第7話 溶解する玉座と、痛みの在り処
重厚な扉が開く音は、まるで地獄の蓋をこじ開けたような、低く不快な軋みだった。
視界が、紫色の煙で真っ白に塗り潰される。
鼻を突くのは、甘く腐った果実と、焦げた鉄の匂い。
わたくしは反射的に袖で口元を覆い、往診鞄を抱える腕に力を込めた。
この革の冷たい感触だけが、ここが現実であり、わたくしが医療従事者であることを繋ぎ止める命綱だった。
煙が少しずつ晴れていく。
そこは、かつては荘厳な「玉座の間」だった場所だ。
高い天井を支えていたはずの石柱は、半ばまで溶け落ちて奇怪なオブジェと化している。
赤い絨毯は見る影もなく、床一面が黒いヘドロの沼になっていた。
そして、その中心。
部屋の最奥にある玉座に、それは「居た」。
「……あ、ぅ……」
人間、だったもの。
そう表現するしかなかった。
かつて美貌を謳われた帝国皇太子の面影はどこにもない。
全身が黒い泥のような粘液に覆われ、皮膚が垂れ下がり、骨格さえも歪んでいる。
辛うじて人の形を保っているのは、彼が必死に玉座の肘掛けにしがみついているからだ。
わたくしは息を呑み、足元の氷を踏みしめた。
ルーカス様が作ってくれたこの氷の道だけが、安全地帯だ。
一歩踏み出すたびに、靴底を通して伝わる「守られている」という実感が、すくみそうになる膝を支えてくれる。
「……ひか、り……?」
玉座の怪物が、ゆっくりと顔を上げた。
ドロドロに溶けた顔の中で、片目だけが奇跡的に残り、ぎらついた光を放ってこちらを捉える。
「よこ、せ……その、ひかり……!」
獣の咆哮のような、しゃがれた絶叫。
同時に、彼の身体から黒い触手のような泥が噴き出し、鞭のようにしなって襲いかかってきた。
ヒュッ、と喉の奥が鳴り、胃が冷たく収縮する。
殺意。
純粋な暴力への恐怖が、かつてゲーム画面の向こうで感じた「死のイベント」の記憶を呼び覚ます。
あれに触れれば、わたくしは一瞬で溶かされて死ぬ。
けれど、わたくしは目を閉じなかった。
閉じる必要がなかった。
ガギィィン!
硬質な音が響き、目の前で黒い触手が弾き飛ばされた。
青白い氷の壁が、わたくしの目前に展開されている。
「私の婚約者に、その汚い手で触れるな」
ルーカス様だった。
彼はわたくしの前に立ち、抜き放った剣を一閃させた。
その背中からは、氷点下の冷気と共に、煮えたぎるような怒気が立ち昇っている。
彼は剣を構え直し、氷の壁をさらに厚く展開した。
その動作一つ一つに、「何があっても君だけは傷つけさせない」という、痛いほどの意思が込められているのが分かる。
「セレス、後ろへ! こいつはもう、言葉が通じない!」
「いいえ、ルーカス様。……聞こえていますわ」
わたくしは彼の背中に守られながら、冷静に怪物を観察した。
往診鞄から聴診器を取り出し、首にかける。
ゴムの管が肌に触れる冷たさが、恐怖で熱くなった頭を冷やしてくれた。
「あれは、攻撃ではありません。……求めているのです」
「求めている?」
「ええ。苦しくて、痛くて、楽になりたくて。目の前にある『救い』に縋り付こうとしているだけですわ」
ナースの目には、そう映る。
暴れる患者を取り押さえるのは、彼を傷つけるためではない。
治療するためだ。
その時。
鞄の隙間から、黄金の光が漏れ出した。
『ママ! あそこ! あそこが、いたい!』
聖杯が飛び出し、空中で激しく明滅しながら、皇太子の胸元を指し示した。
わたくしは目を凝らす。
黒い泥に覆われた胸の中央。
そこで、心臓のように脈打つ、赤黒い塊が見えた。
(……見つけました)
わたくしは確信と共に、ルーカス様のコートの裾を握った。
「ルーカス様。あの方の心臓に、呪いの核が埋め込まれています。あれを引き抜かなければ、彼は死にます」
「心臓だと? そんな場所、どうやって……」
「切除します。今、ここで」
わたくしは迷いなく答えた。
手術室も、麻酔もない。
あるのは、襲いかかってくる患者と、腐食する床だけ。
最悪の環境だ。
それでも。
目の前に助けられる命があるなら、わたくしは理由をつけて逃げたりはしない。
「殿下は、あの方の動きを止めてください。一瞬でいいのです。その隙に、わたくしが核を摘出します」
ルーカス様が振り返る。
その青い瞳が、わたくしを射抜くように見つめた。
数秒の沈黙。
そして、彼はニヤリと、不敵に笑った。
「……分かった。君がそう言うなら、地獄の底だろうと付き合おう」
彼は剣を正眼に構え、魔力を全開にする。
部屋の空気が凍りつき、ダイヤモンドダストがきらめいた。
「行くぞ、セレス! 私の氷で、その腐った時間を止めてやる!」
怪物の胸の奥に、人の命がある限り。
わたくしはメスを握り、この絶望的なオペを成功させてみせます。




