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観測範囲の日常  作者: はまゆう


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9/9

最終話 18度の朝

目が覚めたとき、湊は自分の布団の中にいた。

最初に見えたのは、見慣れた天井だった。

白い。少しだけ黄ばんでいる。子どものころに貼った蓄光シールの跡が、うっすら残っている。何年も見てきた、自分の部屋の天井。

その“見慣れた感じ”が、妙に胸にしみた。

湊はしばらく、布団の中で動かなかった。

目だけを動かして、部屋の輪郭を確かめる。カーテン。机。壁掛け時計。本棚。脱ぎっぱなしの靴下。スクールバッグ。全部ある。全部、ちゃんとある。

窓の外は曇り空だった。

秋特有の、どんよりした灰色。

空全体に薄い雲が広がっていて、朝なのに光が少し鈍い。晴れでも雨でもない、中途半端な空。こういう朝は、布団から出るのが少しだけ億劫になる。

時計を見る。

午前六時半。

目覚ましが鳴るより少し早い。

中途半端な時間だ。二度寝するには短いし、起きるにはまだ眠い。

湊はまばたきをした。

何か、変な夢を見ていた気がした。

いや、夢というより——

ここ数日の記憶そのものが、薄い霧の向こうにあるみたいだった。

学校に行った。

真冬と話した。

図書館にいた気がする。

誰かの声を聞いた気もする。

でも、それが夢の断片なのか、現実の記憶なのか、境目が曖昧だ。

思い出そうとすると、頭の奥で何かが引っかかる。

あと少しで届きそうなのに、指先からするりと抜けていく感じ。

「……変な夢でも見たかな」

独り言が、朝の部屋に小さく落ちた。

布団をはねのけて起き上がる。

足の裏が床の冷たさに触れる。ひやりとする。秋だ、と思う。寝起きの身体には、その冷たさが少しきつい。

パジャマ代わりのシャツを脱ぎながら、何気なく自分の手のひらを見た。

掌。

線がある。

少し乾燥している。

昨日のシャーペンの跡もない。

ただの、自分の手だ。

熱はない。

あの、内側からじわじわ湧いてくるような熱感は、どこにもなかった。

焼けるような痛みも、脈打つような温度の上昇もない。

普通の朝だった。

その“普通”に、湊は少しだけ安心した。

同時に、少しだけ物足りなさも感じた。何が足りないのか、自分でもわからない。ただ、何か大事なものを置いてきたような感覚だけが、胸の奥に薄く残っている。

スマホを手に取る。

画面をつける。

通知欄には、見慣れたアイコンが並んでいた。ニュースアプリの更新。ゲームのログインボーナス。動画アプリのおすすめ。クラスのグループチャットに誰かが送ったスタンプ。

何の変哲もない。

ホーム画面を何枚かスワイプする。

フォルダも開く。

でも、あの黒いアイコンはどこにもない。

観測範囲

その名前も、画面のどこにも存在しなかった。

湊は小さく息を吐いた。

やっぱり夢だったのかもしれない。

そう思うと、少しだけ肩の力が抜ける。

でも、完全には納得できない。夢にしては、妙に手触りが残っている。怖かった感じ。誰かと一緒にいた感じ。何かを選ばなかった感じ。そういう感情の輪郭だけが、まだ身体のどこかに残っていた。

朝食を食べて、制服に着替えて、家を出る。

玄関を開けた瞬間、冷たい空気が頬に触れた。

寒い。

思わず肩がすくむ。

吐いた息が白い。ほんの少しだけど、たしかに白い。空気は乾いていて、鼻の奥がつんとする。十月の朝の匂いだ。夏の湿気はもうなくて、代わりに金属みたいな冷たさがある。

通学路を歩き出す。

ジャケットのポケットに手を入れる。

指先が冷たい。掌も冷たい。身体はちゃんと秋を感じている。

気温は昨日と同じくらいだろうか、とぼんやり思う。

たしか天気予報では、今日の最高気温も十八度と言っていた気がする。

十八度。

その数字に、なぜか胸の奥が小さく鳴った。

「湊!」

後ろから声が飛んでくる。

振り向くと、真冬が走ってきた。

マフラーを二重に巻いて、手袋までしている。完全防備だ。頬が少し赤い。吐く息が白い。

その姿を見た瞬間、湊は妙な安心を覚えた。

ああ、真冬だ、と思う。何があったのかは曖昧でも、この朝に彼女がいることだけは、ひどく自然だった。

「おはよう」

「おはよう。寒っ」

真冬は肩をすくめながら隣に並ぶ。

「寒くない?」

「寒いに決まってるだろ」

湊は即答した。

「十月だぞ」

言ってから、自分でも少し笑いそうになる。

あまりにも普通の返しだったからだ。普通の朝。普通の会話。普通の通学路。

でも、真冬はそこで足を少しゆるめた。

「……昨日も同じ気温だったのに」

「え?」

「昨日、湊、暑い暑い言ってなかった?」

その一言で、湊は立ち止まった。

昨日。

その言葉が、霧の向こうにあった何かを一気に近づける。

昨日の朝。

十八度。

汗。

掌の熱。

教室。

声の重なり。

そこまでが、一瞬でつながる。

でも、次の瞬間にはまた曖昧になる。

夢の断片みたいに、輪郭がぼやける。

「……なあ」

湊は真冬を見る。

「ここ数日のこと、ちゃんと覚えてる?」

真冬も、少しだけ目を細めた。

「覚えてる、っていうか……」

言いながら、彼女も自分の記憶を探っている顔になる。

「私たち、図書館で何か見たよね。変な……亀裂みたいなの」

その言葉に、湊の胸が強く鳴った。

図書館。

亀裂。

田中彩。

アプリ。

観測層。

全部が、霧の中から一瞬だけ浮かび上がる。

「やっぱり」

湊は小さくつぶやく。

「夢じゃないんだ」

「でも、はっきりしない」

真冬も困ったように笑う。

「覚えてるのに、ちゃんと説明できない。変な感じ」

その“変な感じ”が、何より確かな証拠だった。

二人の記憶は、同じようにぼやけている。

全部を失ったわけじゃない。

でも、全部をそのまま持っているわけでもない。

大事な輪郭だけが残って、細部は朝靄みたいに薄れている。

湊は無意識に、ポケットの中で手を握った。

掌は冷たい。

熱はない。

それでも、その冷たさの奥に、かつてそこに熱があった痕跡だけが、うっすら残っている気がした。

「ねえ」

真冬が、ふいに道路の向こうを指さした。

駅前の大型ビジョン。

朝のニュースが流れている。

通勤客が足を止めるほどではないけれど、何人かがちらりと見上げている。アナウンサーが真剣な顔で何かを話していた。

画面の上に、速報のテロップが出ている。

『各地で観測される異常現象——専門家「気象条件の変化では説明できない」』

湊は目を見開いた。

映像が切り替わる。

空。

その空に、幾何学模様のようなものが浮かんでいる。雲ではない。飛行機雲でもない。薄い線が何本も重なって、見たことのない図形を描いている。別の映像では、海面の上に光の帯が何層にもずれて見える。さらに別の場所では、街の上空で色が一瞬だけ抜け落ちたような映像が流れる。

どれも、昨日までなら「加工映像だろ」と笑ってしまいそうなものだった。

でも今は違う。

湊にはわかった。

世界は、完全には元に戻っていない。

「……夢じゃなかったんだ」

自分の声が、思ったより小さく出た。

真冬もビジョンを見上げたまま、ゆっくり息を吐く。

『観測範囲』のアプリは消えた。

あの声も、あの黒いアイコンも、スマホのどこにも残っていない。

でも、世界のほうは変わっていた。

完全な“元通り”ではない。

何かが、たしかに変わった。

湊は空を見上げる。

灰色の雲の切れ間から、かすかに青がのぞいている。

その青は、前より少しだけ深く見えた。気のせいかもしれない。でも、気のせいで片づけるには、世界の輪郭が少しだけ違っている。

再構築機能は、たぶん止まったのだ。

理解できないものを削って、矛盾を埋めて、世界を“わかりやすい形”に整える力。

それはもう、働いていない。

でも、観測そのものは残っている。

誰かが見ている、という意味ではない。

もっと静かな意味で。

世界はまだ観測されている。記録されている。ただ、もう無理に削られないだけだ。

だから、歪みは残る。

説明しきれないもの。

少しだけずれた時間。

空に浮かぶ幾何学模様。

色の抜ける一瞬。

そういう“理解の外側”が、前より少しだけ見えるようになった。

完璧に調整されたレンズじゃない。

古いカメラみたいに、少しだけ誤差を抱えたまま、それでも世界を映している。

「これから、どうなるんだろう」

真冬が隣に並んだまま言う。

その声には、不安もある。

でも、それだけじゃない。

少しだけ、前を向く響きがある。

湊はすぐには答えなかった。

わからない。

本当に、わからない。

また何かが起きるかもしれない。

もっと大きな歪みが現れるかもしれない。

自分たちが忘れた細部のどこかに、まだ危うい継ぎ目が残っているのかもしれない。

でも。

「わからないけど」

湊は空を見上げたまま言った。

「誰かに世界を削られるよりは、いい気がする」

真冬が黙って聞いている。

「歪んでてもさ。ちゃんと全部あるほうが」

言いながら、自分でも少し驚いた。

それは、たぶんこの数日で自分が掴んだ答えだった。

きれいに整えられた日常より、少し不格好でも、自分たちで抱えていく現実のほうがいい。理解できないものがあってもいい。説明のつかない朝があってもいい。

そのほうが、たぶん本物に近い。

真冬は少しだけ笑った。

「うん。私もそう思う」

二人はまた歩き出す。

いつもの通学路。

いつもの電柱。

いつものコンビニ。

いつもの交差点。

でも、どこか少しだけ解像度が違う。

懐かしいのに、新しい。

見慣れているのに、前より少しだけ広い。

そんな世界だった。

ポケットの中で、スマホがかすかに震えた気がした。

湊は取り出さない。

真冬も何も言わない。

駅前の大型ビジョンでは、まだニュースが続いている。

専門家が困った顔で説明し、アナウンサーが慎重な言葉を選んでいる。誰もまだ、うまく名前をつけられない。世界のほうが、説明より少しだけ先に進んでいる。

そのとき。

湊のスマホの時計が、一瞬だけ止まった。

電波時計なのに。

06:58の表示のまま、ほんの一拍だけ静止する。

そして、何事もなかったように06:59へ進む。

湊は気づかなかった。

いや。

気づいて、気づかないふりをしたのかもしれない。

真冬も、たぶん同じだった。

二人はそのまま歩く。

学校へ向かって。

十八度の朝の中を。

白い息を吐きながら。

観測は続く。

もう、誰かに従うためではない。

世界を削るためでもない。

ただ、そこにあるものを、そこにあるまま見つめるために。

理解しきれないものを含んだまま、

それでも朝は来る。

そしてその朝の冷たさを、

湊は今度こそ、ちゃんと寒いと感じていた。


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