第2話
秋山智美のアルバイト先は《鈴鳴》という名の喫茶店だった。
場所は駅から徒歩五分ほどの商業区の一角。シックなデザインの外観を持つ二階建ての建物が特徴的だ。
「あれが智美さんがバイトしている喫茶店だね。なかなかお洒落な店じゃないか」
拓真は洒落た雰囲気の建物を見つめた。
智美が今日店に入っていると聞いた皐月は、すぐに本人への聞き込みをするため店へと赴くことを決めた。これに誰が同行するかで五人の騎士は大いに揉め、公正なくじ引きの結果拓真が見事選ばれた。昴はくじ引きに参加せず、五人が火花を散らす様を一人微笑んで眺めていた。
そうして拓真は、道行く人の目に留まるほど上機嫌な様子で喫茶店までやって来た。
店の真向かいの建物の前には二人の男が立っていた。一人は三十代くらいの渋みのある長身の男。もう一人は一回り若い軽薄そうな男だ。
皐月はその内の一人を見るなり、彼らの方へと足を向けた。拓真は不思議そうな顔をしつつも後をついていく。
「おっと……これはお嬢さんじゃないですか」
渋みのある男が皐月を見るなりそう言った。
「お嬢さん?」と、拓真が訝し気な顔を作った。
皐月はくすくすと笑った。
「こんにちは甲斐さん。こんな所で逢うとは奇遇ですね」
警視庁捜査一課の甲斐衛警部補は、観察するような眼差しを皐月へと向けた。
「学校帰りですか? しかし、西楼院高校はここから随分遠いはずですがね。わざわざこんな所まで食事を楽しみに来たんですか?」
「今日は食事目的で来たわけではありません。ここは私の友人のお姉さんが働いている店なのですよ」
「友人のお姉さん、ですか。それはもしや秋山智美のことで?」
「ええ。先日殺害された須崎孝光の恋人です」
甲斐は溜息を吐いた。
「やはり事件のことで来たんですね。そうじゃないかと思った」
甲斐と一緒にいた若い男が、じろじろと皐月を見つめた。
「甲斐さん。誰ですかこの子」
「ああ、お前は初めて会うか。こちらは早水皐月さん。うちの課長のご息女だ」
「課長のお子さん!」
若い男は皐月の素性を知った途端、仰天して向き直った。
「えっと、どうもはじめまして。捜査一課の三崎隆二です。その、お父さんにはいつもお世話になっております」
「はじめまして三崎さん。どうぞよろしく」
「三崎はつい最近一課に配属されたばかりでしてね。軽そうに見えますが、こう見えてなかなかタフな奴です」
皐月は甲斐の顔を見た。
「甲斐さんも智美さんに会いに?」
「そうです。それから店長にも」
「私もご一緒していいですか?」
「構いませんよ。あっちも二度手間が避けられるでしょう」
「ありがとうございます」
「甲斐さん、ちょっと」
三崎は三崎の肩を軽く叩き、少し離れた場所まで引っ張っていく。
「いいんですか? 部外者を連れていくなんて」と、三崎は小声で抗議した。
「三崎、お前は一課に来たばかりだからお嬢さんのことは知らんだろう。うちであの子のことを知らん奴はいない」
「課長の娘さんだから?」
三崎の言葉が「上司の娘だから特別」という意味でないことはすぐに理解できた。問題なのは、早水グループの創業者一族の娘という肩書だった。
甲斐は頷いた。
「それもある。だが、それ以上に彼女を無下にできない理由がある」
甲斐はちらりと背後へ目をやった。
「お嬢さんは大がいくつもつくほどのミステリー好きでな。犯罪の匂いを嗅ぎつけたら首を突っ込むのが日常茶飯事。現場へ行けばお嬢さんがいて、関係者の家を訪ねればお嬢さんがいる。いつだって行く先々で待ち構えているんだ。それが一課の奴にとって見慣れた光景だよ。そして一番性質が悪いのは、事件を引っ掻き回した挙句に最終的には見事に解決してみせるってことだ。お嬢さんの――お嬢さんたちのお陰で解決できた事件は一つや二つじゃ済まない。世間で騒がれたような事件のいくつかは、解決の裏にお嬢さんの力添えがあったんだ」
「冗談でしょう?」と、三崎は半笑いを見せた。
「俺が冗談を言うような性格じゃないのは、もう知ってるだろう。そういうわけで、俺たちもお嬢さんには頭が上がらん。それになによりお嬢さんは、あの早水十三が溺愛する孫娘だからな。十三氏もお嬢さんの活動を支持しているんだ。彼がバックにいるのに逆らう奴はいない」
「課長は止めないんですか? 娘が危険なことに首を突っ込んでるんでしょう?」
「課長はとうの昔に諦めた。期待するだけ損だぞ」
そう言って甲斐は肩をすくめた。
《鈴鳴》に足を踏み入れた皐月を、温かみのある色合いの空間と上質なコーヒーの香りが出迎えた。レンガで彩られた壁を照らす照明。艶のある木材でできたカウンターテーブル。高級感を出しつつ、馴染みやすさがある。皐月はすぐに店の雰囲気を気に入った。
店内に客は二人しかいなかった。男と女が一つテーブルを挟んで向かい合うように座っている。どちらも三十代くらいの外見だ。
カウンターの奥には《鈴鳴》の店長である梨本朝子の姿があった。
「あら、刑事さん。また来たんですね」
店長は甲斐と三崎の姿を見ても、嫌そうな表情を見せなかった。
「何度もすみませんね。今日は智美さんがこちらにいると聞いたのですが、今はどちらに?」
「奥にいます。お客さんも少ないから早めに切り上げてもらっています」
店長はバックヤードへ続く扉を見やった。
「最近ちょっと疲れ気味みたいなんです。須崎さんがあんなことになって……話をしたいならもう少し時間を置いてください。その間私に話せることなら話しますから」
「それはありがたい。事件当日のことを改めて訊きたかったので」
店長は甲斐の後ろに立つ皐月と拓真を見た。
「ところで、そちらの子たちは?」
「私の知り合いで、智美さんの妹のクラスメイトです。友達が事件のせいで元気がないので力になりたいと」甲斐は当たり障りのない説明をした。
「ああ、由布ちゃんのお友達なのね。あなたたちも須崎さんのこと訊きたいの?」
「ええ。微力ながら解決に向けてお手伝いできればと思っています」
拓真は一歩前に進んで麗しい顔を輝かせた。西楼院高校の女子生徒ならこの笑みを見ただけで蕩けてしまうと云われる拓真にとって最大の武器だ。彼は自分の強みをよく理解していた。大概の女性はこれで警戒心を解いてくれるものだと。
「私たちにも事件当日のことについてお聞かせください」
追撃を入れるように、今度は皐月が強者の風格を漂わせながら優雅に微笑んだ。彼女には早水家の血を引く人間が生まれながらに持つオーラがあった。甲斐の目には皐月の背後で光がきらめいているように映った。
「そうね。そういうことなら、私でよければ力になるわ」
店長はじっくり思い出すように語り出した。
「あの日……お昼の一時半を過ぎたくらいだったかしら。須崎さんからお店に電話がかかってきてね。少ししたら店に行くから料理を先に作ってほしいって頼まれたの」
「須崎さんはこのお店の常連だったそうですね」と、拓真が訊いた。
「ええ、開店以来ずっとよ。もう八年になるかしら。七枝ちゃんと二宮くんも、その頃から来てくれてたわね」
店長は男女の客――塚本七枝と二宮亮平へ話を振った。
七枝は、懐かしそうに答えた。
「ここに通うようになったのはあいつに誘われたのが切っ掛けでしたね。あの頃のことは思い出すのも嫌だけど、この店を教えてくれたことだけは感謝してるな」
「あいつとは須崎さんのことですか?」皐月が訊ねた。
「元カノでーす」
軽い調子で返した七枝の態度に、皐月は「なんと」と目を丸くした。
一方、二宮は無言のままコーヒーを口にするだけだった。
「それから二十分くらい経ってから須崎さんが来ました。少し急いでいるような感じでしたね。私が料理を渡すと、あそこの席に座りました」
店長が指し示した位置は、店内中央に近いテーブルだった。
「はい。そこは防犯カメラの映像で確認しました。塚本さんと二宮さんもその時店内にいましたよね?」
三崎が二人に確認すると、揃って頷きを返した。
「うん、私たちもその十分くらい前に来たんだよね。私が来て、その後すぐに二宮くんが来たんだっけ。オーダーストップまでに間に合って良かったよ」
「お二人は須崎さんの様子を見て、何か気づいたことはありませんでしたか?」
「全然」
「さあな」
七枝はそっけなく、二宮は突っぱねるかのように答えた。
「須崎さんが食べている間、私は別の仕事をしていたのではっきりしたことは言えません。ただ、その時に変わったことはなかったはずです」
「その時店内に他のお客はいたのですか?」と、皐月が口を挟んだ。
「須崎さんと七枝ちゃんと二宮くんの三人だけでした。事件のあった水曜日は早く店を閉めるから、大体あの時間になるとお客さんはほとんどいなくなります」
七枝が手を挙げた。
「店長ー。お客さんならまだ二人いたでしょ。オーダーストップぎりぎりに男の人たちが来たじゃない。孝光の後に来た人たち」
その瞬間、店長は困ったような表情を浮かべたことに皐月は気づいた。
「そのお客さんも常連さんですか?」
拓真は何も気づいていない様子で質問した。
「いいえ、初めての人たちよ。三十代くらいの男の人が二人」
「その二人が来てから須崎さんはどうしましたか?」
店長は若干間を置いた。
「ほんの一瞬だけ嫌そうな顔をした気がしたわね。その時は見間違いかなって思ったんだけど……」
「お二人は、その人たちについて憶えていませんか?」
拓真は七枝と二宮を振り返った。
「初めて見る客だなーとしか思わなかったな」
「他の客なんていちいち気にしない」
二人が有用な回答を持たなかったことに、拓真はがっかりした。
皐月は甲斐と三崎の様子を注視していた。二人はただじっと拓真の他の者のやり取りを眺めているだけだった。
「今思えばあのお客さんたちを気にするべきだったわね。そうすればもしかしたら……」
「何かあったんですか?」拓真は店長の言葉にヒントの気配を感じ取り、元気を取り戻した。
「そうね。びっくりしたというか、ええと……」
店長はどう説明すればいいかと悩んでいるような素振りを見せた。
「二人組のお客さんはあそこの窓際の席に座ってたんだけど、なんだか須崎さんの方をちらちらと見ているように思えたわ。何かこそこそと話してもいたし、変だなって気になっちゃって。それから二時二十五分くらいに七枝ちゃんと二宮くんが続けて退店したのよ。それでお客さんは須崎さんとその二人組だけになったんだけど、二時半に須崎さんがちょっとトイレを借りたいって言って奥に向かったわ」
店長が目線で示した先には、トイレに続く通路があった。
「その時は特に何とも思わなかったの。でも、三時が近くなっても出てくる気配が全然なくて。もうすぐ店を閉めるから早く出てくれないと困るなって思ってたら、二人組の片方がトイレの方に向かっていったの。それから何か話しかけるような声が聞こえたと思ったら、突然その人が帰ってきてもう一人に向けて“逃げやがった!”って叫んだのよ」
「“逃げやがった”ってどういうことですか?」
困ったような顔で店長は答えた。
「ええとね……須崎さん、トイレの個室の窓から店の外に抜け出したみたいなの」
想像していなかった回答に、拓真は困惑を露わにした。
「逃げた? トイレから?」
「私も最初意味がわからなかったんだけど、急いでトイレに行ってみたら窓が開きっぱなしになっていて、須崎さんの姿はどこにもなかったわ。他に隠れる場所もないし……」
「それで二人組の客はどうしましたか?」拓真と違い、皐月は平静を保っていた。
「慌てて店から飛び出していったわ。訳がわからなくて呆然としてたんだけど、とりあえず須崎さんに事情を聴こうと連絡を入れたわ。でも、一向に出なかったの。智美ちゃんに連絡しても知らないって言うし……」
店長はふうと大きく息を吐いた。
「それで翌日に警察から須崎さんが亡くなったと教えてもらった、というわけ」
拓真は皐月を見やった。
「皐月くん。今の話を聞く限りじゃ、二人組の客は須崎さんを追っていたように思えないかな? 須崎さんが二人が来た時に嫌な顔をしたのも、その二人が自分を追ってきたと気づいたからだ。それで二人を撒くためにトイレの窓から逃げ出したんだ」
「ああ、確かにそう考えられる」
皐月はそう言いながら、甲斐の顔を横目で見た。
「警察にはその二人組のことは話したんですか?」
「ええ、そちらのお二人に」
店長は甲斐と三崎を示した。
「そうですね。既に伺っております」甲斐は単調に答えた。
「須崎さんが逃げ出し、二人組が追いかけた。その翌日に須崎さんは遺体で発見された。これはその二人組が事件に大きく関与していると見ていいんじゃないかな」
拓真は熱っぽく皐月に向けて推測を語る。しかし、皐月は他に気になることがあった。
「一ついいですか? 先程須崎さんのことで智美さんに連絡したと仰いましたが、その日智美さんは勤務していなかったのですか?」
店長は答えた。
「ええ、あの日は出勤日じゃなかったのよ」
「そうですか」
その時、バックヤードの扉が開いた。長い黒髪をまとめた女がゆっくりとした足取りで扉の奥から現れた。秋山智美だった。
「刑事さん、また来たんですね」と、智美は素っ気なく言った。
甲斐は軽く頭を下げた。
「度々すみません。今、お話しを伺ってもよろしいでしょうか?」
「構いませんけど」と、智美は抑揚なく言った。
店長が心配そうな表情を浮かべた。
「智美ちゃん、まだ休んでいていいわよ」
「いいですよ。何かしていた方が気が紛れますから」
「わかったわ。刑事さん、智美ちゃんと話をするなら休憩室を使ってください。あまり負担をかけさせないでくださいね」
店長は甲斐の顔を真っすぐ見て念押しした。
「ありがとうございます」
甲斐は礼を述べると、三崎とともにバックヤードへ向かう。皐月と拓真もその後に続いた。
バックヤードの休憩室はそこそこの広さがあるが、家具がいくつも置かれていて手狭に感じる場所だった。真ん中に長方形のテーブルが置かれ、入って右手奥にコンロと冷蔵庫が、反対側の壁にはファイルボックスが並べられた木製のラックが設置されている。
皐月を挟んで拓真と甲斐が座り、甲斐の隣に三崎が陣取った。
「そう。由布が無理を言って悪かったわね」
皐月と拓真が自己紹介と訪問の理由を済ませると、智美は申し訳なさそうに言った。
「構いません。友人の頼み事ですから」皐月は拓真に負けないほど蕩けるような微笑を浮かべた。
「スムージーでも飲みます? 二本しかありませんけど」
智美は冷蔵庫を開けると、ブルーベリーのスムージーを二本取り出した。
「それ賄い用ですよね? いいんですか?」と、拓真が遠慮がちに言った。
「私の奢りですから気にしないで」
皐月は甲斐と三崎に視線で訊ねた。二人の刑事は迷うことなく若者二人へ譲ることを決めた。
「では、遠慮なく」
高校生二人はスムージーを受け取ると、早速口をつけた。程よい甘さと冷たさが口の中に広がっていく。
智美は四人の反対側の椅子に腰かけた。
「それで? 捜査に進展はありましたか?」
「残念ながら今のところは何も。それでもう一度事件当日のことを確認したいのです」
「話せることは全部話したんですけどね」智美は苛立ちを表すように、テーブルの上を指で叩いた。
「孝光さんが亡くなってもう一週間経つんですよ。犯人の手がかりの一つくらいは掴めているんじゃないですか? 店長が言っていた怪しい二人組の客のこともちゃんと調べてるんですよね? 店長が言うには、孝光さんがその人たちから逃げていたっていうじゃないですか。私の話なんか聞くよりも、そっちを調べる方が大事なんじゃないですか?」
「勿論ですとも。ただ、我々は何事も余すことなく調べなければなりません。そのためにも、どうか改めて貴女のお話を聞かせてください」
智美は不満を隠そうともせず、大きく息を吐いた。
「話せることはもうないんですけどね。でも、早水さんたちへの説明も兼ねて話しましょう。
あの日、私は休講だったので朝から家にいました。久々にゆっくりできる日だったんです。朝の九時過ぎからずっとネットで動画を見たり資格試験の勉強をしたり……それから十二時頃に孝光さんから一度電話がかかってきました。今度いつ逢えるか予定を確認してきたんです」
「その時、須崎さんは他に何か言ってましたか?」
「いいえ。いつも通りの会話でした。あの人と話したのはそれが最後です」
智美は顔を俯かせた。
「その後はどうされました?」
「一時十五分に家を出て、近くのショッピングモールで一時間ほど買い物をしました」
「車を使って、ですよね」
甲斐は「車」という単語を強調した。
「はい。確認してもらえればわかるはずですけど」
「ええ、駐車場のカメラに貴女の車が映っていていました」
「それならよかったです」
「買い物が終わった後は、すぐに帰宅されましたか?」
「勿論」
甲斐は徐にスマホをテーブルの上に置いた。ディスプレイには喫茶店の周辺地図が映し出されている。
「モールはここにあります。この店からそう遠く離れていませんよね」
「そうですが、それが何か?」
「貴女が買い物帰りにこの近くを通った時間は、須崎さんが店から抜け出したのと同じ頃です。もしや須崎さんを目撃しているんじゃないかと思いましてね」
智美は嗤った。
「まさか! 車の外に誰が歩いているかなんていちいち気にしませんよ!」
「須崎さんは店から出た後、自宅に帰った形跡はありませんでした。検死の結果と併せて考えると、店を抜け出してからあまり時間が経たないうちに殺害されたと見られます。ただ――」
甲斐はそこで一旦区切ると、智美の顔をじっと見つめた。
「須崎さんの遺体が発見された高架下は、日中は近隣住民が通る場所なのですぐに見つかります。つまり、彼は別の場所で殺害されてから、人通りが少なく、暗くて遺体が発見されにくい夜中に高架下へ運ばれたのです。まとめると、犯人は喫茶店からそう離れていない場所で須崎さんを殺害した後、遺体をどこかに隠し、夜に車で運んで遺棄した。我々はそう考えています」
「それで?」
智美は「結局何が言いたいのか」と暗に訊ねた。
甲斐はゆっくり首を横に振った。
「今はまだそれくらいです。今後の捜査で詳細な事実が判明すれば進展があるでしょう。そのときにはまたお伝えに来ます」
「期待して待っていますね。早く孝光さんを殺した犯人を捕まえてください」




