episode.03「グラウンドの向こう側」
夏休みを間近に控えたある日、北橋高校の3年教室には、期末テストが終わった解放感と、この先の受験という現実への焦りが入り交じった、独特の気だるい空気が漂っていた。
「やっとテスト終わったー! もう頭から煙出そうだったわ」
教室の中央で、まなせが両手を頭の後ろで組みながら、大げさにぐにゃりと背伸びをした。
「本当にお疲れ様、まなせ。でも、これで終わりじゃないからね」
隣の席ではんなが、綺麗に整理されたノートやルーズリーフを丁寧に鞄に挟みながら、呆れたような、けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「これから私たちは本格的に受験モードだよ。夏期講習のパンフレット、もうもらった?」
「うわ、言わないではんな! せめてテスト返却までの数日間くらい、夢を見させてよ!」
まなせが机に突っ伏してジタバタと足をバタつかせると、周囲からくすくすと笑い声が漏れた。
「ついこの間、中学の修学旅行に行って高校受験終わったばっかなのに、もう大学受験なんて……時間の流れ早すぎない? また修学旅行に行きたーい」
窓際の席から、きょうが頬杖をつきながらぼんやりと外の青空を見上げる。
「ほんとそれ。人生のスピード設定がバグってる気がする」
めろが鉛筆を指先でクルクルと回しながら相槌を打つ。
「私はまだ部活の大会が残ってるから、それが終わってから本格的かな。先輩たちの引退試合でもあるし、今はそっちで頭がいっぱい」
ほむらが、少し遠い目をしながら呟く。
◇
「そういえばさ、れむは夏休みの美術部の課題、もう仕上げたの? 早くない?」
きょうがふと、斜め前の席に座るれむに視線を向けた。
教室の隅、自分の世界を大切にするかのように静かに座っていたれむは、スケッチブックの端をペン先でトントンと叩きながら、軽く首を横に振った。
「ううん、まだ下書きの段階だよ。でも、早めにやっておかないと後で焦るからね」
「さすがれむ、真面目だなー。私なんて、いつもギリギリにならないとエンジンかからないタイプだから尊敬するよ」
そんな他愛のない、いつものメンバーでの賑やかな会話の途中で、れむはふと手元のペンを止め、教室の大きな窓の外へと視線を向けた。
その瞳の先にあるのは、午後の強い日差しに包まれた広いグラウンドだった。
「……ん?」
その視線の先に気づいたのか、めろがいたずらっぽく目を細め、れむの顔とグラウンドを交互に見比べる。
「ねえ、そういえばれむ。サッカー部のはじめくんとはどうなったの?」
その名前が出た瞬間、教室の空気がほんの一瞬だけ、ふわっと色めき立った。
「えっ? はじめくん? あの、長身ですごく爽やかな、サッカー部のエースの?」
まなせが身を乗り出すようにして聞き返す。
「そうそう。この間、校門の前で二人で話してるところ見たよ。すごい楽しそうだったし、なんなら帰り道も一緒じゃなかった?」
めろの茶化すような、でもどこか温かい声色に、教室の友人たちの視線が一斉にれむへと集まった。
「え……? いや、なんにもないよ。ただのクラスメイトだし、生徒会のことでちょっと資料の受け渡しがあっただけだから」
れむの白い頬が、わずかに、しかしはっきりと朱色に染まった。その動揺を隠すように、彼女は鞄に付けた青いキーホルダーをそっと指先で包み込むように握りしめる。
「「「うわー、その反応は怪しいー!」」」
「赤くなってる! れむ、絶対何かあるでしょ!」
「この間サッカーの試合に行った帰りも、二人で駅の方歩いてるの目撃されてるし!」
次々と飛んでくる冷やかしの言葉に、れむは「もう、みんなして……!」と困ったように俯き、耳たぶまで真っ赤にして小さく首を振った。
◇
そのやり取りを、私は少し離れた席から、ただ黙って見つめていた。
胸の奥が、キュッと締め付けられるような、痛いような、甘いような感覚が広がる。
そっか……そうなんだ。
れむも、はじめくんのことが好きなんだ。
いや、気づいていなかったわけじゃない。ずっと前から、なんとなくそんな気はしていた。
大人っぽくて、誰に対しても優しくて、美術部で部長を務めるセンスのいいれむと、サッカー部のエースとして全校生徒の憧れの的であるはじめ君。
二人とも生徒会の仕事でも一緒になることが多くて、きっと、私たちが知らないところで、共通の話題や時間をたくさん共有してきたのだろう。お似合いの二人だ、と、客観的に見ても心からそう思える組み合わせだった。
私だって、はじめくんのことはずっと気になっていた。
高校に入学した1年のころ、グラウンドの隅でボールを必死に追いかける姿を見かけてから、いつの間にか私の目で彼を追うようになっていた。朝の廊下ですれ違うだけで胸が高鳴り、サッカーの試合でゴールを決めた後に目が合った時は、嬉しすぎてもうその日一日眠れなかったほどだ。
だけど、私はずっと遠くから見ているだけだった。
れむのように自然に話しかけることもできないし、めろみたいに明るく冗談を飛ばすこともできない。自分に自信がなくて、ただ「好き」という気持ちを胸の奥にしまい込んだまま、今日まで過ごしてきてしまったのだ。
……うん! お似合いの二人!
私は心の中で自分に言い聞かせるように、精一杯の笑顔を作ってみせた。
れむはあんなに優しくて、大切な友達だ。あんなに一途に誰かを想えるれむだからこそ、はじめくんと結ばれたらいいのにって、心の底から応援したい。
私の恋は、きっと最初から成就することなどないのだから。告白する勇気すらない臆病な私の恋は、こうして誰にも知られずに、青春の思い出のなかにそっと沈んでいくだけなのだ。
窓の外では、グラウンドを駆けるはじめ君のシュートが決まったのか、サッカー部員たちの歓声がこの3階の教室までかすかに響いてきた。
その眩しすぎる光景から目をそらすように、私は鞄のポケットにそっと手を伸ばした。
指先が触れたのは、あの東京の修学旅行で買った、ピンク色のクマのぬいぐるみキーホルダーだった。
少し毛羽立った柔らかい感触が、なぜか今日の私には、ほんの少しだけ冷たく感じられた。




