーゼ、消毒液、包帯、その他の基本的なものだけ。それでも、何もないよりはましだった。傷を洗い、さらに悪化させないよう、取り除ける小さなガラス片を慎重に抜いた。
そのとき、気になることに気づいた。
傷の状態がよくなかった。腫れていた。ひどく。いくつかの傷の周囲の皮膚は赤くなり始め、女性の身体は熱かった。
額に手を当てた。
ものすごい高熱だった。
普通ではなかった。
起こそうとした。
「聞こえるか?」
返事はなかった。
もう一度試した。
何もない。
完全に意識を失っていた。
最初に思ったのは、携帯電話だった。ポケットから取り出した。
画面は完全に壊れていた。
電源を入れようとした。
何もない。
もう一度試すと、画面がほんの少し明滅したあと、完全に消えた。
「クソ……」
GPSを失った。
そして、おそらくデレクと連絡を取る唯一の手段も。
助手席側の収納を開けた。中から地図を取り出した。ダッシュボードに広げ、方向を確認しようとした。
デレクのメッセージを思い出した。
ノースブリッジ。
北東。
指で道路を追い、街を見つけた。
そのとき、計画を変えられるものを見つけた。
ノースブリッジに着けば、スーパーマーケットがある。
大きなものが。
運がよければ、薬局もある。
女性を見た。
熱は下がっていなかった。薬が必要だった。抗生物質。何か。
車を安全な場所に置き、可能なら少女を連れていくか、車内に隠して、一人でスーパーマーケットへ入ることにした。薬を手に入れて戻り、彼女に与え、それからノースブリッジへ向かってデレクを探す。
それが俺の計画だった。
少なくとも、そのときはそう思っていた。
街へ着くと、俺は車を大通りから離れた場所へ停めた。スーパーにいる間に誰かに盗まれるのを避けたかったし、何より、あの混乱の中で少女を一人車内に残したくなかった。まだ彼女が誰なのかも知らなかった。生き残れるかさえ分からなかった。それでも、あの車から助け出した以上、彼女を置き去りにするつもりはなかった。車を閉め、ドアが施錠されていることを確認してから歩き始めた。
街は完全に目を覚ましていた。
すでに夜だったにもかかわらず、通りはまだ明るかった。街灯は機能し、店のショーウインドウには明かりが灯り、いくつかの建物ではすべての窓にまだ光があった。電気はまだ残っていた。まるで世界が、自分が消え始めていることを認めようとしていないかのようだった。でも、その光の下にはまったく別のものがあった。走る人々、交差点を猛スピードで横切る車、サイレン、銃声、叫び声。いくつもの通りでは、何分も鳴り続けている車のアラームが聞こえた。人々は店から箱や袋、普通なら盗もうなどとは考えもしなかったような物まで運び出していた。
俺はその混乱から離れるように歩いた。店の前で大声で言い争う人々の横を通り、少し先では別の店のショーウインドウを破壊している人々を見た。服屋、小さなスーパーマーケット、金物店、さらにはランジェリーショップにまで人が入っていた。もう食料や薬だけを探しているようには見えなかった。持てるものなら何でも持ち去っていた。
車が猛スピードで俺の横を通り過ぎた。その通りの制限速度は時速50キロだったが、あの運転手はその倍近く出していたはずだ。その直後、二台目の車が通り、道路を横断していた人をかすめた。轢かれないよう、俺は素早く身を引いた。ヘリコプターが建物の上を飛び、その数秒後、遠くから何発もの銃声が聞こえた。
歩き続けた。いくつかの通りでは、感染者が叫びながら逃げる人々を追いかけていた。警官たちは車で猛スピードで通り過ぎ、サイレンを鳴らしている者もいれば、窓から発砲している者もいた。誰も何も制御できていないようだった。時間が経つたび、街は少しずつ沈んでいくように見えた。
ようやくスーパーマーケットに着いたとき、そこも何も変わらないことが分かった。駐車場は車で埋め尽くされていた。トランクを開けたままの車があり、家族が荷物をぎっしり詰め込んでいた。テレビ、食料の箱、水のボトル、洗剤、見つけたものなら何でも運び出していた。ショッピングカートは完全にいっぱいで、中には二台を同時に押している人までいた。ある男はテレビを脇に抱え、妻は大量の袋を持とうとしていた。
中へ入った。
店内にはさらに多くの人がいた。通路を走る人、言い争う人、秩序を保とうとする店員もいたが、誰も彼らの言葉を聞いていなかった。棚のいくつかはすでに半分ほど空になり、商品が床に直接落ちている場所もあった。
奥へ行く必要があった。このスーパーは巨大だった。人混みの間を急いで進み、カートや逆方向へ走る人々を避けた。何度も、人にぶつからないよう身を引かなければならなかった。店の奥、通路の上に、ようやく看板が見えた。
薬局。
そこへ向かった。到着すると、予想外のものがあった。薬局は無傷だった。金属製の防犯シャッターが入口を完全に覆っていた。内側から南京錠で固定され、閉じられていた。おそらく、まだ誰も中へ入れていなかった。
開ける方法を探しながら近づいた。そのとき、背を向けた男が見えた。スーパーのロゴが入った作業員用ベストを着ていた。
近づいた。
「すみません、薬局を開けてもらうことはできますか?」
男が振り返り、俺に飛びかかってきた。
反応する時間はなかった。俺は男の下敷きになる形で床へ倒れ、顔へ口を近づけようとしているのを感じた。腕を使って頭を遠ざけながら、どうにか押さえ込もうとした。
感染者だった。
左を見る。何もない。右を見る。桃の缶詰。
手をできる限り伸ばした。指先でかろうじて触れられる程度だった。軽く押して自分のほうへ転がし、手の届くところまで来た瞬間につかみ、頭の側面へ叩きつけた。
感染者は一瞬ひるんだ。それで十分だった。身体から押しのけて立ち上がった。奴が起き上がろうとするのが見えたが、確認するのを待たなかった。
走った。
工具売り場へ向かい、通路を走る人々を避けた。何人かに肩をぶつけ、罵声や叫び声、スーパーの別の場所から聞こえる銃声を耳にした。通路の一つでは、二人が感染者ともみ合っていた。別の集団が反対方向へ走っていた。
止まるわけにはいかなかった。
工具売り場に着き、使えそうなものを探した。金属製のバールを見つけてつかんだ。それから黒い布製の鞘に入ったマチェーテを見つけた。それも取った。ベルトを少し緩め、鞘を取り付け、しっかり固定するために再び締めた。最後に、キャンプ用品の近くで見つけた黒いバックパックを背負った。
これで身を守るものと、必要な物を入れるものができた。
薬局へ戻った。着くと、缶で殴った感染者はもうそこにいなかった。
そのとき、叫び声が聞こえた。
振り返った。数メートル先で、一組の男女が同じ感染者ともみ合っていた。女性が引き離そうとし、男が殴ろうとしていた。突然、感染者が女性に届き、腕に歯を突き立てた。
女性が叫んだ。
「いや!」
男はすぐに反応した。ナイフを取り出し、感染者の頭へ突き刺した。身体が床に倒れた。
二人は待たなかった。走って去っていった。
俺は一瞬だけ見つめた。それから薬局へ戻った。
金属製のシャッターと床の間にバールを差し込み、力を込め始めた。
動かなかった。
もう一度試した。金属がきしんだ。歯を食いしばり、全力で押した。
カチッ!
固定具の一つが外れた。もう一度引くと、シャッターが数センチ持ち上がった。手を差し込み、通れるところまで持ち上げた。薬局のカウンターを飛び越え、探し始めた。
必要なのは抗生物質だった。
それだけが重要だった。
いくつもの引き出しを開け、棚を調べた。包帯を見つけ、バックパックに入れた。それから傷を消毒するため、小さなアルコールの瓶を取った。探し続け、ようやく必要なものを見つけた。抗生物質が二箱。
急いでしまった。
だが、そのとき、さらに人が入り始めた。開いたシャッターを見たのだ。数秒もしないうちに、何人もの人間がカウンターを飛び越え始めた。薬を探す者もいれば、目についたものを何でもつかむ者もいた。男の一人は薬の箱を袋に詰め始め、別の人間は棚一つを丸ごと空にしていた。
俺が二箱目の抗生物質をしまおうとしたとき、一人の男が目の前に現れた。身なりは乱れ、服は汚れ、顔はやつれていた。手が妙な震え方をしていた。
「それをよこせ」
「何?」
男は薬を指差した。
「それをよこせ」
「俺に必要なんだ」
「よこせ! 俺のものだ!」
バックパックへしまおうとしたが、男が俺の腕をつかんだ。
「離せ」
「よこせ! 俺には必要なんだ!」
男を注意深く見た。怯えているようには見えなかった。震え方が違っていた。目は大きく見開かれ、動きは不規則だった。抗生物質以上に、何かを手に入れることに必死になっているようだった。
「離せ」
俺は押した。
男は俺の顔を殴ってきた。衝撃でよろめき、倒れないよう壁に手をついた。頬に鋭い痛みが走った。もう一度見ると、男は薬を俺の手から奪おうとしていた。
もみ合った。
「離せ!」
男が強く引いたため、薬の容器の蓋が開いた。錠剤が床へ落ち、男はすぐにしゃがみ込んだ。でも、そいつだけではなかった。別の二人も錠剤へ飛びつき、床から拾い始めた。何人かは、それが何の薬なのか確認すらせず、そのまま口へ入れた。
俺は一瞬、動けなかった。
狂っていた。
再びカウンターを飛び越え、すでにバックパックへ入れていたものをつかんだ。包帯、アルコール、そして確保できた抗生物質の一箱。
そのとき、食料も必要だと思い出した。デレクを見つけるまでどれだけかかるのか、どれだけの時間を隠れて過ごすことになるのか分からなかった。
人々が店を略奪し続ける中、通路を移動した。シリアル一箱、ジャム一瓶、肉の缶詰、ツナ、スパゲッティをいくつかバックパックへ入れた。カトラリーのセットを見つけ、ナイフ、フォーク、スプーンが入った小さなセットを二つ取った。小さな水のボトルも何本か拾い、それから5リットルの水の容器を手に持った。
さらに役に立ちそうなものを探した。懐中電灯と電池を二本見つけた。それからキャンプ用ナイフ。最後にキャンプ用品のエリアを通り、小さなガスコンロと燃料ボトルを取った。
バックパックが重くなりすぎていた。
もうこれ以上は持てない。
そのとき、声が聞こえた。
「それをよこせ!」
振り返った。
数メートル先に、家族を連れた男がいた。その前には、ピストルを向けた警官がいた。男の後ろには妻と二人の子供、小さな女の子と男の子がいた。
「よこせと言っている!」警官が叫んでいた。
何を要求しているのかは聞き取れなかった。
男は両手を上げた。
「もう何も持っていません」
警官は再び銃を男へ近づけた。
最初は、そのまま歩き続けようと思った。俺には関係ない。少女のところへ戻らなければならない。デレクを見つけなければならない。生き残らなければならない。
でも、足を止めた。
子供たちを見た。それから警官を見た。そして、これ以上歩き続けることはできないと理解した。
金属製のバールを強く握った。勢いをつけて走った。肩から警官へぶつかり、バランスを崩させた。父親がすぐに反応し、二人で警官の武器を奪うことに成功した。男が警官の頭を殴り、警官は意識を失って床へ倒れた。
俺は銃をつかんだ。
父親は警戒するように俺を見た。俺も彼を見た。数秒間、誰も何も言わなかった。
「ありがとう」やがて男が言った。
「気にしないで」
男は子供たちを見た。
「一緒に来るか?」
俺は首を横に振った。
「いや。会わなきゃならない人がいる」
俺たちはもう少しの間、互いを見つめた。それから俺は銃を彼へ差し出した。
「あなたのほうが必要だ」
男はためらった。やがて受け取り、うなずいた。
「ありがとう」
彼は振り返り、家族を集めた。三人は男と一緒にスーパーの出口へ向かった。
俺は数秒間その場に残った。それから立ち去った。
駐車場へ出ると、状況はさらに悪化していた。車の間を走る人々、出ようとする車、群衆の中を動く感染者。まだ感染者より人間のほうが多かった。それでも、状況が変わるまでどれだけかかるのか、誰にも分からなかった。
走って戻った。再び街を抜けるのに10分ほどかかった。街の騒音が背後から続いていた。サイレン、銃声、クラクション、叫び声、エンジン音。
ようやく車を置いた場所へ戻ると、車はそのままそこにあった。ドアを開けた。少女はまだ意識を失っていた。苦しそうに呼吸していた。
バックパックを後部座席の床へ置き、水の容器を彼女の横へ置いた。それから水のボトルを一本取り、抗生物質を取り出した。
「ほら……これを飲まなきゃ」
起こそうとしたが、ほとんど反応しなかった。慎重に口を開け、少量の水と一緒に薬を与え、むせないようにした。それから包帯とアルコールを取り出した。
傷は相変わらずひどかった。
以前の包帯を外し、アルコールで傷を慎重に洗い、新しい包帯を巻いた。脈を取り、できる限り体温も確認した。
まだ熱があった。
でも、少なくとも今は抗生物質がある。
あとは、効き始めることを願うしかなかった。
車の時計を見た。
午前2時47分。
夜明けまでまだ何時間もある。
地図を取り出し、ハンドルの上に広げた。デレクの最後のメッセージを思い出した。
「ノースブリッジで移動手段を探している。車を盗まれた。これを読んでいるなら、朝にはアッシュフォード方面へ向かう街の外れにいる」
地図でノーウィッチを探し、それから郊外へ続く道路を指で追った。アッシュフォードの方向と一致する道路は一本だけだった。
そこを通るべきだった。
だが、デレクはまだ到着していなかった。移動手段を探しているのなら、そこへ着くまでにはしばらく時間がかかるだろう。
俺は郊外まで進み、車を隠せる場所を探すことにした。
しばらく走り、道路から離れた森を見つけた。車を木々の間へ入れ、幹線道路から見えない程度まで離した。ライトとエンジンを切った。
静寂はほとんどすぐに訪れた。
ほとんど。
遠くからはまだ街のクラクション、孤立した銃声、サイレン、ときどき夜に消えていく叫び声が聞こえた。
少女のバックパックを調べ、電話がないか探した。見つけた。取り出すと、画面はついていたがロックされていた。
パスワードが何なのか、まったく分からなかった。
それを横へ置き、彼女の持ち物をさらに調べた。身分証を見つけた。
サム・テイラー。29歳。
身分証をほかの持ち物と一緒にしまい、すべてを再びバックパックへ戻した。
そのとき、あることに気づいた。
新しく手に入れたバックパックを調べていると、完全に新品の日記帳が入っていた。ページは白紙だった。どうやってそれがバックパックに入ったのかは分からない。でも、混乱していたときには気づかなかった。
取り出し、両手で持った。
なぜそれをしまっていたのか、自分でも分からなかった。
運転席に座り、顔を手で拭った。疲れ切っていた。身体は痛み、頭は重く、アドレナリンのせいで手はまだ少し震えていた。
フロントガラスの向こうを見た。それからサムを見た。彼女は後部座席で苦しそうに呼吸していた。
背もたれに頭を預けた。
「なんてこった……」俺は呟いた。「一体、何が起きてるんだ?」
答えはなかった。
遠くの街の音だけだった。
日記を開いた。書くものを探した。ポケットを確認した。
何もない。
ボールペンも鉛筆も持っていなかった。
もう一度サムのバックパックを調べた。今度は一本見つけた。
黒い、普通のボールペンだった。
数秒間、指の間でそれを持った。それから最初のページを開いた。
何を書くのか、正確には分からなかった。ただ、今日起きたことを記録として残す必要があることだけは分かっていた。
明日になれば、状況はよくなるかもしれない。
ならないかもしれない。
いつか誰かが、この日記を見つけるかもしれない。
あるいは、永遠に誰にも見つからないかもしれない。
腕時計を見た。一晩中起きていることはできない。デレクが夜明け前に来るなら、準備しておく必要がある。デジタル時計のアラームを午前5時に設定した。夜明けが始まる一時間前だった。
それから、車内の明かりを完全に消した。
闇が俺たちを包んだ。
後ろではサムが苦しそうに呼吸を続けていた。俺は月明かりが木々の枝の間から差し込む中、ボールペンを最初のページの上に置き、書き始めた。
俺は、この新しい世界が怖い。
でも、今日起きたことを記録として残さなければならない。
なぜなら、もしこのすべてがさらに悪化し続けるのなら、いつか誰も、どう始まったのかを覚えていないかもしれない。
そして俺は、それを忘れたくない。
思い出すことが怖くても。
数秒間、目を閉じた。それから、再び書き続けた。
眠気が恐怖に勝つまで。
この冷たい夜の中、遠くから聞こえてくる街の音がまだこの森まで届いていて、数メートル先では彼女が眠っている。俺は指定された時間を待ちながら、これを書いている。日の光が差したとき、何が起こるのか分からない。デレクを見つけられるのかも分からない。サムが生き残れるのかも分からない。それどころか、俺自身が次の夜明けを見ることができるのかさえ分からない。




