第1話
朝の車内は冷房が強く、
吊り革を握る右手だけが汗でぬるかった。
神代湊はドア横のガラスに肩を寄せ、
揺れるたびに足裏の重心を小さく直していた。
イヤホンの音漏れが遠くで鳴り、
前に立つ会社員が親指で画面を払ってスマホを持ち直す。
その動きが視界に入った瞬間、
車輪音だけが急に遠くなった。
空気の温度が変わる。
喉の奥に乾いた鉄の味が残り、息を吸おうとしても胸の真ん中で止まって入ってこない。
視界は床に近い位置まで傾き、割れるガラスの音が遅れて届いた。
短い悲鳴が途中で切れ、焦げたにおいが鼻の奥に残って吐き気が上がる。
指先の感覚は薄く、どこかが痛むのに場所が分からない。
目の前で火花が散って、すぐ暗くなる。
暗い。
割れた窓の向こうに人影が立っていた。
制服の袖と細い肩が見えて、
まっすぐこちらを見ている。
神代湊だった。
意味が分かるより先に、背中が冷えた。
「お客さま、降りる方、先にどうぞ」
女の声で車内に戻る。
駅名アナウンスはいつもの大きさで、
前の会社員は何もなかったようにスマホを見たままだった。
湊は吊り革から手を離せず、
指の関節だけ白くなっている。
声をかけようとして喉が動かず、
口だけが半端に開いた。
間に合わない。
ドアが開き、人が降り、別の人が乗り、ドアが閉まる。
会社員は一駅先で降りた。振り返りもしなかった。
湊は降りるタイミングを逃したまま、次のアナウンスを聞いていた。
一時間目のチャイムが鳴っても、
ノートは白いままだった。
前の席の椅子が引かれる音に、さっきのガラス音が重なる。
窓から入る光は普通の朝と同じなのに、鼻の奥だけが焦げたにおいを覚えていた。
「神代、体調悪い?」
隣の席の声に反応が遅れた。
湊は一度だけうなずきかけて止まり、目線を机の端へ落とす。
「……いや」
それだけ答えたあと、シャーペンの芯が紙の上で折れた。
昼のバイト先で弁当を温める蒸気が上がったとき、乾いた熱が喉を締めた。
次の客がトレイに小銭を置く音が遠く、
レシートを切る指に力が入らず、二枚続けて破ってしまう。
「神代くん、大丈夫?」
店長の声に湊はうなずいたが、何を聞かれたのかすぐに抜け落ちた。
そのあとも視線だけがレジ横の金属棚に向き、反射した光を見るたびに肩が固くなる。
帰り道、赤信号で止まっている間、足は地面についているのに膝の奥だけがふわついた。
落ちる前みたいな感覚が消えず、青に変わっても一拍遅れて歩き出す。
ポケットの中でスマホが震えた。
通知を消すだけのつもりで画面を開き、指がそこで止まる。
今朝、都内の列車内火災で一人死亡。
記事を開くと、顔写真は朝の会社員だった。
一度閉じて、すぐ開き直す。
閉じたままにはできなかった。
親指が同じ動きを二度繰り返してから、やっと止まる。
本文の下に現場写真が一枚あり、
割れた窓と黒く焦げたフレームの奥で、人影だけがぼやけて残っていた。
拡大すると画像は粗く潰れるのに、制服の輪郭だけは消えない。
自分に見える。
見間違いかもしれないし、見間違いであってほしい。
画面の明かりで指先だけが白く、息を吸ったつもりで喉が小さく鳴る。
吸えていない。
湊は、もう一度画像を拡大した。




