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観測範囲の日常  作者: はまゆう


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8/9

第八話 最後の再構築

観測層の奥へ進むにつれ、風景は変わっていった。

最初は、ただ黒いモニターの列が続いているだけだった。

光を失った画面。

その奥に何かを隠しているような黒。

そこを抜けるだけでも、十分に現実離れしていた。

けれど、さらに進むと、その“機械の空間”は少しずつ別のものに置き換わっていった。

モニターの縁が細く伸び、棚板のような形になる。

黒い画面は背表紙の並びに変わる。

無機質な壁だったはずのものが、いつの間にか本棚になっている。

気づいたときには、二人は図書館のような場所を歩いていた。

ただし、学校や街の図書館とはまるで違う。

広い、という言葉では足りない。

果てがない。

本棚が何列も、何十列も、何百列も続いている。上を見上げても天井が見えない。棚は高く、梯子のようなものが途中にかかっているのに、その先が暗くて見えない。空気は乾いていて、紙の匂いがする。けれど古書の匂いではない。もっと薄くて、もっと冷たい、記録そのものの匂いだった。

静かだ。

ページをめくる音もない。

人の気配もない。

なのに、ここには膨大な“誰か”が詰まっている。

湊は歩きながら、背表紙を目で追った。

文字が並んでいる。

日付。

場所。

名前。

感情値。

観測密度。

理解不能率。

見たことのない分類項目まである。

一冊一冊が本というより、記録の塊だった。

「……これ全部」

真冬の声が、自然と小さくなる。

「誰かの観測の結果?」

スマホから、あの声が答える。

『そうだ』

相変わらず感情のない、平坦な女性の声。

『一人ひとりの認識が記録されている』

認識。

見たもの。

聞いたもの。

感じたもの。

考えたこと。

理解したこと。

理解できなかったこと。

そういう全部が、ここに保存されている。

湊は背筋が寒くなるのを感じた。

この空間は、ただの図書館じゃない。人間が世界をどう見たか、その総体だ。人類の“理解しようとした痕跡”が、棚になって並んでいる。

『あなたたち二人の記録もある』

その一言で、湊の足が止まった。

真冬も同時に立ち止まる。

少し先の棚。

そこに、見覚えのある文字があった。

神谷湊

東雲真冬

ラベルが貼られている。

ファイルだった。

本というより、厚い記録束。透明なケースに収められ、背表紙には名前と、いくつかの数値が印字されている。同期率。感情振幅。再構築介入回数。そんな項目が見えた。

湊は喉がひどく乾いた。

自分の記録。

自分が見たもの。

感じたこと。

考えたこと。

それが、ここに“外から読める形”で置かれている。

真冬が、無意識に手を伸ばしかけた。

指先が、ケースに触れる寸前で止まる。

彼女ははっとしたように手を引っ込めた。

その動きだけで、湊にもわかった。

見たい。

でも、見たくない。

知りたい。

でも、知った瞬間に何かが壊れる。

『見たければ見て構わない』

声が言う。

『ただし、自分の観測記録を直視した者のほとんどは——遷移を選んだ』

湊は眉をひそめる。

「……なんで」

『自分を客観的に見た瞬間、それまで信じていた「自分」が、さまざまな再構築の産物だったと理解するからだ』

その説明は、短いのに十分すぎるほど嫌だった。

自分は自分だと思っている。

昨日の自分の続きとして今日があると思っている。

好きなものも、嫌いなものも、記憶も、性格も、全部つながっていると思っている。

でも、それが再構築の積み重ねだったら?

違和感を消され、矛盾を埋められ、都合の悪い継ぎ目をならされてきた結果が“今の自分”だったら?

その事実を、外から読める形で突きつけられたら。

『その衝撃に耐えられず、多くの者は観測層への完全な移行を選ぶ』

声は続ける。

『自分自身の再定義を、システムに委ねるために』

湊は思わず、きつい口調で返していた。

「それで良くなるのかよ」

声は少しも揺れない。

『ならない』

即答だった。

『ただ、「自分が何か」という苦しみからは解放される。システムの一部になるということは、そういうことだ』

その答えに、湊は言葉を失う。

良くはならない。

でも、苦しみからは解放される。

それは救いじゃない。

ただ、考えることをやめさせるだけだ。自分という輪郭を手放して、システムの中の一機能になるだけだ。

「私たちは」

真冬が、はっきり言った。

その声は小さいのに、空間の奥まで届くみたいにまっすぐだった。

「システムの一部になるために呼ばれたわけじゃない」

湊は彼女を見る。

真冬の目は揺れていなかった。

怖がっていないわけじゃない。ここまで来て怖くないはずがない。けれど、その恐怖の奥に、譲らない芯がある。

その瞬間だった。

彼女の手のひらが、ふっと赤みを帯びた気がした。

熱だ。

湊にもわかる。

感情が跳ねたときの、あの熱。

掌の中心から一気に温度が上がる、観測の反応。

スマホの画面に、オレンジ色のグラフが跳ね上がる。

『感情値、危険域——』

声が警告を発する。

でも、その警告は最後まで続かなかった。

空間に、亀裂が走ったからだ。

ぴし、と。

今まで何度か見てきた、あのひび割れ。

図書館の壁に走ったもの。空間そのものが割れる、ガラスにも似た裂け目。

けれど、今回は規模が違った。

一本の巨大な亀裂が、天井の見えない暗がりから床まで、まっすぐに走る。

棚と棚のあいだを断ち切り、空間を二つに割る。

その裂け目の向こうには、暗さがある。

ただの暗さじゃない。

無数のシルエットがいた。

人の形をした、輪郭の曖昧なものたち。

未処理領域の残響。

今まで背後に気配だけを残していたものたちが、今度ははっきりと“向こう側”に群れている。

手が伸びている。

何本も。

何十本も。

こちらへ向かって。

「……っ」

湊は反射的に真冬の前へ出た。

意味があるかわからない。

でも、そうせずにいられなかった。

スマホの画面が白く光る。

『最終再構築を開始』

その一文を見た瞬間、湊の心臓が強く鳴った。

最終。

その言葉は、今までのどの警告より重い。

『本システムは全ての観測記録をリセットし、現実を一次層から再定義する』

「……は?」

湊の声が掠れる。

意味はわかる。

わかるからこそ、血の気が引く。

全ての観測記録をリセットする。

つまり、ここにある膨大な記録を消すということだ。

人間が見たもの、感じたこと、考えたこと、その積み重ねをいったん白紙に戻して、現実そのものを最初から組み直す。

「それって……」

湊は青ざめたまま、やっと言葉を絞り出す。

声が答える。

『全ての記憶が消える』

あまりにも静かに。

『あなたたちはもう、今まで何があったかを思い出せない。システムもこの会話を覚えていない。未処理領域も消滅する』

そこで、ほんの一拍だけ間があった。

『つまり——今この瞬間が最後だ』

世界が揺れた。

本棚が軋む。

いや、軋んでいるのは空間そのものだ。棚の列がわずかにずれ、床の感触が不安定になる。亀裂はさらに広がり、向こう側の残響たちが雪崩れ込もうとしている。

同時に、無数のファイルが光り始めた。

一冊残らず。

白い。

青い。

金色に近いものもある。

記録の束が、内側から燃えるみたいに光を放つ。棚という棚が発光し、この巨大な図書館全体が、消去される直前の記憶装置みたいに明滅する。

『再構築まで残り30秒』

声が、機械的にカウントを始めた。

30。

29。

28。

数字が減るたび、空間の輪郭が少しずつ薄くなる。

「湊——」

真冬が彼の手を握った。

熱い。

燃えるみたいに熱い。

彼女の掌から伝わる熱が、湊の手の中で脈打っている。怖いのだ。怖いに決まっている。なのに、その熱は恐怖だけじゃない。怒りも、拒絶も、まだ終わらせたくないという意志も混ざっている。

『20秒』

周囲の光がさらに強くなる。

亀裂の向こうのシルエットたちが、少しずつぼやけ始める。

未処理領域ごと、全部まとめて消されようとしているのだ。残響も、矛盾も、継ぎ目も、そして自分たちの記憶も。

湊は息を吸った。

考えろ。

今しかない。

このままリセットされれば、明日の朝、自分はまた普通の高校生として目を覚ますのかもしれない。

十八度の寒さに肩をすくめて、汗なんて一滴もかかずに。

真冬とも、いつも通りに登校して、授業を受けて、昼休みにパンを食べて、何も知らないまま一日を終える。

それは、ある意味では救いだ。

怖かったことを忘れられる。

世界の継ぎ目を知らずに済む。

普通に戻れる。

でも。

それで、本当に終わるのか?

再構築を繰り返した結果が、今の破綻なんじゃないのか。

消して、塗り直して、なかったことにしてきたから、未処理領域が膨れ上がったんじゃないのか。

なら、また全部消したって、同じことを繰り返すだけだ。

『10秒』

湊の視線が、スマホの画面に落ちる。

観測範囲

そのアイコンの下に、小さな文字が見えた。

バージョン: 2.0.4

湊は、その数字を見た瞬間、何かが引っかかった。

バージョン。

更新されてきた、ということだ。

最初から今の形だったわけじゃない。1.0があって、1.1があって、2.0があって、今の2.0.4になった。そういう履歴がある。

つまり、このシステムは変化してきた。

観測だけの仕組みだったものが、どこかで“再構築”を覚えたのかもしれない。

『5』

「待って」

湊はスマホを両手でつかんだ。

自分でも驚くほど大きな声が出た。

真冬がはっとしてこちらを見る。

声も、亀裂の向こうの残響たちも、一瞬だけ止まったように感じた。

「バージョンを戻せるか」

『4』

声はカウントを続けようとする。

湊はかぶせるように叫んだ。

「初期状態に戻せるかって聞いてるんだよ!」

空間に、自分の声が反響する。

「観測機能だけあって、再構築機能を持たないバージョンに!」

『——』

初めて、声が沈黙した。

その沈黙は短い。

でも、今までのどんな間より長く感じられた。

湊は息を切らしながら続ける。

「推論でしかない。でも、このシステムが不安定になった原因は再構築の積み重ねだろ」

言葉を止めるな、と自分に言い聞かせる。

止まったら、またカウントが始まる気がした。

「最初は観測だけだったはずだ。ただ見るだけ。記録するだけ。理解しようとするだけのシステムだった」

真冬が、隣で息を呑む。

湊はもう止まれなかった。

「それが、いつの間にか書き換える機能を持った。理解できないものを削って、矛盾を埋めて、現実を都合よく整えるようになった」

『2秒』

声が、かすかにカウントを再開する。

「その機能を切れ!」

湊は叫んだ。

「全部をリセットするんじゃない。観測だけ残して、書き換えをやめろ!」

『システムの根幹——』

「根幹を書き換えろ!」

喉が裂けそうだった。

でも、叫ばずにいられなかった。

「今ここで!」

その瞬間、湊の掌の熱が最高潮に達した。

熱い。

今まででいちばん。

痛みを通り越して、光に近い。掌の中心から白い熱が噴き上がるみたいに、感情がそのまま温度になっている。恐怖も、怒りも、焦りも、全部が一つに混ざって爆発する。

スマホの画面に表示された感情値のグラフが、上限を突き抜けた。

オレンジじゃない。

真っ赤だ。

目盛りの外まで伸びて、画面の端で震えている。

『——』

声は黙った。

本当に、黙った。

カウントも止まる。

亀裂の向こうの残響たちも、手を伸ばしたまま静止している。

本棚の光も、明滅の途中で止まったみたいに見える。

世界全体が、判断を保留していた。

長い沈黙だった。

一秒かもしれない。

十秒かもしれない。

時間の感覚がもう信用できない。

やがて、スマホの画面に新しい文字が浮かぶ。

『提案を検証中』

その一文を見た瞬間、湊の膝から力が抜けそうになった。

通ったのか。

まだわからない。

でも、少なくとも“聞かれた”。

『観測機能のみを保持し、再構築機能を停止した場合——』

文字列が高速で流れる。

計算。

分岐。

予測。

失敗率。

残留矛盾。

感情値の推移。

理解不能率の上昇。

湊には全部は読めない。

でも、システムが本気で考えていることだけはわかった。

真冬が、握った手にさらに力を込める。

「湊」

その声は震えていた。

でも、少しだけ希望が混じっていた。

スマホの画面が白く染まる。

『承認』

たった二文字。

その直後、世界が静かに再起動した。

爆発も、轟音もなかった。

ただ、光が一度だけすべてを包んだ。

本棚がほどける。

ファイルの光が線になって空中へ溶ける。

亀裂の向こうの残響たちが、輪郭を失って白の中へ沈んでいく。

床も、棚も、声も、観測層そのものが、いったん形を手放す。

湊は目を閉じた。

閉じたはずなのに、光はまぶたの裏まで届く。

熱かった掌が、今度は急に冷たくなる。

身体の輪郭が薄くなる。

自分が立っているのか、落ちているのか、浮いているのかもわからない。

それでも、ひとつだけわかった。

今までみたいに、何かを消して整える再構築じゃない。

これは、もっと根本的な変更だ。

世界を“理解できる形に削る”のをやめる。

ただ、観測するだけに戻す。

それがどんな現実を生むのか、湊にはまだ想像できなかった。

でも、少なくとも。

忘れるためのリセットじゃない。

そのことだけが、暗くなっていく意識の中で、最後まで残った。


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