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16. 門出と永訣





夏至を終えた七月の初め、薄雲が流れる程度の晴天日。


リリオデス伯爵邸の庭は華やかに飾り付けられ、家族と使用人だけが参加を許された特別な立食形式のパーティが執り行われていた。

上級使用人たちを中心に、普段は給仕に徹する者たちも主人と席を共にし、飲み物や料理を楽しんでいる。

使用人とはいえ皆それなりに着飾った服を着ているのは、これが屋敷のご令嬢の結婚を祝う場であるからだろう。

実際に婚姻を結ぶのは八月の終わりだが、あと十日もすれば相手方の屋敷へと旅立ち、表向きにはその後二度と会うことは叶わないとされている。


遠方の領地でも他国でもなく、ご令嬢は竜の元へ嫁ぐのだ。


パーティの始まりの場でご令嬢は「婚姻の日を以て自分は死亡と見做され、伯爵家は勿論、この国の戸籍からも抹消される」と発表した。

予め事情を知らされていたのは伯爵と夫人だけ。

言葉を失う使用人らと義妹、そして事情が把握できずに無邪気な視線を向けてくる幼い弟。そのひとりひとりに目配せをし、ご令嬢であるルチシャははっきりと宣言した。


「私という存在が表舞台から消え去るのだとしても、向かう先が幸福であるからこそ、このような華やかな場を設け、皆とお別れをしたいと思いました。パーティの途中には私の夫となる竜王さまがおいでになります……私たちの幸福の門出を祝っていただけると嬉しく思います」


パーティへの参加を許されたのは、基本的に幼少期からルチシャを知る者たちばかりだ。


乾杯を終えたあと、家政婦長はハンカチで拭えぬほどの涙を流しながら「よく…頑張られました」とルチシャを抱きしめた。

彼女の前任者はルチシャの母親と共に離宮へ送られ、その後も重い罰を受けた。今の家政婦長は、女主人の交代や使用人の入れ替えにより混乱する屋敷の中をどうにか整え続けてきた人だ。彼女の献身なくして今のリリオデス家は成立しない。

ルチシャはぎゅっと抱き返すと、小さな声で「…お互いに」とこれまでの健闘を讃えた。

誰かに聞かれたとて、互いにとっての別れの言葉なのだから、今日ばかりは無礼講だ。




執事のリーグッツと家令のアンサムは胸に手を充てて深々とお辞儀をしてくれる。


「お嬢様の末長い幸福をお祈り申し上げます」


「この先いつでも竜王さまとお嬢さまをお出迎えできるよう、客間を整えておきます。高貴なるお客さまをお迎え出来ることは屋敷にとって誇りでございますので」


「ありがとう。この一年は、随分と負担をかけてしまったわね」


「なんの。お出迎えの際にお預かりする竜王さまのお召し物はいつも素晴らしく……やはり特別に誂えられたものなのでしょうか」


「それは私も気になっておりました。生地が我が国で出回っているものではありませんし、仕立て方も少しばかり特徴的なのです」


男性ふたりの着眼点に苦笑しながら、ルチシャは「そうね」と頷く。


「古い時代に仕立てて貰ったものもあるようだし、異国に贔屓の仕立て屋があると仰っていたわ。生地や糸は最上級のものを使われているから…おそらく、歴史的な価値も含めてとんでもない代物だと思う」


得心気味に頷いたふたりは、「ならばその生地に触れさせて頂けただけでも貴重な経験でございました」と微笑んだ。

ふたりはどちらかといえば屋敷の主人である父寄りの立ち位置だ。ルチシャのこれまでの境遇には触れず、嫁ぎ先の竜王との事にのみ重点を充てて話し終えると、一礼して別れの挨拶とした。



他の使用人たちともひと通り挨拶を交わし終えた頃、目の前に立った人物にルチシャは苦笑を溢した。


「リリアンナ。頬が膨らんで見えるのは気のせいかしら」


「……聞かされていないのだけれど」


「言っていなかったもの。そういうわけで、貴女の結婚式への列席は難しそう」


「いつになるかもわからない結婚式の話なんていいのよ……死亡扱いって、お葬式どうするの?あっちで婚姻の儀式してる最中に、こっちで葬儀だなんて嫌よ?」


「儀式的なことはしないわ。墓石も建てないし名も刻まない。ただ、存在が消えるだけ」


ルチシャの言葉にリリアンナは一瞬傷ついた顔をしたけれど、すぐに気を取り直してシャンと背筋を伸ばす。

そしてとても美しいカテーシーを披露した。


「お義姉さまの門出を心から喜ばしく思います。どうぞ…お幸せに」


「ありがとう、リリアンナ」


姿勢を戻したリリアンナをぎゅっと抱きしめる。

「私はこれが最後ってわけじゃないんだから…」と拗ねたように呟くリリアンナに「そうね」と笑う。

リリアンナには、婚姻の儀式の日に、身支度の手伝いをしてもらうことになっている。

それを知っているのは当主と夫人、そして本人だけのため、一応はこの場でお別れの体裁を取っているものの、本当のお別れは最後の最後で良いだろう。




「お姉さまは竜王さまのところへ行ってしまうのですね」


リリム夫人と共に来てくれたローゼルに、屈んで目線を合わせる。

目鼻立ちは父にそっくりで、どこかルチシャと似ている時もあるが、表情の動かし方はむしろリリム夫人やリリアンナとよく似ている。


「そうです。ローゼルはこれから伯爵家の未来を担うための教育をたくさん受けるでしょう…お勉強も大事ですが、色々な経験をして、楽しく過ごしてくださいね。そして、竜王さまくらい、叡智深く素敵な男性になってくれることを願います」


「はい。僕は竜王さまくらい背が高くて格好いい男性になります!でも、ちょっとだけお父さまに似ているかもしれませんが、いいですか?」


可愛い弟からの純粋な問いかけに「だめ」とは言えないだろう。むしろ顔立ちからして、父に似ることは間違いない。

そう、大事なのは中身だ。

とはいえ竜王の方も、叡智深く寛容に見える一方で、腹黒く大雑把で狭量な面もあるため如何ともしがたい。


夫人と目配せして頷きあい、「ローゼルが大きくなるのが楽しみです」と微笑んだ頃、一陣の風が吹いた。

上空を漂っていた厚めの雲が流れ去り、パーティ会場に陽が差し込む。



庭木の奥から姿を現した人物に、パーティ会場に居た面々は談笑や食事をやめて深々と腰を折り、ルチシャは深く微笑んだ。



「ようこそおいでくださいました」



深緑色の異国風の衣装に身を包んだヘイゼルは、息を呑むほどに豪奢で美しい立ち姿だった。

この場はルチシャのお別れ会だが、結婚披露宴も兼ねているため、もうひとりの主役として相応しい装いであることは間違いない。

なによりこの衣装を指定したのは他ならぬルチシャ本人だ。

森のお屋敷で一目惚れをしたのだが、やはりヘイゼルが身につけることで魅力がぐっと増す。


詰襟の長衣には見事な織柄で刺繍が施され、膝下から覗くズボンは細身でシンプルな仕立てだ。足首から足の甲にかけて素肌が露呈していることに驚く視線が多いのは、この国での男性の靴が靴下必須のブーツや革靴であるからだろう。

柔らかそうな素材で作られた靴はフラットで、一見室内履きのようにも見えるが、同色の糸でみっちりと刺繍がなされた豪華さを見るにこの服の為に誂えられた靴なのだとわかる。


先ほど竜王の衣装について口にしていた執事と家令の視線は、見たことのない異国の装いに興味深々のようだ。


あまりの壮麗さに口元を押さえて無言で感動するルチシャの隣で「竜王さま格好いい!」と声を挙げたローゼルを夫人が慌てて押さえたものの、ヘイゼルはちらりと視線を送って艶やかに微笑んだだけだった。



「やあルチシャ…あまりにも美しくて目が離せないね。このまま森へ連れ帰りたいよ」



ルチシャの手を取り、恭しく指先に口付けたヘイゼルの仕草にルチシャの心臓は瀕死の重症を負う。


夏至の森で起きた事件以来、どちらかといえば恋人の困った一面が目についてしまい、この先本当に大丈夫かしら…と思わない日も少なくなかったが、そんな迷いなんて一瞬で吹き飛んでしまった。

自分でも現金だと思うけれど、そのくらい魅力的なのだから仕方がない。



ルチシャの今日の装いは婚礼用にと購入して刺繍を施していた白地のドレスに、青色の糸でルリヂシャの花を刺繍し、瞳と同色のサッシュベルトを巻いている。

装いは比較的シンプルにまとめられているものの、耳と首元を飾るのは大きさも艶も形も完璧な最高級の真珠飾り。


この真珠飾りは、白一色の装いは婚礼時のみとされているためドレスに青の差し色を入れたものの、琥珀のピアスやブレスレットとの色あわせが難しいとヘイゼルに相談したところ、ならばと新しく誂えてくれた贈り物だ。

婚礼衣装にはこれとはまた違った意匠の宝飾品が用意されているというのだから、今日のためにと真珠飾りを受け取ったとき、ルチシャは気を保つために深呼吸を十回以上繰り返した。



この場の誰よりも美しい存在から装いを褒められたことは嬉しかったが、「今すぐ森へ連れ帰りたい」と言ったヘイゼルの瞳に少々本気の眼差しを見てしまったため、ルチシャは眉を下げながら微笑み返す。


「今日は一緒にパーティーに参加してくださるのでしょう?あとで、私が焼いたお菓子を食べてくれますか?」


「勿論。きみが望むままに」



ルチシャの隣に立ったヘイゼルは、これからどう動けば良いだろうかと思案する使用人たちを気にする様子もなく「ルチシャが僕の衣装に釘付けなように、僕はルチシャしか見ていないから、きみたちは好きに振る舞うといい」と告げた。

ルチシャも使用人たちへ向かって深く頷き返す。



パーティの賑やかさが再開してもついつい視線が深緑色の衣装に向いてしまうのに気づいたのだろう、白い葡萄酒の入ったグラスを受け取ったヘイゼルはルチシャの頬に指先でそっと触れた。


「きみはこの衣装が好きだね」


「ヘイゼルが着ているからこそですよ。素敵すぎて目が離せません」


「きみの視線を独り占めできるなら着てきた甲斐もあったね…このドレスの型は今の流行りなのかな?」


「普遍的なスタイルです。流行りのドレスはこう……胸元が強調されますので」


モリッと盛られた胸であれば映えるだろうが、ルチシャのささやかな胸では残念さが際立つのだと伝えれば、胸の大小にさほど興味のないヘイゼルは「そういうものなのだね」と軽く頷く。

そして「来たようだよ」と空を指さすため、上空に目を凝らせば、ややあって庭先にすらりと背の高い美女が現れた。

使用人たちは再び深く腰を折ったが、グラデーションがかった髪を颯爽と靡かせて歩いてきたスレンダー美女は「堅苦しいのはいいわ」とひらりと手を振った。



「お邪魔するわね。わたくしも加えてくださる?」


「ローアン、ようこそおいでくださいました」


「お招きありがとうルチシャ。いいドレスね、よく似合っているわ」


「ありがとうございます。立食形式のパーティですが、置かれている椅子は自由に使っていただいて構いません。お食事やお料理の希望がありましたら胸に花を挿している者にお申し付けください」


「そうするわ。リリアンナも頼っていいかしら?」



視線を向けられた義妹は背筋を正すと深く礼をした。

後ろで伯爵が驚愕の表情を見せているのは、リリアンナと緋色の巫女竜が既知であることを知らなかったからだろう。


先日、ルチシャの気晴らしの為に連れ出した際にはじめましての挨拶を交わしたのだが、ルチシャの予想通りローアンはリリアンナを気に入ったようだ。

何も知らされていない伯爵の反応を見て内心ほくそ笑むルチシャに、ローアンが視線で「悪い子ね」と笑む。



「勿論です、ローアンさま。出来る限りお応えいたします。…本日はようこそおいでくださいました」


「気を楽にして頂戴。主役のルチシャの素晴らしさは勿論のこと、貴女も可愛らしい衣装ね」


リリアンナの衣装はスカートの布地に花の織柄のあるパーティドレスで、上はボレロが一体化したような面白いデザインだ。

褒められたことが気恥ずかしかったのか照れくさそうにはにかんでいる。



「わたくしは国を守護する者として伯爵たちと一通りの挨拶を交わしておくわね」とルチシャの前を離れたローアンは、ワンショルダーの細身のドレスだ。

スリットから覗く尊いばかりの御御足を拝みたい気持ちになるものの、装飾のないシンプルな装いで纏めることで、どう足掻いても主役より目立ってしまうであろう美しさを控えめにしてくれている。



招待客が招待客なだけに、今日のパーティには必要最低限の人員しか配置していない。

そのため、パーティの参加者が給仕を兼任したり、楽器を弾いたりと、使用人らしい気遣いを発動させながら過不足がないよう振る舞ってくれている。


執事のリーグッツがヴァイオリンでワルツを奏で始めたため、ルチシャは隣のヘイゼルの腕をくいと引いた。


「ヘイゼル、一曲踊りませんか?」


勿論、と了承してくれるだろうと思った恋人はしかし、困ったように微笑むだけで動いてくれない。

どうしたのだろうと首を傾げるルチシャに回答をくれたのは、伯爵との挨拶を終えてシャンパングラスを持ち戻ってきたローアンだ。



「あらルチシャ、お従兄さまは踊れないわよ」


「え?」


「知識としては知っているが、これまで、人間とこのように接する機会は持たなかったからね。もし……振り回して腕が千切れたり、体が吹き飛んで行ったりしては大変だろう?」


「普通のワルツでは腕は千切れないはずですが……」


「竜だからね」


「そうですね……竜ですものね」



そこはもう頷いておくしかない。ヘイゼルが「竜だから」と言うときには、それで納得するだけの何かがあるのだとルチシャはこれまでの経験上理解している。


(なんでもできると思っていたヘイゼルの弱点がダンスだったなんて、意外すぎるわ…)


ふふふ、と込み上げてくる笑いが抑えきれずに口元を緩めると、ちょっとばかし憮然とした表情のヘイゼルがルチシャを見た。

竜のマタタビを嗅がせたときも思ったが、こういう、少し拗ねたような表情も可愛いと思ってしまう。


「せっかくなので、森のお屋敷で時々ダンスの練習をしましょうか」と提案したルチシャに軽く頷いたヘイゼルは、奥のテーブルに居たリリオデス伯爵へ視線を向けた。



「伯爵。夫人と一曲踊ってみせるといい」



え!?というザワついた空気は一瞬で、すぐにシンと静まり返る。


指名された伯爵は畏まって一礼すると、リリム夫人へ向かって手を差し出す。

執事はすかさず、この国で広く知れ渡っている有名なワルツをヴァイオリンで奏で始め、開けた場所に進み出たふたりはくるりくるりと円を描くように踊り始めた。



ルチシャはデビューして以降、夜会よりも昼に開かれるガーデンパーティの方に好んで顔を出していたし、大人が中心となる社交場にはあまり足を運ばなかった。ゆえに、父と義母がこうして手を取り合い踊る姿は初めて見るに等しい。



(家では…パーティをしましょうなんて雰囲気ではなかったものね)


誕生日などの祝事はあったけれど、豪華な晩餐やデザートが出る程度のものだ。

父であるルバートが伯爵位を継いだ時も、祖父の喪中であったため盛大な祝いの席は設けられなかったような気がする。それから色々とあり、親戚や知人を呼んで催しを開く機会など全くなかった。



リリム夫人を見る父の表情はどこか柔和で、気恥ずかしそうに視線を返すリリム夫人もまたその表情に偽りや翳りはない。


幼いルチシャの教育が放棄されていることを知った父が母に向けた眼差しは憤りと侮蔑と嫌悪であったし、母が父に向けた視線は懇願であり悲嘆であった。

父母の仲睦まじい姿など見たことはなく……冬の社交に行ってくるわねと壊れかけた笑みを浮かべて王都へ向かった母は、そこで何を言われ何を感じ何を拗れさせたのか、すっかり壊れて帰って来ては早々に離宮へと隔離された。



慣れたようにステップを踏むふたりの奥で、目を輝かせるローゼルと茫然と二人を見つめるリリアンナが居る。

そんな家族の様子を眺めたルチシャは、そっと隣に立つヘイゼルの手を握った。


自分はもう、そちら側から居なくなるのだから、彼らがこの先紡ぐ家族の物語の輪の中に入ることはない。



リーグッツの奏でるヴァイオリンの音が余韻を残しながら消える。

周囲からの拍手を受けながらヘイゼルとローアンに向かってお辞儀をしたふたりは、手を取りあったまま飲み物の置かれたテーブルへ戻って行った。



「今のはワルツというダンスです。覚えられました?」


「そうだね……ローアン、一度相手を」


「え!?ファーストダンスなんだからルチシャと踊りなさいよ!」


「力加減を誤って潰してしまっては大変だ」


生真面目な顔でとんでもない事を言うヘイゼルに、ローアンは頬を引き攣らせる。

ヘイゼルと踊るのもまあまあ嫌なのだろうが、同時に、ファーストダンスの機会を奪ってしまうことに強い罪悪感があるようだ。悩ましげな顔でルチシャの心を慮ってくれる。

ルチシャはその気遣いをありがたく思いながらも素直に頷いた。


「……ルチシャはそれでいいの?」


「はい。正直、潰れたくありませんので」


「とっても正直ね……大丈夫そうだったらすぐに代わってあげるわ」



渋々といった様子でヘイゼルの手を取ったローアンは先ほど父母が踊っていた場所へ導かれていく。


(……どうしてかしら。エスコートの筈なのに連行されているようにしか見えないわ)


それはルチシャが、ヘイゼルとローアンの関係性を正しく認識しているからだろう。

周囲で成り行きを見守っていた使用人たちは、背が高く美麗な竜種ふたりが踊るとわかると、とんでもない場面に立ち会っているぞと慄きながらも胸を躍らせているようだ。



「嫌だわ……お従兄さまとだなんて、ダンスというより組み手の気分よ……」


一度顔を顰めたものの、背筋を伸ばして姿勢を整えたローアンはすらりと優美で、女王のような品格がある。ヒールの加算によりヘイゼルよりも拳ひとつぶん背が高い。


父の構えを見て盗んだのか、あるいは知識として知っていたのか、同じようにワルツの構えを取ったヘイゼルは逞しい体つきのおかげでしっかりとした安定感がある。


完璧と言わざるを得ないふたりの姿にルチシャの胸に少しばかりの羨望が芽生えたが、それよりもハラハラとダンスの行方を見守る気持ちの方が大きい。


リーグッツは先ほどよりも緊張した面持ちでヴァイオリンの弓を構えた。



そして始まったのは、美麗な男女ふたりによる美しいダンスではなく、竜二匹による格闘だった。



ヘイゼルの踏み込みやステップは大きくは間違っていないのに、どこか何かが違うと首を傾げたくなるもので、右手をしっかりと握り込まれたローアンは距離を取ることも出来ずに踏み潰されないよう避けるしかない。

ステップによる踏み潰しを回避して姿勢を崩したところで、ターンのために勢い良く引き戻される。

乱暴ではないが確かに力加減にも苦心しているようだ……ローアンが文句をつけながら必死に矯正し、徐々にダンスっぽくなってきたものの、残念ながらその頃にはもう曲は終盤に至っていた。



最後に向き合って礼をする姿ばかりは整っているのだから、ルチシャたちは苦く笑いながら盛大な拍手を送った。


ヘロヘロになったローアンが近くのテーブルに手を付いて呼吸を整えるのを、ヘイゼルは肩を竦めて眺めている。



「大袈裟だな」


「大袈裟なものですか…!ルチシャ……ダンスは婚儀が終わってからになさい……生身でやったら死ぬわ……」


「いえ……無謀なことはやめておきます……」



踊るとしても、ステップらしいステップを刻まなくても誤魔化せるチークダンスのようなもので十分だ。間違ってもワルツには誘わないでおこうと改めて決心する。



ファーストダンスを披露してくれたヘイゼルをねぎらうべきか、それに付き合ってくれたローアンをいたわるべきか悩んだ結果、ルチシャはひとまずヘイゼルの元へ足を向けた。

ヘイゼルよりもローアンを優先すれば拗ねてしまうだろうし、息も絶え絶えなローアンの元には、冷たい水を持ったリリアンナが向かってくれたようだ。


空気を読んだのかヴァイオリン担当の執事は悲壮感を煽る物悲しい音楽を奏で始めたが、

諸悪の根元たるヘイゼルはといえば、ルチシャを腕で囲いながら、もう少し練習すれば形にはなりそうだけれどね…と何故か前向きの姿勢だ。



「気遣いの出来ないお従兄さまにダンスが踊れる筈もなかったわ……相手の呼吸に合わせるつもりが毛頭ないもの」


「まあ、ローアンが相手だしね」


「自分で指名しておいて……!」



距離を取っているにも関わらずいがみ合うふたりを宥めながら、ルチシャはヘイゼルを庭の散策へ誘う。

今日のドレスは長く歩くのに適した格好ではないものの、会場近くを見て回るくらいは問題ないだろう。



暑くないよう少しだけ、と薄雲で陽射しを和らげてくれた万能な恋人にお礼を言い、この一年で何度歩いたかわからない庭の小道を手を繋いで歩く。


森へ引っ越すまで、もう十日程度しか残されていない。荷物はすっかりまとめ終わり、あとは心残りがないよう丁寧に日々を過ごすばかりとなっている。

こうしてヘイゼルと庭を歩く機会もあと僅かしかないのね…と思えば感慨深い。


不意に「……おや」と立ち止まったヘイゼルは、花の咲く低木ではなくその下の地面を見ているようだ。低木の陰に隠れるように生えた雑草が、白い小花と黒い実をつけている。



「何か見つけました?」


「いや……夏至の太陽と満月の光を浴びて良く実ったようだね。これはとてもいい呪いの材料になる」


「また呪おうとしてる……」



黒い実をそっと摘みあげて薄暗く微笑むヘイゼルに、ルチシャは呆れた視線を向けるばかり。

樹木から派生した竜のなかでは比較的体躯が小さいというヘイゼルは、他の竜に対抗するために苦肉の策として呪いを覚えたのかなと思っていたが、どうやら違うようだ。


(この様子じゃ単純に好きを極めただけのようだもの…)


呪いの材料となる黒い実を潰さないようポケットに収めたヘイゼルに、どのような呪いになるんですかと問いかけた時だ。


会場の方が俄かにざわめき、悲鳴のような声が響いた。



「きゃあ!?」


「リリム……っ!」


「お母さま!?」



何事かと急いで会場へ戻ると、足首から下が硬質化して地面に縫い止められているリリム夫人と、そんな夫人を背に庇うように立つリリオデス伯爵の姿が真っ先に目に飛び込んだ。

よく見ると、伯爵の腕も樹脂のようなもので固められたように硬質化している。


一体誰が…と伯爵の視線の先を辿れば、そこには黒いローブを纏った異様な雰囲気の女が、狂いかけの表情を浮かべて立っていた。


ぞっとしてヘイゼルの背に隠れながら、ルチシャは周囲に目を配る。


侍女のシレネはローゼルを抱き締めてローアンの近くに行ったようだ。

リリアンナもローアンの背後に庇われているようで、他の使用人たちはじりじりとローブの女から距離を取りつつ状況を見ている。



「……独特な香りがするな。あの肉体は随分と薬草に漬け込まれているようだ…寄生種を外したところで正気に戻るのは難しいだろう」


「あの方はもしかして……」



「……まあ。そこにいらしたのね」



不意にこちらを向いた黒いローブの女が、ルチシャたちへ向けて勢いよく何かを投げつけてきた。

咄嗟に庇ったヘイゼルの腕から鈍い音がする。


重い音を立てて地面に転がったものは手のひら大の石のようであったが、その質感に既視感を覚えたルチシャは急いでヘイゼルを見上げ……その腕に、鋭く尖った石が突き刺さっているのを見た。



「シギラリアか………随分古いものを用意したものだ」



ボタ、と音を立ててヘイゼルの腕から半透明の液体が地面に落ちた。


(そんな…っ)


それはまるで血のようで、石の突き刺さった箇所からとめどなく溢れ出ている。


「ヘイゼル…」


息が苦しいほどの恐怖が込み上げてきて、ルチシャは泣きそうになりながら小さな声でその名を呼んでしまった。

それが失態だと気づいたのは、ローブを纏った女の口元がニィと三日月型に歪められたからだ。


名は、呪いに使われる。

本来はヘイゼルが許可しなければあの魔女に名が届く筈はない。けれど、高笑いを始めた魔女の様子を見るに、何か秘策があるとしか思えなかった。



「ごめんなさい、私が名前を……」


「大丈夫。離れずに居るといい」



ローブの奥から覗く異様な程にギラギラと光る目が、歓喜の形に醜く歪められた口元が、ルチシャを庇うようにして立つヘイゼルに向けられる。


「血を得た!名を得た!これで貴方は永遠にアタシのものだわ…!!」


「……お前は、五十年前に僕を封印した魔女だな?」


「そうよ、そう!ずっと貴方が欲しかった!アタシが貴方の封印を解いて、貴方の唯一になる予定だったのに…!」


憎悪の篭った視線がルチシャに向けられたが、ヘイゼルが素早く隠してくれる。

その間にも腕からは半透明の液体が流れ続けていて、ルチシャはそれが余計に恐ろしくて堪らない。



「でも今度こそ、貴方はアタシのもの…!血と名を使った呪いと封印は、あの方の宝石なんて比べ物にならない程に強力だもの。今度こそ、貴方はアタシに屈服するしかないの!愛を乞い、慈悲を乞い、アタシに隷属するのよ…!!」



魔女が両手を動かすと、ヘイゼルの腕から滴り落ちた液体が吸い上げられるように空中へ浮かび上がる。

それは蛇のようにうねり、文字のような形を成した。



「たしかに強い呪いだが…お前如きに扱えるとでも?血で刻まれた名は、正しい音を得るまで力を持たない。そして浮かび上がった文字は遥か昔に失われた言語だ…きみに読むことは出来まい」


「ふ、ふふふふふ!読めるわ…読めるのよ!古木に師事したアタシの能力を見誤ったわね!封印木のなかでその傲慢さを悔いるといいわ!」



女の高笑いは不自然な形でとまり、あたりは奇妙な静寂に満ちる。

ぎょろ、と狂気めいた仕草でヘイゼルを見つめる女の手には、腕ほどの長さほどもある石化した木のようなものが握られている。

今度はヘイゼルをあの中に封印するつもりなのだとわかっても、どうすれば止められるのかがわからない。


離れたくなくて、ぎゅっとヘイゼルの手を掴む。

引き留めることができないのなら、このまま離れ離れになるくらいなら、共に封印されても構わない。

そんな思いで見上げたハシバミ色の瞳に、ゾッとする程に暴力的な色が宿っているのを見てルチシャは堪らず息を呑んだ。


魔女は念願叶ったりと言わんばかりに恍惚とした表情を浮かべている。

ヘイゼルもローアンも動かない以上、その場にいる者たちは、魔女の唇が空中に刻まれた文字を読むのを固唾を飲んで見つめることしかできない。



「愛しい貴方……その名は、ヘーゼル」



魔女の声が血に刻まれた名を紡ぐ。

けれども、何かが違うと思った。

それではいけないと……魔女に味方するつもりはないが、その呼び名ではいけないのだと思わず小さく首を振ってしまう。


魔女も何かを感じたのだろう……あるいは、呪いが発動しなかったことで誤りに気付いたのか。

狂気を孕んだ鈍色の瞳に一瞬だけ恐怖がよぎった。

だが、その時にはもう、魔女の身体は渦巻く黒い靄に飲み込まれるところだった。



(あれは…竜の祠から噴出した黒い靄と同じ…)



「っひ!?きゃ、ぁ、あああがァァあ!あ…!」



靄の渦の隙間から、喉を押さえて踠き苦しむ魔女の姿が見えた。

それはユールの頃にモミの木の精霊が苦しんでいた姿に似ていて、呪いの隙間から毒のようなものを受けているのだと察する。



呪いと、毒と……きっともう魔女は助からない。



この先はヘイゼルの独壇場で、魔女は報復を受けるばかりだろう。

危機を脱したことを確かめようと再びヘイゼルを見上げたルチシャは、その眼差しの色にぎくりとした。

暗い暗い深緑の淵から世界に終焉を齎す夕陽が浮かび上がるような、強く燈る怒りの色。



「我が名をあやまつ愚か者め……紡がれた名は呪いとなってその身を蝕むだろう。

なによりも、我が妻となる女性の晴れがましい舞台に泥を塗るとは………身の程を知れ」



石が刺さったままのヘイゼルの腕が上から下に振り下ろされる。

その指先の動きに合わせたかのように、天から細く鋭い雷が落ちた。


一瞬で魔女は黒焦げになり倒れ伏す。


骨すら残ることも許されないとばかりにもう一度鋭い雷が魔女の肉体と庭先を抉る。

そして抉れた地面を慰めるかのように、ぷかりと不自然に浮いた小ぶりの灰雲からサァサァと局所的な雨が降り出した。


見ていた者は皆、斃された魔女の狂気よりも、竜王の苛烈さにただただ圧倒されていた。



ルチシャは強く握りしめていた手を解き、不愉快そうに魔女の骸を見下ろすヘイゼルの頬に手のひらをあてた。

ルチシャに向けられるハシバミ色の瞳は、いつでも柔らかな温度が宿っている。



「ヘイゼル、怪我は問題ありませんか?」


「問題ないよ…怖い思いをさせたね。まさか今日仕掛けてくるとは……」



自分が怪我を負わされたことよりも、ルチシャの送別会に泥を塗られたことが我慢ならないのだろう。せっかくの晴れの日に…と申し訳なさそうに怒りを滲ませるヘイゼルに、首を振って見せる。


腕に突き刺さった石をどうすべきか悩むルチシャの前で、汚れてはいけないから少し離れてごらんと告げたヘイゼルはあっさりそれを引き抜いた。

石はゴリッと硬い音を立てて細かく粉砕される。


「以前の封印に使われた珪化石と似たようなものだ……あれよりも幾分か時代が古い植物の化石だな」


どこからか取り出した薬と包帯で手早く腕を治療したヘイゼルは、指先で呼び寄せた使用人に草色の液体の入った小瓶をふたつ手渡した。


「伯爵と夫人にこれを。半分は固まった部位にかけて、半分は飲ませるように」



間近で落雷の衝撃を目の当たりにしたのだ、当然と言えば当然だが、リリム夫人は気を失っているようだ。

ルバートが動く方の腕で必死に支えてはいるものの、我に返った使用人たちは急いで伯爵と夫人の元へ駆け寄る。

薬をかけると硬化はじわりと解け、苦味やエグ味が強いのか苦悶の表情で残りを飲み干した伯爵は、リリム夫人の意識を戻させて彼女の口にも薬を流し入れている。


そんな二人の様子を見届けて、ほ…っと胸を撫で下ろしたルチシャは、ヘイゼルがローアンの名を呼んだことにギクリとした。


皆を庇ってくれてはいるが、被害には遭っていないと思っていた。けれど、ヘイゼルに視線を向けたローアンの表情には小さな苛立ちと苦痛が滲んでいた。



「ローアン、そっちは」


「……少しだけね。この前のことがなければ危なかったわ」


「ローアン……腕が……」


ちょうどルチシャの立ち位置からは見えていなかったが、右手の一部が硬質化しているばかりか、腕の様子がおかしい。


どうやら魔女は、現れるなり夫人とリリアンナに向けて攻撃を仕掛けたらしい。

リリアンナのことをルチシャと勘違いしたのか…或いはそのような判断すらなく、手当たり次第だったのかはもうわからないことだが、リリアンナに向けて続け様に放たれた攻撃を、竜の姿に転じたローアンが防ぎながらも受けてしまったようだ。



「翼をやられたか」というヘイゼルの言葉に、蒼白で震えるリリアンナの顔がくしゃりと泣きそうに歪む。

困ったように微笑んでみせたローアンは、「今から竜王による荒療治が始まるから貴女は部屋に入ってらっしゃい」とリリアンナを侍女に預けて室内へと下がらせた。


伯爵と夫人も温かい湯で固まっていた皮膚を解したほうが良いと屋敷へ戻されている。

真鍮色の瞳が向けられ、ルチシャはどうするの?と視線で問われる。



「ヘイゼルに離れていろと言われるまで、ここに残って見届けます。何か必要なものはありますか?」


「竜の姿に戻して治療するから、残っている使用人たちを全員室内へ戻すといい。ついでに大きめのタオルと傘とマッチを持ってきて欲しい」


「はい」


要求されたものに関連性は見出せなかったが、必要であるならと屋敷へ戻した使用人たちに急いで用意してもらう。

大きめのタオルを数枚両手で抱えて戻ったときには、先ほどまでパーティ会場であった庭に緋色の鱗を持った竜が腰を下ろしていた。

脱臼しているのか、右側の翼の形が不自然に曲がっており、見るからに痛々しい。


ヘイゼルとローアンは治療の前に、攻撃の際にどのような武器が使われたかの話し合いをしているようで、春の初めにこの国が巻き込まれんとしていた陰謀の中でも似たような武器が使われかけたのだという。

その武器から咄嗟にローアンを庇おうとしたのが幼い第一王女だと聞けば、確かに御礼にお茶会を開くくらいはしてあげても良いと思えてしまう。


「同じ武器ではないけれど、これ程の威力とはね……あの時も、お従兄さまたちが居なければ確実にやられていたわ。ルチシャが頼んでくれたんでしょう?ありがとう」


ルチシャはただ「里帰りがしたいから故郷が滅びるのは困る」と嘆いたに過ぎない。その結果、ヘイゼルが手を打ち策を講じてくれただけだ。

首を横に振るルチシャに柔らかい眼差しを向けたローアンは、竜の姿のまま深く深呼吸をした。


ルチシャは翼や尾が当たらない位置へと避難させられ、背中に乗ったヘイゼルが右の翼の折れ曲がった部分に手をかける。


「叫ぶなよ」


「ぐぅぅゥゥ……ッ」


噛み締めたまま唸るような声が、空気を重く震わせる。


息を呑んで見守るルチシャの耳に、ゴキッという骨がずれる痛々しい音が聞こえた。

ーーォン!と、突風にも似た悲鳴が一瞬で駆け抜ける。


堪らず目をつむったルチシャがおそるおそる目を開けてみると、そこには大型の竜ではなく人型に戻ったローアンが右肩を押さえて立っていた。

ルチシャがハッとしてタオルを抱えて駆け寄ると、ヘイゼルが大きめのタオルを使って器用にローアンの腕を固定してみせる。


ルチシャはヘイゼルの作業を補佐したあと、手持ちのハンカチで脂汗の浮いたローアンの額を拭った。気休めにしかならないが、早く痛みが引きますようにと怪我に願いを込める。


「ありがと…。さすがにこのまま残っても迷惑なだけでしょうから、先に退席させてもらうわ」


「リリアンナを守ってくださったこと、心より御礼申し上げます」


「堅苦しいのはナシよ。それに、貴女が結婚したら暫くお従兄さまが独占するでしょうから、その間はあの子に相手してもらう予定だもの。怪我をさせるわけにはいかないわ」


「こんな事になってしまいましたが、今日は来てくださってありがとうございます。パーティに参加して下さった方へ、ささやかですが御礼の品を用意しているんです。今度、改めて届けさせてください」


「ええ。ついでにお茶しましょ。そうそう、今日のパーティで飲んだ果実水が美味しかったからお裾分けを持ってきてくれると嬉しいわ」


ウィンクをひとつ残して姿を消したローアンに、深々と頭を下げる。


空を見上げて、見えないながらにローアンを見送っていると、薄く広がった灰色の雲から庭先に向けてサァサァと穏やかな雨が降り始めた。

ヘイゼルが、ルチシャの腕にあった傘を開いて差し掛けてくれる。

ふと気づけば、庭に黒焦げになったまま転がっていた筈の魔女の残骸がなくなっている。

隣に立ったヘイゼルを見上げると含みを持たせた笑みを向けられたため、彼が何かしらの処理を済ませてしまったのだろう。



ヘイゼルは魔女の倒れ伏していた場所を静かに見つめたまま少し悩んでいる様子だったが、おもむろに一本の細い枯れ枝と見覚えのあるナイフを取り出した。



「そのナイフ…呪いの道具にしたのではなかったのですか?」


「したよ?見た目はさして変わらないけどね……本当は今日のパーティが終わったあと、このナイフを裏庭に仕込んで魔女寄せにしようと思っていたんだ」



なんという悪巧みを…と思わなくもないが、森へ引っ越してしまう前に魔女の問題を解決しておきたかった気持ちはルチシャにもある。

持っても大丈夫だよと細枝とナイフを手渡される。

そして、先ほど魔女が倒れ伏した場所にナイフと枝を立てて燃やして欲しいと言われる。



「雨が降っていますし地面も濡れていますが、火はつくのでしょうか」


「儀式的な意図でおこなうからね…よく燃えるんじゃないかな」


「……庭は燃えません?」


「延焼しないよう調整するから大丈夫。雷で災いを散らしたものの、やはり一度清めておく必要がある。それに……僕ではなく、きみがやったほうが良いだろう」



含みを持たせた物言いに、ルチシャは深くを聞かずに頷き返した。


黒く焦げたような跡の残る土のそばにしゃがみ込むと、ナイフと細枝を突き立て、マッチに火を灯す。

オレンジ色の揺らめきはとても小さいが、小枝に近づけてみるとボゥと火が移る。

隣のナイフにも火を移すと、立ち上がり、じりじりと燃え立つ炎を見つめた。


無風なのにゆらりゆらりと揺れる炎。

立ち上る細い煙は天の高いところまで途切れることなく続いている。


宝飾品で飾られていたナイフの柄はすっかり燃え尽き、不思議なことに銀色の刀身にも炎が移り、燃え続けている。

まるでそこに込められた怨念が浄化されているように見え、何故だかルチシャは、ようやく亡き母に別れを告げることが出来たと思えた。



やがて刀身も燃え尽き、隣に刺した細枝と共にすっかり灰になってしまった。

庭先だけを覆っていた薄雲はいつのまにか伯爵領全体を覆うかのように広がり、灰色の雲からサァサァと細やかで優しい雨が降り続く。



「……これで終わったのでしょうか」


「そうだね…あとは雨がすべてを清め流してくれるだろう」


「すべてを……。ヘイゼル、怪我をしたのに後始末まで請け負ってくださって、ありがとうございました」



お礼を言ったルチシャは、見上げた恋人の顔色の悪さに目を瞠った。

慌てて怪我をしていない方の腕を掴めば、困ったように苦笑したヘイゼルが「少し屋敷で休ませてもらえるかな?」と言うではないか。


(今まで、こんな事を言われたことはないわ…!)


ましてや、屋敷のなかが未だ混乱しているような状況下で、だ。

いつものヘイゼルであれば、自身の休息よりもこちらの事情に気を回してくれるはず。

つまりそれだけ具合が悪いということだろう。



傘を投げ捨てんばかりの勢いで大急ぎで屋敷へ戻り、すぐに客間の用意を…と申し出る家政婦長を制して二階の自室へと導く。

階段を上がらせてしまうことを申し訳なく思いながらも、一秒でも早く横になれる部屋が良いだろうと思ったのだ。


自分の寝台であれば毎朝、侍女が整えてくれている。

ドタバタと部屋にかけこみ、汚れてはいけないからと渋るヘイゼルをどうにかベッドへ押し倒す。


勝手に立ち上がったら結婚式を延期しますよと脅しかけておき、水を貰いに厨房へ行っている間にどうやら眠ってしまったようだ。

腕の怪我のこともあるし、相当に無理をしてくれていたのだろう。


ルチシャも疲れていないわけではなかったものの、庭の状態や後始末について伯爵や使用人らと共有しておく必要がある。


(服を着替えたらお父さまの部屋へ行って、夫人の様子を見て、リリアンナにローアンの事を伝えて…)



大波乱なパーティの主役は、まだしばらくは大忙しのようだ。


ぐぃっと背を伸ばして瑠璃色のサッシュベルトを解く。

そして一度だけ目を閉じ、黒焦げになった魔女とナイフを思い浮かべると

……さよなら、と短い別れの言葉を紡いだ。








月が空高くあがった頃、ヘイゼルはようやく目を覚ました。



今日は使用人が少ないうえに先ほどのような事件があったため、屋敷内はバタついていたものの、竜王さまによってすべて恙無く収束したと報告すれば皆一様にホッとした顔になった。


リリム夫人は硬質化された足首に軽い火傷を負ったようで、熱い液体が急に冷えて固められたようだったと魔女に攻撃された時のことを話してくれた。跡が残るほどではないものの、赤くなった肌は今夜いっぱい冷たい布で冷やしておいた方がいいだろう。


伯爵は服の上であったことも幸いしてか火傷にはなっていなかったが、ヘイゼルの渡した薬の味が強烈だったようで胃もたれを起こしているという。

貴方の娘は夏至の夜に、それよりも強烈な薬草を山盛りいっぱい食べさせられましたよと言いそうになったが、グッと堪えて「お大事に」と伝えておいた。

今度森で緑色の飲み物が出されるような事があれば注意しようと思う。


リリアンナはどうにも落ち着かないまま、ローアンとルチシャを案じて部屋の中をうろうろし続けていたようだ。着替えもしていない姿に苦笑しながら、「ローアンは肩を脱臼していたようだけれどヘイゼルに嵌めてもらって森へ戻られたわ」と伝える。

治療の時の唸るような声が聞こえていたのだろう。

自分を庇ってくれたからだわと眉を下げるリリアンナの肩を「大丈夫」と抱き寄せる。


「ローアンがまたお茶会に付き合ってもらうと言っていたわよ。私が結婚したら暫くはヘイゼルが独り占めしちゃうからなんですって」


「それは…光栄なことだけれど……」


「ローアンの防いでくれた攻撃がもしもリリアンナにあたっていたら、きっと命を落としていたわ。長くを生きる高位の精霊ですら顔を顰めるような武器だもの……だからね、私もローアンもヘイゼルも、リリアンナが無事で良かったと心から思ってるわ」



俯いていた顔を上げたリリアンナは不審そうな顔で「竜王さまも…?」と呟いた。

ルチシャは頷いて、自分の恋人が何をどう懸念したであろうかを説明する。


「リリアンナが死んでしまったら、私は心底落ち込みまくって『結婚なんかしてる場合じゃない』ってなるでしょう?それに、儀式当日の着替えを手伝ってくれる人も居なくなるから…」


「………無事にルチシャと結婚するために、私が必要なのね」


どこか呆れたようなリリアンナに、ルチシャはしっかり頷いてみせた。

ヘイゼルの人でなしっぷりが浮き彫りになるようだが、そもそも人ではないので価値観が大きく異なるのは仕方がない。

ルチシャやローアンは純粋にリリアンナが無事であることに安堵したが、ヘイゼルはルチシャが悲しみ、この先の儀式に障るようなことが起きなくて良かったとホッとしたことだろう。



あちらこちらと説明して回り、ようやく湯を浴びることが出来たのはもうすっかり夜が更けてからだった。

厨房で用意してもらった軽食を持って部屋に戻り、寝台のある奥の部屋のソファでパーティの料理が挟まったサンドイッチにもぐりとかぶりつく。

目を閉じて疲れたなぁと首を揉めば、黒い靄とそれを振り払うように落ちた閃光が瞼の裏に映る。

眠気はまだ目の裏側までは到達しておらず、頭の片隅で待機しているようだ。


淑女教育に加えて後継者教育も始めたばかりの頃はよくこうして疲弊した頭と体でサンドイッチを食べていたような気がする。休む暇もなく次々と詰め込まれる知識たちに、気を抜くと押し潰されそうになったものだ。


(ヘイゼルは知識に溺れるのも愉快だと言っていたけれど…私にとってはなかなかの苦行だったわ…)


ローゼルがある程度大きくなるまで続いた後継者教育のことを思い出していると、寝台の方から布の動く音が聞こえた。

視線を向ければ、目が覚めたのかヘイゼルが上体を起こしてこちらを見ている。

ルチシャは口の中のサンドイッチを咀嚼してお茶をひと口飲むと、ヘイゼルの元へ小走りで近づく。


「お茶や水を飲まれますか?」


「水を」と告げたヘイゼルにサイドテーブルに備えてあったグラスに水を注いで渡す。

少し困った顔でグラスの水を飲み干したヘイゼルに、試しに蓋を外したピッチャーごと渡してみると、少し驚いた表情をしてから「ありがとう」と豪快にピッチャー内の水をごくごくと飲んだ。

それなりに重量のあるピッチャーを片手で軽々と持って飲み干す姿に逞しさを感じる。

ゴクリと上下する喉仏の動きから視線が逸せない。

普段は上品にお茶やお酒を飲んでいる恋人の野生味溢れる仕草に、不覚にも胸がキュンとときめいた。



「右腕を使ってますが、痛みなどはありませんか?」


「ああ…問題ないよ。本体のほうもさしたる損傷ではなかった。念のため寄生などされていないか確かめていたから少し時間がかかってしまった」



傷を負って流れ出たのは樹液であるという。本体は幹の一部に傷が付いていたものの、折れたり裂けたりといった大きな損傷はなかったそうだ。

ただ寝ているだけのように見えたが、ヘイゼルは精霊らしい特異さで本体の手当てや確認作業などをおこなっていたようだ。

問題ないのであればもう少し休んでくださいと言えば、ルチシャもねと腕を引かれ、抱き寄せられた。


ふわりと香る芳しい森の香りに心がホッとする。

ヘイゼルの上に座らせてもらい、唇を触れ合わせる。

生きてここに居てくれるという実感に、強張っていた心が解けるようだ。


まるで子どもみたいだと思いながらも、向き合ってぎゅっとその逞しい体にしがみつく。

胸に頬を寄せて僅かに聞こえる拍動のような音に安堵を重ね、ふぅ…と胸から息を吐き出せば、ヘイゼルの穏やかな声が響いた。



「とんでもない相手に嫁ぐことになったと、後悔している?」


「とんでもない相手だというのは…出会った当初からずっと思っていることですが、後悔はしていません。ヘイゼルがまた封印されてしまうというのなら、私も一緒に封じられても良いと思ったんです」


「うん…その覚悟を感じたから、余計な手を打たれる前に仕留めておいた」


「本当はもっと…苦しめてやりたかった?」


「そうだね……あらゆる苦痛のなかに沈めてやりたかったけれど、我慢したかな」



ヘイゼルは必要だと判断すれば拷問紛いのことも平気でやる。

本当はあの黒い靄に閉じ込めた魔女を捕らえ、あらゆる苦痛を与えながら心ゆくまで報復措置を取りたかったことだろう。

けれども万が一にもルチシャに害が及んだり、来月に控えている大事な儀式に支障が出てはいけないと、雷を落として手早くトドメを刺したのだという。


「魔女の遺体はどうなったのですか?」


「事情をお話しして天竜さまに引き取っていただいた。ローアンの枝が一本折れたからね…それを触媒にして、少しばかり力添えをお願いしたところ、浄化の雨を降らす手伝いもしてくださった」


どうやらルチシャがタオル類を取りに屋敷へ戻っているあいだに、一瞬ではあるものの庭先に天竜さまも登場していたらしい。

すごい事だわ…と改めて思う。

窓の外で今も降り続いている雨が天竜さまからの助力と救済だと思えば、なんとも不思議な心地だ。


魂ノ緒結びの儀式にもおいでになると言っていたし、その時にお礼を伝えた方がいいのだろうかと尋ねれば、多分そんな事をしている余裕はないと思うよと言われてしまった。

やはりそれだけ、儀式は負担が大きいものなのだろう。



「パーティを台無しにされてしまったし、やはりもう少し苦しめておけばよかったね」


「ですが、森へ行く前に禍根がなくなったことは喜ばしいことかと…これでもう、ヘイゼルを狙う人は居ないのですよね?」


「ここ五十年は封印されていたし、その前にも個人的に恨みを持たれるようなことはしていないと思うよ」


多分。と添えられた言葉に苦笑するしかないが、今回のような大がかりな仕掛けは滅多に動くものではないだろう。

ふと、ヘイゼルの右腕の袖に裂いたような穴が空いているのに気づいて悲しくなる。


「ヘイゼルの素敵な衣装にも穴が……」


「修繕が可能か今度仕立て屋に尋ねておこう。ルチシャのお気に入りの服だから大事にしなければね」


慰めるように額に口付けが落とされる。

額、瞼、頬、唇と順に口付けを受け、おでこをくっつけあって至近距離で見つめ合う。

ハシバミ色の瞳に翳りや苦痛の影がないことを確かめ、「今夜は泊まって行ってください」と囁きかけた。

おや…と眉を上げたヘイゼルに、少しばかり悪戯な笑みを向ける。


「客間を用意していますから、ゆっくり休めますよ」


「それは残念だ。朝まで寝たふりをして、ここでルチシャと過ごすのもいいね」


ころんとベッドにひっくり返されて覆い被さるように顔を寄せられる。

ヘイゼルが今ルチシャの部屋に居ることは周知されているが、『朝までお目覚めにならず、ずっと側で看病をしておりました』と言えば誰も咎めはしないだろう。

もちろん、大きな音や声を立てるような戯れをすればすぐに露呈してしまうけれど。


互いに密やかな息遣いで、触れるだけの口付けを重ねる。

甘やかな空気に満たされた室内で、二人分の重みを受けて苦しそうに軋むベッドに心中で謝っておく。

わずかに深められた口付けの合間に息を継げば、ヘイゼルの瞳の奥に欲が揺れた。

けれどもそれは、すぐに穏やかな色で隠されてしまう。



「………触れ合いがキスまでなのは、決まりがあるからですか?」


「そうだね……体を繋げてしまうと、死の精霊に願い出ている儀式が受けられなくなる。

でも、今回は随分と上位の精霊ばかりが集まるから、ルチシャが耐えられるようにある程度僕との繋がりは深めておかなければならない……そこが悩ましいところでね」


「それで私は、森での収穫物やヘイゼルの実をいただいているのですね?」


「森での収穫物は異界である森の環境に順化するためかな。僕の実を食べてもらったり、口付けや少しばかり親密な触れ合いを重ねたりすることで繋がりを深めている……でも、行為にならないよう、触れ方や触れる場所には気を付けないとね」


僕の理性の問題もあるし、と付け加えられてルチシャはふふと微笑んだ。

欲に濡れたヘイゼルの眼差しを思い出すと、心と体が不思議な疼きを覚える。

きっとルチシャも本能的に、もっと深い繋がりを求めているのだろう。


「ホーステールさんのお屋敷では……少し危なかったような気がします」


「ああ……やっぱり夏至はね、気がざわめくから………儀式まで僕の忍耐力が保つかも、試されてるんだろうなぁ」


「試練みたいなものですか?」


「暇潰しに近い。風の精霊は賭けのような遊び方を好まれるし、死の精霊は楽しむというより…出来るもんならやってみろという姿勢なのだろうけど」


「天竜さまや……ええと、大地の精霊さまも?」


「天竜さまは一歩下がったところから頑張れと見守るタイプだね。大地の御方は…………難しい」


眉を寄せて悩ましげな表情になったヘイゼルを、珍しいわ…と観察する。

どうやら大地の精霊は、ヘイゼルにも読み解くことの出来ない難解な御方のようだ。


「風の精霊と共に遊興にふけることもあれば、風の精霊の自由すぎる振る舞いを諌めることもあるから……今回はどうだろうか。もしかしたらあまり興味を持っておられないかもしれないし、何か興味深いものを見つけておられるのかもしれない」


享楽的な面もあれば無関心な面もあるようだ。

樹木の精霊とは関わりが深く、竜というものを形づくったのも大地の精霊なのだという。一方で、人間という生き物を創り出す過程で風の精霊と諍いになり、それぞれ天上と大地という別々の領域で暮らすようになったとも言われている。

大地の領域には人間の魂の根源である生命樹という大木が聳え、人間の魂を漂白するための釜も置かれているそうだ。

新たに知ってしまった稀有な知識をどうにか飲み込みながら、確かに難解だわ…と納得していると、ヘイゼルから優しく頬を撫でられた。


「…………心配?」


「いいえ。ヘイゼルを信じてお任せします。…………あのサラダだけは……快く受け入れられそうにありませんけど……」


遠い目をして告げたのは、先日そのサラダによる苦痛を緩和しようと試みてくれたヘイゼルとホーステールのやり方が、あまりにも斜め上だったせいもある。

どんなに苦しくとも、得体の知れない生き物の乾燥物を砕いて飲まされたり、多幸感の出る少々危ない薬草を混ぜられたりするのだけは御免だ。

苦しんでいるときは余計なものを用意するのではなく、とにかく優しく労わってくださいねと念を押しておくのを忘れないでおく。



「あとひと月……何があってもきみが損なわれないよう、整えるつもりだ」


真摯な言葉と瞳を向けられ、ルチシャの心はこの上ない幸福を感じた。

部屋の明かりを落としているせいかいつもよりも濃く色付いた琥珀色と、その周囲を彩る夜の森林のような緑色。

自身の青い瞳を重ねるように向かい合い、ルチシャはゆったり微笑んだ。



「明日、一緒に森へ帰りましょうか」



少しばかり驚いた表情を向けられ、ルチシャは静かに頷く。



「今日、お別れは済ませましたし、荷造りも殆ど終わっているので。パーティーの終わりに渡すはずだった品物を手渡して、最後にしましょう」



窓の外にはさぁさぁと雨が降り続いている。


庭に現れた魔女の顔は、母によく似ていた。

壊れ、狂った者の顔。

けれども魔女や母の残した怨念や執念の籠ったナイフは雷に打たれ、炎に巻かれ、雨に流され清められた。

これを機に、母の血を引く自分も、この屋敷から居なくなるのが良いだろう。


そんなルチシャの心を読んだかのように、ヘイゼルは静かな口調で告げた。


「念のために言っておくけれど、きみの母親は魔女ではないし、呪いで損なわれたわけではない。伯爵にはその身に纏わりつく執念のようなものはあったけれど…それは彼が自分で招き、身に負ったものだ」


「ええ……そうでしょう。でも、母や私が父を苦しめていたのは事実ですもの」


「どうだろうね……考えたくもないことだけれど、男児が生まれた時に母親だけでなくきみまでも命を断っていたら、きっとこの家は崩壊していただろう。伯爵家もこの国も、きみがいたからこそ無事に残ることができた」


「そう言われてしまうと大袈裟に聞こえますけど……生きていて良かったです?」


気恥ずかしくなって冗談めかして問いかけると、まっすぐな眼差しで頷き返される。


「当然だよ。きみが居なければ僕は永遠に愛を得らなかった」


「……そういえば、私と出会わなければ、祠から出てきたヘイゼルがこの国を滅ぼしてしまった可能性もあるんでしたね」


「まあ…少なくともローアンの鱗は剥いだかな」


それはとんでもない事だ。

腕を犠牲にしてまで義妹を庇ってくれた恩人ですので酷いことはしないでくださいと、ここでも念を押しておく。


ルチシャがよそ見をしないならローアンにも手出ししないよ…と困った事を言う恋人の頬へ唇を寄せる。

ルチシャの頬に返礼のキスを落としたヘイゼルは、少し考えてから立ち上がると、ルチシャを促してバルコニーの前に立った。


季節柄肌寒くはないものの、さっきまで身を寄せて触れ合っていたぬくもりがなくなったぶん、寂しさが肌を冷やすようだ。

カーテンの隙間から月光が差し込み、傍らに立つヘイゼルを照らした。

深緑の衣装は端正な顔立ちを際立たせ、美しい顔貌を彩る淡色の唇が僅かに開くのを待つ。

澄明なハシバミの瞳に見つめられ、ルチシャの胸は静かに高鳴る。



「本当は人間の様式を真似てパーティーの途中で言うつもりだったんだけどね。

ルチシャ……僕と結婚してくれる?」



薄く微笑むヘイゼルの表情に、不安や懸念の影はない。

当然受けるであろうという想定でなされたプロポーズは、本来精霊の作法にはないものなのだろう。人間の為にとわざわざ計画してくれたパフォーマンス。その気遣いを受け取ったルチシャは、微笑んでしっかりと頷いた。



「はい。私はヘイゼルと結婚します……大事にしてください」



鷹揚に頷き返したヘイゼルは「人間の恋人同士の多くは婚姻の前にプロポーズをすると聞いたからね」と補足した。


「きみの家族にも改めて示しておこうと思ったんだが」


「家族の前だと気恥ずかしくてうまく返事が出来なかったかもしれません」


「きみは夫人と義妹を大事に思うがゆえに案じ続けている……あの二人は、このような場面を見せておけばひとまず安心するだろう?」


「……………なるほど。つまり、私が二人のことを過分に心配し続けていたのが気に入らなかったのですね?」


「もう別れは済ませたのだし、これからは僕だけを見てもらいたいものだ」


「困った人……呪ってはだめですよ?」


「だからこうして遠回しなことをしている」



先ほどまでの格好良さはどこへ仕舞ってしまったのか。

しれっと悪びれもなく企みを披露し、家族よりも自分を大事にしろと主張してくる竜王にぎゅっと抱きつく。

優しく抱え上げられ、耳元で「もう少しこの部屋での思い出を重ねておこうか」と囁きかけられたルチシャは返事代わりに頬を寄せた。

朝まであと如何程かは知らないが、寝不足の顔をしていれば夜通し看病したという言い訳も立つだろうなどと考えながらも、結局は、恋しい人と離れがたいだけなのだ。





翌日ルチシャは、朝早くからヘイゼルと共に屋敷中を回った。


まだ起き抜けの使用人たちは急な別れを聞いて驚き別れを惜しんでくれたが、昨日の出来事からも何かを察してくれたのかもしれない。

もう懸念はないと頷いてやったヘイゼルと、リリオデス家を頼みますと告げるルチシャに深々と礼を返した。



荷物は大きめのスーツケースと、カバンがひとつずつ。


朝の澄み渡った空気の満ちる玄関ホールに立ち、引き留めたそうな顔をしているリリム夫人とリリアンナに、笑ってさよならを告げる。

寝起きのローゼルにバイバイをし、ふと顔を上げると険しい表情をした父と目が合った。


そういえば昨日のパーティで、父とは別れの挨拶をしていないわねと今更ながらに気づく。



「………お父さま、十年間秘密にしていた事があるのですけれど」



そう切り出せば、父に一瞬だけ動揺が走ったようだ。

僅かに傷ついたような顔をしたあと、覚悟を決めたように顎を引いて「なんだ」と問う。

その表情の固さと不器用さに、思わず笑いが溢れそうになった。



「お(うら)み申し上げておりません」



きっぱりと、目を見つめて。

ルチシャの言葉の意味を理解するなり、緑がかった瞳が見開かれ、困惑に揺れる。


母は、父の緑の瞳を私が継ぐと思ったのだろう。だからこそノヂシャなんて葉っぱめいた名前をつけようとしたのだ。その名前には、男からの寵を得て幸福になれという高慢な願いが込められている。父が生まれたての私を見て「瑠璃の瞳だ」と言わなければ、果たしてどんな名前にされたことか。


思えば、父母娘としての幸せはそこまでだった。

前伯爵の突然死により引き継ぎもなく背負わざるを得なかった爵位という重責を抱え、壊れゆく妻と無教育な娘を前にして、父はどれほど苦悩したことだろう。

そんな父にとって、夫を喪いながらも背筋を伸ばして娘をしっかり守り育てようとするリリム夫人はとても眩しく得難い存在だったに違いない。

だから、そんな夫人との間に生まれたローゼルこそが、父やリリオデス伯爵家にとって真の救いなのだと理解している。



「ずっと、……一度も、恨んだことなどありません。お父さまのことも、お母さまのことも。私はただ…女として生まれてしまった自分を恨むばかりでした」



その言葉に、父は今度こそはっきりと傷ついた顔をした。

母からは幾度も女であることを嘆かれたけれど、父からは一度も、男であればという言葉は貰ったことがない。いつでも、娘であるルチシャをどのように扱うか悩んでいるだけの不器用な男なのだ。



「女であろうと……性別など……お前が生まれたときの喜びを忘れたことはない。大事な、…大事な子なのだから」



絞り出すように告げられた言葉に微笑み返す。

そんなことは百も承知だ。だから恨んではいない。散々振り回されたことに対して、ちょっとばかし報復してやりたいと思ったことはあるけれど。



「幸せになりに参ります。お父さまもどうぞお幸せに」



深々と礼をする。

父からの返事はなかったけれど、俯きがちに目元を押さえているようだから十分だ。


荷物を持ち、ヘイゼルと手を繋いで正面玄関から外へ出た。




「どうそお元気で…末長くお幸せに」というリーグッツの言葉と共に扉が閉まる。



閉ざされた扉を背にヘイゼルを見上げれば、大好きなハシバミ色の瞳に優しく見つめ返される。

頷いて一歩踏み出した先は、真っ暗な精霊の道。



私はそうして、生まれた世界にさよならを告げた。





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