平穏の訪れと過去の残滓
ユーカ様が永久追放となり、公爵邸から毒が完全に排除されてから、一ヶ月が過ぎた。公爵邸は、以前にも増して、穏やかで明るい空気に満ちている。
ルーカス様は、連日の激務から解放され、私と過ごす時間を大切にしてくださるようになった。彼は、朝のコーヒーを飲む時間、夕食後の語らいの時間、そして夜のひととき、常に私への愛情を惜しみなく注いでくれる。
「アエナ、君の淹れてくれるこのコーヒーが、私の一日の始まりで一番の安らぎだよ」
彼はそう言って、優雅にコーヒーカップを傾ける。
「ルーカス様がそうおっしゃってくださると、淹れた甲斐がございます」
私は、彼の隣で微笑む。彼が穏やかに笑ってくれることが、私の最大の喜びである。
ユーカ様が去った後、公爵邸の運営は、完全に私に任されることになった。私は、ルーカス様が私に与えてくださったこの信頼に応えるため、毎日、家事、財産、そして社交の全てにおいて、完璧な公爵夫人であろうと努めている。
リリアも、無実が証明されたことで、以前にも増して私に忠実になり、仕事に励んでくれている。
「アエナ様、この庭園、ユーカ様がいなくなってから、本当に生き生きとしていますね。特に、あのバラは、以前よりも鮮やかな色をしています」
リリアは、窓の外の庭園を見ながら、嬉しそうに言った。
「そうね。きっと、この屋敷の邪気が払われたからでしょう」
私は、あのバラを眺める。ルーカス様との愛の証であるバラは、私たちの幸福を祝福するように、今日も美しく咲き誇っている。
しかし、いくら公爵邸から毒が消えたとはいえ、ユーカ様が残した過去の残滓は、完全に消えたわけではない。
ある日、私は公爵邸の蔵書の整理をしていた。ルーカス様が特に大切にされている歴史書や古文書が収められている、特別な書庫である。
書庫の奥深くを掃除していると、私は埃をかぶった一つの木箱を見つけた。その木箱には、公爵家の紋章が刻印されていたが、普段使われているものではない、古いデザインだ。
「リリア、この箱、何かご存知かしら」
「いいえ、アエナ様。私は見たことがございません。もしかしたら、ユーカ様が隠していたものかもしれません」
私は、好奇心に駆られ、その木箱を開けてみた。中には、古い革張りの日記帳が一冊と、公爵家の使用人や庭師たちの名簿が収められていた。
日記帳の表紙には、見覚えのない女性の名前が記されていた。
(アメリア・フォン・グロース公爵夫人)
アメリア。それは、ルーカス様の実の母親の名前だ。ユーカ様は、ルーカス様の父、先代公爵の後妻である。
私は、息を呑みながら、その日記帳を手に取った。これは、ルーカス様の亡き実母が記した日記かもしれない。
私は、そっと日記を開いた。
そこには、美しい筆跡で、幸せな結婚生活の記録が綴られていた。先代公爵への愛情、そして、生まれたばかりのルーカス様への深い愛情。
(ルーカスは、本当に可愛らしい。この子が、いつかこの公爵家を継ぎ、立派な公爵になることを願っている)
日記を読み進めるうちに、私は、ある箇所で手が止まった。
それは、ルーカス様が幼い頃、アメリア様が原因不明の病に倒れる直前の記述である。
(最近、どうも体の調子が優れない。ユーカが作ってくれるハーブティーを飲んでいるのだが、飲むたびに倦怠感がひどくなる)
(先代公爵様に、このことを相談しても、『ユーカは君の体を心配しているのだから、素直に感謝しなさい』と、取り合ってくれない。私は、どうすればいいのだろう)
そして、日記は、そこで途切れていた。アメリア様は、その後すぐに病で亡くなられたと聞いている。
私は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ユーカ様は、ルーカス様の実母であるアメリア様に、毒を盛っていたのではないだろうか。
もちろん、これは日記に書かれた憶測にすぎない。しかし、ユーカ様が私に対して毒入りの菓子を差し出そうとしたこと、そして公爵家の財産を奪おうとした過去を考えると、彼女がそこまで残忍な行為に及んでいた可能性を否定できなかった。
私は、この日記をどうするべきか、深く悩んだ。
もし、この日記をルーカス様に見せれば、彼は亡き実母の死の真相に直面することになる。それは、彼にとってあまりにも残酷な真実かもしれない。彼は、ユーカ様を法廷で裁き、ようやく心の平和を得たばかりだ。
しかし、もしこの日記を隠してしまえば、私はユーカ様の犯罪を知りながら、それを隠蔽したことになる。そして、ルーカス様の実母の死の真実を、永遠に闇に葬ってしまうことになる。
(私は、彼に隠し事をするべきではない。彼は、全てを正直に話してくれることが、私にとって大切だとおっしゃってくださった)
私は、決意を固めた。愛する夫への信頼こそが、この公爵家を守る最大の力である。
「リリア、この日記と名簿を、誰にも見られないように、私の自室の金庫にしまっておいて。ルーカス様が帰宅されたら、私からお話しするわ」
「かしこまりました、アエナ様」
その夜、ルーカス様が帰宅された後、私たちは二人きりの寝室で過ごしていた。私は、夕食の後に、落ち着いた場所でこの話をすることにした。
私は、金庫から取り出した木箱を、ルーカス様に見せた。
「ルーカス様、実は今日、蔵書の整理中に、これを見つけました」
「これは、古い箱だね。中には何が入っているんだい」
私は、日記帳と名簿を取り出し、ルーカス様に差し出した。
「ルーカス様。これは、あなた様の実のお母様、アメリア様の日記だと思います」
ルーカス様は、日記帳の表紙のアメリア様の名前を見て、手が震えているのが分かった。彼は、しばらく無言で日記を読み進めた。
そして、彼がアメリア様がユーカ様のハーブティーを飲んで体調を崩していたという箇所に到達したとき、彼の顔は、怒りと衝撃で歪んだ。
彼は、日記を閉じ、私を見つめた。その目には、深い悲しみが宿っていた。
「アエナ、これは」
彼の声は、震えていた。
「ルーカス様。これは、アメリア様が残された真実かもしれません。ですが、私は、これ以上あなた様を苦しめたくありませんでした」
私は、彼の隣に座り、そっと彼の背中を撫でた。
「君は、よく私に見せてくれた。ありがとう、アエナ。君が私を信頼してくれていることが、何よりも嬉しい」
彼は、私を抱きしめ、深く息を吸い込んだ。
「私は、この真実から目を背けるわけにはいかない。もし、ユーカ様が、私の実の母を殺したのだとしたら、私は、公爵として、そして息子として、その罪を問わなければならない」
彼は、静かに、しかし決意に満ちた口調でそう言った。
「この名簿には、アメリア様が亡くなられた前後の使用人の名前が記載されている。彼らから、当時の話を聞き出す必要がある」
ルーカス様は、すぐに弁護士と、信頼できる衛兵を呼び、日記と名簿を預けた。そして、この件を極秘裏に調査するように命じた。
「アエナ、君は、決してこの件で無理をしないでほしい。君の心が傷つくことだけは、私が最も恐れることだ」
「はい、ルーカス様。私は、あなた様の隣で、あなた様の強さを信じ、最後まで共に歩みます」
私は、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
ユーカ様が遠い修道院に追放されても、彼女の悪意の残滓は、私たちに重い影を落としていた。しかし、私とルーカス様の愛と信頼は、その影をも打ち払う光となるだろう。私たちは、二人で、この残酷な過去と向き合い、真実を明らかにする。そして、本当に清らかな未来を、この公爵家で築くのだ。




