17. 儀式
ルチシャの衣装が輝くような美麗な白であるなら、ヘイゼルの衣装は落ち着きのある優美な白だ。
膝元までの長い上衣のあわせは大きな一粒真珠のブローチで留められており、動きに合わせてケープのようにゆったりと揺れる。
袖と肩、裾元に艶消しの金糸で刺繍が施されている以外に装飾はなく、ヘイゼル自身にしっかりとした存在感があるからこそ衣装がより映える。
上衣の内側には丈の長い中着が何枚も重ねられているのか随分と重さがあるように思えるが、ヘイゼルの動きは普段とかわりなくそれを感じさせない。
衣擦れの音が森の葉擦れの音のようにさわと揺れ、柔らかな生地に身を包んだルチシャの隣に並び立つ。
つい先ほど、身支度を手伝ってくれたリリアンナと別れを告げた。
大きな屋敷の玄関で伝えた「さようなら」は、先日伯爵家で告げた別れの言葉よりもどこか淡白に響いた。
別れは惜しいけれど、今日ここから新しく始まるのだと思えば、悲しみはない。
リリアンナもそれを察しているのか、或いは彼女なりに心を整えてきたのか、昔の『ご令嬢・侍女ごっこ』を彷彿とさせる丁寧な言葉と仕草でルチシャの幸福と未来を祈ってくれた。
ホーステールに導かれて森の入り口へと向かうリリアンナの背を見送り、わざわざお屋敷の玄関先まで出てきてくれたヘイゼルを見上げる。
息を呑むほどに美しい男性は、婚礼衣装に身を包んだルチシャを見て柔らかく微笑んだ。
「素晴らしく似合っているよ」
「ありがとうございます。ヘイゼルも素敵です…これまでで、一番素敵」
「あの深緑の衣装よりも気に入ってくれたのなら用意した甲斐があったかな」
「そうですね…久しぶりに恐れ多くて平伏したい気持ちになっています」
「平伏されるのは困るね……僕はその繊細な衣装をどう脱がそうか考えているところかな。破いてしまっても怒らないでくれる?」
「ヘイゼルが用意してくれたんですから、うまくやってください。
破いたらとっても怒ります」
困ったね…と困っていない顔で微笑むヘイゼルも少しは緊張してくれているのだろうか。
これから手を繋いで森の最奥にある廟まで歩き、儀式を執り行う。
まずは婚礼の誓いを交わし、魂ノ緒結びの儀式を経て、蜜月に入るという。
リリアンナをローアンに預けて戻ってきたホーステールに、ヘイゼルは留守中の森の管理を託す。
それからルチシャの顔に胸元までの長いヴェールを下ろした。
薄らと透ける視界の向こうには、太古の時代から残存する深くも美しい森。
様々な緑が茂る森には多くの命と深い歴史が刻まれている。
(……ここがヘイゼルの生まれた森で、これから共に生きる場所)
今はまだ、伯爵家の裏手にあった森の方を懐かしくも恋しく思うが、いずれはこの森こそがルチシャにとって馴染み深い森になるのだろう。
そんな感慨を抱いていると、「行こう」と腕を差し出されたため、すっかり慣れたエスコートに身を委ねて歩きだす。
この先に続くであろう果てない時間を思いながら、一歩一歩。
森はとても静かだった。
サワサワ…さらさら…と、優しい風に揺らされた葉が時折、祝福の音を鳴らす。
精霊たちは出てこないのかしらと思ってると、森の主の花嫁を婚前に見つめることは不敬であるからと今日は姿を隠しているそうだ。
儀式や蜜月を終えて廟から出てきたら熱烈な歓迎があるはずだよと言われ、もふもふな小動物たちに囲まれる自分を想像して心がほっこりする。
ただ、熊な精霊にハグされるのは怖いのでご遠慮願いたい。
こちらの考えを読んだかのように、蛇とか蜂とかは平気?と尋ねられたので、そちらも得意ではないと答えておく。
「まあ…皆、平伏して出迎えるんじゃないかな。花嫁の肌にでも触れようものなら僕から引き千切られると弁えているし」
「………小動物な精霊を手のひらですくい上げて頬を寄せるのはセーフですか?」
「小動物は小さくて千切りにくいから…ひと思いに潰すかな」
「……ヘイゼル、森を恐怖で支配してはいけませんよ?」
「とはいえ、線引きはしておかないとね」
それは確かに…と思ったものの、目の前で千切ったり潰したりの蛮行は見たくないため、エスコートの腕をゆっくり撫でて宥めておく。
結婚後は特に挨拶回りや結婚報告をする必要はないようだが、話を聞きつけて訪問してくる精霊は何人か居るだろうという事だった。
もしも世界樹の精霊がお見えになったら樹皮の礼をお伝えしたいと伝えれば、来るとしても冬になって彼のお嫁さんが冬眠してからになるだろうと言われた。
木の実が茂る時期に訪問しないのは、栗鼠なお嫁さんが同行したがるからだという。
世界樹の精霊からすれば、大事なお嫁さんを他の男の森に連れて行きたくはないし、狂喜乱舞のまま頬いっぱいに他の男が育てたヘーゼルナッツの実を詰め込む姿も見たくないそうだ。
「彼はよその森から貰った実をどのような配分で嫁に与えるか厳密に管理しているからね…」と呆れ声で話すヘイゼルは、「でも今はその気持ちもわかるかな」と頷いた。
どうやら太古の森の管理者にとって、他の森で収穫された実りには思ところがあるらしい。「ドングリ男の実だけは絶対に口にしないように」と厳しい声で忠告されてしまった。
(ドングリ男さんはどんな人なのかしら…)
ヘイゼルはその精霊を毛嫌いしているようだから、折を見てホーステールに聞いてみるのが良いだろう。
マツの精霊からは豊穣祈願の松毬を貰っているそうだ。蜜月のあいだに食べようと言われたものの、ルチシャには松ぼっくりをそのまま口にする習慣がないため、どうやって食べるのだろうと少し心配になる。
取り留めのない話をしながら一時間は歩いただろうか。この一カ月の間に随分と森のなかを散策したと思っていたが、まだまだ未踏の場所があったらしい。
初めて踏み入れる森の深部を興味深く見回していると、太古から茂る植物の事をひとつひとつ丁寧に教えてくれる。
深く美しい森を奥へ奥へ進んでいくと、木立のなかに小さな建物が見えてきた。
ヘイゼルを見上げれば、肯定するように頷き返してくれる。
石造りの廟は荘厳な雰囲気で、森の中に佇む小さな教会のようでもあった。
壁に使われた白い大理石は、ともすれば森の中では異質なものに見えてもいい筈なのに、不思議と森の景色に溶け込んでいて全く目立たない。
森の入り口から遠く離れており、此処に至るまでの道程も複雑で、ヘイゼルによる導きがなければ容易には廟へ辿り着くことは出来ないだろう。
入り口のアーチには繊細な枝葉と蔓草の模様が刻まれ、木で出来た扉は端が美しく硬質化している。
何と美しいのだろう…と経年を感じさせる外観に見入っていると、鍵穴にヘイゼルの指が触れ、施錠されていた扉が静かに開かれた。
扉の開閉に誘われ揺れ動いた空気が、ふわりとヴェールを揺らす。
床は黒にも近い深緑色の石材が使われており、静寂に満ちた空間はひやりと冷たい。
当然ながら人間社会の礼拝堂のように長椅子などは並んでおらず、何もないガランとした空間は厳かに佇み、人間の領域にはない壮麗な雰囲気にこの上ない神聖さを感じる。
言葉を忘れて室内を見渡すルチシャの様子を、ヘイゼルは静かに見守っているようだ。
声を発して良いのか躊躇うほどの重厚な内部にただただ圧倒される。
「あまり…大きくはないのですね…」
竜が使う儀式の場となれば、ヘイゼルのお屋敷のような大きなものだと思っていた。
けれども、見上げた天井の高さは三メートルほどで、建物自体も二十メートル四方くらいだろうか。
彫刻などの装飾は施されているものの、華美な飾りはなく、天井付近の窓から差し込む光が柔らかく室内を満たすばかり。
「初めて派生したハシバミ竜は、手のひらほどの大きさで白銀の鱗を持っていたとされる。書に魅せられ本を読み耽るうちに、鱗はインク汚れで灰黒に染まったそうだ」
小さな竜が身体を汚しながら必死で本を読む姿を想像して、可愛いわと思ってしまう。
「鱗の話は茶化されているのかもしれないが、小さな竜であったことは確からしい…」と言ったヘイゼルは、壁に刻まれた彫刻を指差した。
翼を持つ小さな竜が低木の根元に寝転ぶ姿が、繊細な彫りで表現されている。
竜とは大きく凶暴な存在だ…という概念を覆すかのように生まれた、小さく『知』の探求に長けた竜。大地の精霊はその誕生を喜び、以降、ハシバミの精霊は竜として派生し続けるようになったという。
「おいで」と促されて、荘厳な雰囲気に包まれた廟の奥へと足を進める。
入り口からは真っ直ぐに伸びた長方形の建物のように見えたが、奥まった場所にもうひとつ空間が広がっていたようだ。
大きな天窓から明るい日差しが差し込むその一角には床がなく、ありのままの地面が露呈している。まるで廟の一部が建物から切り離され、そこだけ自然と一体化したかのようだ。
(不思議…まるで廟のなかに小さな森があるかのよう…)
湧水で満たされた小さな泉と、半分以上が苔で覆われた大岩。そして中央にすらりと生えているのは、ルチシャの胸くらいの高さの一本の木。
肉厚の葉が宿す豊かな緑の色彩に、これがヘイゼルの派生した木なのだと本能的に理解する。
「ヘイゼルは、ここで生まれたんですか?」
「正確に言えば、派生したのはこの森にあるハシバミの群生地でかな。森の管理者としての立場を引き継ぐ際に、自分の木をここへ移動させたんだ……以前ここに植えられていた前任者のハシバミの木は、今はもう枯れてしまった」
「じゃあ、ここはお墓でもあるのですね」
「いや……説明が難しいな……墓ではなく、身を守るための要塞に近い。僕はこんな感じだけれど、歴代のハシバミ竜たちはあまり強くなかったからね」
要塞という思いがけない言葉に首を捻ると、ヘイゼルは竜の気質のせいだよと苦笑する。
「竜は力がものをいう社会だ。大して強くもないのに重要な仕事を任されている者が居たら、どう思う?」
「相応しくないと判断する方もいるかもしれません」
「そう。だからこそ、このような廟が作られた。ここは地上を管理する者たちへ声を届けやすくなっている。万が一にも第九の森を襲撃し、森に残る希少な植物たちを荒らそうとする者がいたら、ここからすぐに助けを要請できるようになっている」
ローアンの木はこのように厳重に囲われてはいなかっただろう?と言われ、確かにすらりと伸びた優美な木が、森の中に堂々と立っていた姿を思い出す。
ナナカマドの精霊は様々な姿で派生しており、ローアンの前任者もその前も竜ではなかったそうだ。
けれどもハシバミの精霊だけは必ず竜として派生する。
竜の社会に長く身を置いてきたからこその自衛策だと言われ、ルチシャは竜社会で生きるのも大変なのね…と歴代の守護者たちに少し同情してしまった。同時に、今の守護者であるヘイゼルが力ある竜で良かったと安堵する。
恋しい人が常に脅威に晒されていたら心穏やかでは居られなかっただろう。ちょっとばかり残忍だろうが、強く美しい今のヘイゼルだからこそ、共に生きていきたいと願ったのだ。
ヘイゼルはルチシャの手を握ったまま、粛然として立つハシバミの木の前まで導いた。
とうとう始まるのだという予感に、ルチシャの胸がドクンと跳ねる。
ハシバミの木を宣誓の見届け人とするかのように、ふたり向かい合わせで立つ。
顔を覆っていたヴェールが上げられ、琥珀と深緑の混在した美しい瞳が、静穏な眼差しでルチシャを見下ろした。
「ルチシャ」
「……はい」
「きみを永遠に愛すると誓う」
「私も、貴方を永遠に愛すると誓います」
不思議と言葉は、考える前に喉からするりと溢れ出た。
誓いの言葉を口にした途端、胸のなかに愛おしいという感情が膨れ上がり涙が出そうになる。
ヘイゼルは胸元から白銀色の指輪を取り出すと、ルチシャの左手の薬指に嵌めた。
そしてルチシャの手のひらに同じ意匠の大きめの指輪をのせてくれる。
誓いの証である白銀色の輪っかは天窓からの光を受けてキラキラと輝いている。
落とさないよう気をつけながらヘイゼルの左手指に指輪を嵌めると、今まさに夫婦になったのだという自覚が芽生えた。
「実りを」
ヘイゼルの手の動きを追うように視線を移せば、見届け人として静かに佇んでいた木に、先ほどまでは無かった茶色の身がひとつ実っていた。
迷いなくそれを摘み取り、指先でパキリと殻を割ったヘイゼルは、ルチシャの口にその実を与える。
噛み締め、飲み込む。
これまでに口にしてきた実とは、明らかに違っていた。
じわりと身体中に広がる多幸感に、ずっと堪えていた涙が溢れた。
(ひとつになったのだわ……)
やっと…という万感の思いが胸を満たした。
それはルチシャの感情ばかりではなく、ヘイゼルの気持ちも混ざっているのかもしれない。
狂おしい程に恋しくて、足りていなかった何かが満たされるような感覚に、苦しいほどの幸せを感じる。
ほろほろと涙をこぼすルチシャに、ヘイゼルは優しく口付けた。
「これで僕たちの婚姻は成った。……次の儀式へ移ろうか」
「……はい」
指先で涙を拭われ、指輪の嵌められた手が握られる。
次なる儀式は一体どこで行われるのだろうと思っていると、ヘイゼルは自分の木の小枝をぽきりと手折り「願う」と短い祈りの言葉を捧げた。
「これで、応じて貰えれば招かれるだろう。ゆっくりと婚姻の余韻に浸らせてあげられなくて悪いけど、気が変わったと去られてしまったら次の儀式が出来なくなるからね」
「魂ノ緒結びの儀式が終わったら、そのまま蜜月に入るのでしょう?その時にじっくり余韻に浸ります」
「その余裕があればね」
「余韻にくらい浸らせてください…勢いに任せて、ドレスを破いたり乱暴に扱ったりしては怒りますよ」
「うーん…そちらではなく、別の意味で余裕がないかもしれない。なにせ対峙するのは死の精霊だ……人間にとっては根源的な恐怖を抱く存在だろう。正気が保てるかどうか…」
え。と思った途端、周囲に黒い闇のような空間が広がり始めた。
自身の木が巻き込まれないよう一歩下がったヘイゼルが、ルチシャの手をぎゅっと握り込む。
「手をしっかり掴んでいてごらん。僕が隣に居ることを忘れないでいれば、死の精霊を見たとしても発狂には至らないだろう」
(……どうしてそういう事を直前に言うの!)
発狂するとか聞いていないわ!という文句を心で叫び終わる頃には、ルチシャはどこもかしこも黒で覆われた漆黒の空間に立っていた。
(闇……)
手を握っている感覚はあるが、隣に立っている筈のヘイゼルの姿もうまく見えない。
周囲に視線を巡らせ、目の前に漆黒の衣装に身を包んだ男性が静かに佇んでいるのをみた瞬間、身体に震えが走った。
ゾクリと全身が粟立ち、恐怖のせいで血の気が引く。
その姿は決して恐ろしいものではない……むしろ美麗な男性であるはずなのに、絶対に相対してはならないものだと本能が警鐘を鳴らす。
半歩後退したルチシャの手をヘイゼルの手が引き留めた。
言葉はないが、それ以上離れてはいけないと忠告しているのだろう。
けれども、怖くて、怖くて、堪らないのだ。
漆黒の髪に漆黒の瞳。
光のないその深淵なる黒に、自身の内側を覗き込まれているかのような、恐怖。
その恐ろしい者を見ていたくないのに、目が逸らせない。
息がうまく出来なくて胸が苦しくなってくる。
浅く短い呼吸を必死で重ねていると、その黒い男性の後ろに焦茶色の髪をした女性が立っていることに気がついた。
懸命に視線をずらしてその女性のほうを見る。
ルチシャの視線が自分に向けられたと気づいたのか、その女性は「怖がらなくても大丈夫よ」と言うかのように、微笑みながらひとつ頷いてくれた。
少しだけ、呼吸が楽になる。
半歩引いてしまった足を叱咤しながら元の位置に戻し、ヘイゼルの手を痛いほどぎゅっと握る。
それを見届けたのか…或いは儀式に相応しい時がきたのか。
それまで言葉なくルチシャを見ていた黒い男性が、静かに口を開いた。
「人間の魂の定数は我が管理下にあり、徒にその数を変えることは許されない」
彼の言葉は漆黒の空間に重く響き、男性の声を耳にするだけで喉が締まるような息苦しさを感じて冷や汗が噴き出してくる。
それでもルチシャは懸命に、肺を動かし喉を搾りながら応じた。
「答えよ」
「…………は、い」
「問う。儀式を受けるか否か。ハシバミの精霊は実りを司る古き竜。探求を好み知識を戴く貪欲な竜……魂の行く末を託せば、幾星霜の夜の果てに、朽ちた肉体ごとその魂を貪り食らうことだろう。それでもお前は儀式を望むだろうか」
「………望み、ます。たとえ…魂の行く先を失うのだとしても、多くの時間と幸福を、共に」
答えるたびに、言葉とともに自分の寿命と魂を抜かれているような感覚がする。
心臓ではなく、もっと奥にある大切なものを鷲掴まれているような心地に、恐怖と吐き気が込み上げる。
けれども、繋がれた手を握り、逃げたくなる足を踏ん張り、震える唇を噛み締める。
そんなルチシャを包むように一陣の風が吹き、一瞬だけ呼吸が楽になった。
ただ、空間に満ちる重圧は増し、その重すぎる気配に今にも身体が押し潰されそうだ。
黒い男性は確かめるように中空へ視線を向けたあと、何の感情もこもらない無機質な言葉で儀式の開始を告げた。
「儀式に必要な五つの役目を果たす者がここに揃った。……始めよう」
男性の言葉を受けてまず一歩進み出たのは、彼の後ろに控えていた焦茶色の髪の女性だ。
微笑みを湛えたままルチシャの前に歩み寄ると、ヴェールでそっと顔を覆い隠してくれる。
薄布に遮られ、漆黒の男性を直視せずに済むようになったからか、先ほどのような肺が潰れそうなほどの息苦しさは感じなくなった。
怯えなくて大丈夫よ…と小さく囁かれたような気がしたけれど、その女性は素早く漆黒の男性の後ろに下がってしまった。
(黒くて見えないけれど…誰かが…居る……)
男性が『役目を果たす者が揃った』と言っていた通り、漆黒の空間にいくつかの気配があることに気付いたものの、周囲を見渡す余裕などない。
背中に重石を乗せられているかのような重圧に耐えながら立っていると、儀式の開始を告げる重々しい鐘の音が一度だけ鳴らされた。
その響きに、ルチシャの脳裏には母の葬儀の日の景色がよぎる。
雨音と嘆き声、そして棺桶に入れられた腐敗避けの薬草と墓石に捧げられた花のかおり。
明瞭な『死』の記憶。
純白の衣装は死装束でもある。そして視界を満たす光なき黒は、終焉にこそ相応しい。
今にも終わりへと引き摺られそうなルチシャの身を、繋いだ手が静かに引き留めてくれる。
「死の精霊がその魂を抜き取ろう」
「ハシバミの精霊がその魂の緒を受けましょう」
「大地の精霊がそれを見届けよう」
「風の精霊が魂を鎮める歌を歌おう」
「アルカエオプテリスの精霊が儀式を閉じる鐘を鳴らそう」
まるで恐竜の唸るような声。
天竜さまの声だわ…と認識したのは一瞬で、続けて耳に届いた歌声がルチシャの体を駆け抜けた。
(澄みきった透明の歌声……まるで、風のよう…)
美しいのに、恐ろしい。
透明なのに、耳を塞ぎたくなる。
目を閉じて歌に身を委ねたい気持ちと、悲鳴を上げて喉を掻きむしりたい衝動とが混在する。
耳元で揺れる真珠飾りの先に添えられたヘイゼルの鱗が、チリチリと小さな音を立てながら共鳴する。それがなければ、あまりに美しすぎる音色に気が狂っていたかもしれない。
「……っ、」
歌の終わりに安堵するまもなく、突然腹を殴られたかのような衝撃が身を貫いたと思えば、ルチシャの中からずるりと抜かれた『何か』がヘイゼルの手に渡された。
それを持っていかないでと、喚き叫びたくなる声を必死に抑える。
自分のなかから大切なものが失われてしまった。
……悲しくて哀しくて、泣き出したくて堪らない。
ルチシャは痛いくらいに唇を噛み締め、込み上げる悲鳴をぐっと飲み込んだ。
ルチシャの中から抜かれた大事な『何か』は今、夫となったヘイゼルの手の中にあり、空虚になったこの身にはこれからたくさんの愛が詰め込まれるのだろう。
そう思えば必要以上の恐怖は感じず、ただ、喪失を嘆く本能的な涙が頬を流れるばかり。
『……強い子だ』と誰かが囁いた。
守られているからこその強さなのだとルチシャはヘイゼルの手を一層きつく握る。
「死の精霊が宣誓する。その魂の緒はハシバミの精霊に委ねられた」
「死の精霊が命じる。ハシバミの精霊よ、受けた魂を粗末にせず慈しみ守るように」
「死の精霊が宣告する。ハシバミの精霊よ、許されざる振る舞いが認められれば、結ばれた魂はその手から永劫失われ、其方は重罰を受けるだろう」
三つの言葉を紡いだ死の精霊にヘイゼルが何と答えたかは聞こえなかった。
けれども、彼がこの上ない幸福を感じていることだけは伝わってきた。
婚姻の儀式でハシバミの実をいただいた時よりももっと深く、ヘイゼルの心が染み込んでくる。
(私のことを…こんなにも求めてくれている…)
この身が死してなお、魂の一片まで愛し尽くしてくれるのだと思えば、これほどに嬉しいことはない。
「鐘の音にて儀式を閉じよ」という死の精霊の言葉に、ようやく終わるのね…と朦朧としてきた頭で考える。
質量の大きなものが尾を引き摺るように動く音がして、直後、力強い鐘の音が空間を満たした。
儀式の終わりを報せる鐘の音は、波となって耳の奥へ押し寄せ、こだまする。
……自分の魂がどうか安らかであるようにと願うのはおかしな事だろうか。
生きているのに死んでしまったかのような、死んでしまったのに生きているかのような、不可思議な心地に包まれる。
この感覚が正常なのか異常なのかもわからずに唯ぼんやりと立ち尽くしていると「そのままで大丈夫」と、いつの間にか目の前に来ていた焦茶色の髪の女性がそっとヴェールをあげてくれた。
「……おめでとう。儀式は無事に終わりましたよ」
「…………あ、りがとう、ござい、ます…」
「私に祈りの力はありませんけれど、貴女の前途が善きものでありますように」
どうにか口元だけは微笑んで返したものの、彼女が優しい言葉を紡ぐたびに漆黒の男性から向けられる気配が重くなるということは、彼女こそが死の精霊の恋人なのだろうか。
言葉を交わしただけなのに殺されそう…本当に精霊は狭量だわ…と呆れた途端に、全身から力が抜けた。
咄嗟に抱きとめてくれたのは、大好きなハシバミ色の瞳を持つ男性。
漆黒の空間に来てからというもの、手のひらの温度は感じていたけれど姿は全く見えなかった。
向けられた眼差しに安堵したせいか、一気に全身に冷や汗が浮かぶ。
体温は急速に下がり、堪えていた恐怖が身体を満たす。
意識が遠くに持っていかれる感覚。
その前に、念を押しておかなければとどうにか気力を振り絞る。
「…………ヘイゼル、」
「無事に終わったよ……よく頑張ったね」
「ヘイゼル……………蜜月の始まりは、私の意識が戻るまで、待っていて………」
「約束しよう……きみが眠っているときに酷いことはしないよ。疲れただろう、少し眠るといい」
この言い方だと、酷いことはしないけれど、酷くないことは色々としてしまうつもりね……と思いながら、ルチシャは底なしの闇へ沈み込むように意識を落とした。
それからどれだけ経っただろう。
眠っていたルチシャからすれば一瞬であったけれど、ヘイゼルの様子を見るに少し長く待たせてしまったのかもしれない。
意識を取り戻したルチシャに「おはよう」と微笑んでくれたヘイゼルは、すぐに蜜月の始まりに相応しい蜂蜜水を用意してくれる。
(ここはどこかしら……雰囲気は…廟の中に似ているけれど…)
寝かされているのは大きな寝台の上で、天窓からは温かな光が差し込んでいる。
衣装が婚礼用のドレスから豪奢な刺繍の施された寝衣に変わっていることは(ついでに少しばかり乱れていることは)今は不問にしようと、差し出された蜂蜜水を受け取る。
お揃いの刺繍が施された寝衣に身を包んだヘイゼルはごきげんな様子で蜂蜜水を飲み、木の実を齧っている。
ルチシャも真似をするように蜂蜜水を飲み干し、口元に寄せられたハシバミの実をかりりと齧り、飲み込む。
途端に身体の奥に疼きを感じてヘイゼルを見ると、濃厚な蜜色に溶けた瞳で見つめ返された。
(魂を…結んだせいかしら…)
なんとなく、ヘイゼルのしたいことやして欲しいことに察しがついて、サイドテーブルに置かれた蜂蜜の瓶に手を伸ばす。
ルリヂシャの単花蜜を掬い取り、指先に纏わせてヘイゼルの唇に塗りつけると、酷く満足気に微笑まれた。味わうように蜜を舐めとる仕草に胸が高鳴る。
指に残っていた蜂蜜を自身の唇にちょんと乗せてヘイゼルを見上げれば、その瞳にぞくりとする程の欲が揺らめいた。すかさず降ってくる口付けは、繰り返すうちに濃密なものへと変わっていく。
重ねるたびに身のうちに広がるのは、重く纏わりつくような幸せと獣じみた愛欲…そして安堵と愛情。
心が求めるままに手を伸ばす。
「ヘイゼル……私だけを見て」
これから先、ずっと。
懇願にも近い言葉は当然だとばかりに受け入れられ、与えられる深い情愛の奔流に巻き込まれては、すぐに余計なことなど考えられなくなる。
竜王から与えられる惜しみない愛と幸福に、ルチシャは唯々溺れるように身を沈めた。




