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【SS追加!】悪役令嬢ですが、回復魔法しか使えないので平和に生きます!  作者: 九葉(くずは)
最終章

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第8話 ラスト・オペレーション

 ルーカス様の背中越しに見える怪物は、もはや人の形を保とうとする理性さえ捨て去っていた。


 黒い泥が、生き物のようにうねり、天井まで届くほどの高波となって押し寄せてくる。

 腐食性の粘液。

 触れれば骨まで溶かす死の奔流だ。

 わたくしは反射的に呼吸を止め、往診鞄を抱える腕に力を込めた。

 革の持ち手が手に食い込む痛みが、恐怖で震えそうになる膝を叱咤する。


「させない!」


 ルーカス様の裂帛の気合いと共に、空気が爆ぜた。

 彼が剣を横に薙ぐ。

 その軌跡に沿って、巨大な氷の壁が一瞬にしてせり上がる。

 ドォォン! という重い衝撃音。

 黒い波が氷壁に激突し、ジューッという不快な音を立てて白煙を上げながら凍りついていく。


 防げている。

 けれど、ギリギリだ。


「セレス、まだだ! まだ動くな!」


 ルーカス様が叫ぶ。

 振り返りもせず、彼は次々と襲いかかる黒い触手を氷の剣で切り落としていく。

 その背中は、わたくしを守るための堅牢な盾であり、同時に限界まで張り詰めた弦のようにも見えた。

 心臓が早鐘を打つ。

 彼の魔力が尽きるのが先か、わたくしがメスを入れる隙ができるのが先か。

 これは戦闘ではない。

 時間との戦いだ。


 わたくしは目を凝らし、怪物の胸元にある「患部」を見定めた。

 暴れ回る泥の奥、赤黒く明滅する核。

 あれが心臓だ。

 正確には、心臓に寄生し、命を食らい尽くそうとしている悪性腫瘍。


(……動きが速すぎますわ)


 不規則に蠢く泥の鎧が、核へのルートを塞いでいる。

 今の状態で飛び込めば、わたくしは核に触れる前に溶かされて終わりだ。

 一瞬。

 たった一瞬でいい。

 あの方の動きが完全に止まる瞬間が必要だ。


「ガァァァァァッ!」


 皇太子だったものが咆哮する。

 玉座の間全体が振動し、天井から溶解した石材が雨のように滴り落ちてくる。

 ルーカス様が頭上に氷の傘を展開し、それを防ぐ。

 彼の呼吸が荒くなっているのが、後ろ姿からでも分かった。


「……くっ、しつこいな……!」

「ルーカス様! 無理をなさらないで!」


 思わず声を張り上げる。

 わたくしの叫びに、彼の肩がピクリと反応した。


「心配するなと言っただろう……!」


 彼は剣を構え直し、泥の濁流を睨みつける。

 その声には、少しの余裕も残されていない。

 けれど、そこには確かな熱があった。

 かつて図書室で、一人痛みに耐えていた頃の彼ではない。


「約束したはずだ。君の平穏は、私が守ると!」


 ルーカス様の全身から、青白い魔力の光が噴き出した。

 部屋の温度が急激に下がる。

 吐く息さえ凍りつくような、絶対零度の世界。


「凍てつけ――『氷結牢(ニブルヘイム)』!」


 彼が剣を床に突き立てる。

 切っ先を中心に、爆発的な冷気が放射状に広がった。

 それは黒い泥の波を飲み込み、崩れかけた天井を支え、そして玉座の怪物へと殺到する。


 パキパキパキッ!


 硬質な音が連鎖する。

 暴れ狂っていた触手が、空中で静止した。

 泥の飛沫も、咆哮のために開かれた顎も、すべてが青白い氷の中に閉じ込められる。

 時間が止まったかのような静寂。


 今だ。


「――行きます!」


 わたくしは氷の床を蹴った。

 滑らないように、足の裏に魔力を集中させる。

 ルーカス様の横を駆け抜ける瞬間、彼と視線が合った。

 眼鏡の奥の青い瞳は、極限の集中で据わっている。

 彼が作ってくれた、数秒だけの永遠。

 これを無駄にはしない。


 凍りついた泥の波を足場にして、玉座へと跳ぶ。

 目の前には、氷像と化した皇太子。

 その胸元だけが、氷の中で微かに赤く脈打っている。


 わたくしは右手を突き出した。

 イメージするのは、光のメス。

 鋭く、細く、そして慈悲深く。

 凍りついた泥の鎧を透過し、患部だけを切り離す術式。


「摘出します……ッ!」


 指先が、氷の表面に触れる。

 冷たい。

 けれど、その奥にある熱を感じ取る。

 わたくしの魔力が、氷をすり抜けて内部へと侵入していく。


 黒い泥をかき分け、血管を避け、神経を傷つけないように。

 ナースとしての経験と、聖女としての直感が、最適なルートを脳内に描き出す。

 到達した。

 指先の感覚が、硬く忌まわしい「核」を捉える。


 掴んだ。

 そう確信した瞬間だった。


 ドクン!


 巨大な鼓動が、わたくしの腕を通じて全身を揺さぶった。


『……ヤダ……ハナレナイ……!』


 頭の中に、憎悪に満ちた声が響く。

 核が震えた。

 わたくしの魔力に抵抗し、逆にこちらの魔力を食らおうと牙を剥く。

 それだけではない。

 赤黒い光が急激に膨張し始めた。


(自爆するつもり!?)


 宿主ごと吹き飛ぶ気だ。

 なんて悪質な防衛本能。

 引き抜こうとする指に、強烈な拒絶の熱が焼き付く。


「逃がしませんわ!」


 わたくしは退かなかった。

 ここで手を離せば、皇太子は死ぬ。

 それだけじゃない。

 砦が吹き飛び、ルーカス様も巻き込まれる。


 そんな未来は、認めない。


 わたくしはさらに踏み込み、両手で核を鷲掴みにした。

 焼けるような痛み。

 けれど、この指先が掴んでいるのは、ただの呪いではない。

 絶望の淵にいる患者の、未来への脈動だ。


 破裂寸前の風船を押さえつけるように、全力で魔力を注ぎ込む。

 耐えてみせます。

 わたくしは、このオペを絶対に失敗させたりはしません。

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