第1話
木曜日の夜明け前、江戸川区の住宅街に住む山岡氏は日課の散歩へ出かけた。
五月下旬の朝の空気は程よく涼しく、六十を超える山岡氏は静かな住宅街をずんずん進んでいく。
彼の散歩コースは決まっている。家を出た後、住宅街を通り抜け、高架下の道を通って自然公園へと向かう。それから公園内を一周してから、同じ道を通って帰宅するのだ。
この日も山岡氏のルーティンは変わらなかった。彼は住宅街で幾人かの知り合いとすれ違い挨拶を交わし、いつも通りに高架下へと辿り着いた。
ただ、この日彼は、普段はない物がそこにあることに気づいた。柱の陰にもたれかかるようにして座り込む一人の男の姿が目に留まったのだ。
山岡氏は最初その男が酔っ払いではないかと考えた。彼の住む住宅街では、酔っ払いが路上で寝込むトラブルがまれに起きていた。今回もその類だと結論づけた。
彼は男に近づき、肩を揺さぶる。こんな所で寝ると風邪をひく、と優しく声をかける。男から反応は帰ってこなかった。今度は強く肩を揺さぶり、先程より大声で男に話しかけた。
男の体がぐらりと傾き、そのままごろりと転がった。男の後頭部が山岡氏の前に露わとなる。髪の毛の一部が赤黒く染まっていた。
山岡氏はそこに至ってようやく男が死んでいる事実に気づき、悲鳴を上げた。
「秋山さん、大丈夫か? どうも気分が優れないようだが」
早水皐月は、クラスメイトの秋山由布の背中に声をかける。由布は一瞬体をびくりと振るわせると、ポニーテールを揺らしながら振り返った。
「ああ、早水さん。少しぼーっとしちゃっただけ」
由布は努めて笑顔で答えたが、どこか強張っていると皐月は見抜いた。
秋山由布は普段快活で、仲の良い友人たちと流行のドラマや楽曲について話し合っている姿を教室で見ることができる。しかし、今日登校してからずっと、由布は沈んだ雰囲気を漂わせていた。友人たちもそれに気づいて何事かと訊ねていたが、由布は単なる寝不足だと回答していた。
由布の顔色は時間が経つにつれて徐々に悪くなっているようであった。彼女と席が近い皐月はこのまま放っておくと良くないことになりそうな予感を覚えた。
そうして昼休みを迎えた皐月は、中庭のベンチに座り空を見上げていた由布に話しかけることを決めたのだ。
皐月は由布の隣に腰を下ろした。
「朝からずっとその状態が続いているぞ。体調が悪いなら無理はしない方がいい」
「大したことじゃないから。心配しなくても――」
由布は喋る途中で、何かを思いついたような顔つきを見せた。
「そうだ。早水さんはさ、その、ミステリーに興味があるんだよね。確か新堂くんたちと《探偵クラブ》っていうグループを作ったって聞いたよ」
「ああ、その通りだ」
早水皐月が筋金入りのミステリーマニアであることは、この西楼院高校において広く知られている事実だ。小説、ドラマ、漫画、アニメ、ゲーム。媒体を問わずあらゆるミステリー作品を網羅しこよなく愛する皐月を、同級生たちは“探偵姫”という渾名で呼んでいる。
その皐月が先のゴールデンウィークに設立したグループが《探偵クラブ》であった。クラスの中でも発言力の強い――とりわけ顔の良い男子生徒を集めて誕生したそのグループは、ミステリーについて語り合うことを目的としている。
「そのクラブってミステリーだけじゃなくて実際の事件の調査もしてるの? 前に小宮くんがそんな話を漏らしていたのを聞いたんだ」
皐月は由布の瞳に期待の色が宿っていることに気づいた。
「普段からそう、というわけではないがな。確かに実際に起きた事件について語り合ったことはある」
「それならさ、私から一つ調べてほしい事件があるの」
「ふむ? もしやそれが君の不調の原因かな?」
由布は真剣な面持ちで頷いた。
「私の姉さんを助けてほしいの」
「君のお姉さん?」
由布はもう一度頷いた。
「そう。姉さん、今物凄く落ち込んでるの。交際していた人が殺されちゃって」
その日の放課後、皐月と由布は再び中庭のベンチに並んで座っていた。
その場にいるのは二人だけではなかった。新たに六人の男子生徒が加わり、ベンチに座る二人を大きく囲むように陣取っていた。
彼らこそ《探偵クラブ》のメンバーである。
日本有数の電機メーカー、新堂重工の創業者一族に名を連ねる新堂拓真。
高名な外科医を擁する大病院の院長の孫である成海修平。
作曲家の父親と女優の母親を持つ、野性的な魅力が売りの指宿征四郎。
敏腕弁護士を父親に持つ相田稔。
西楼院高校の理事長の三男、小宮涼。
彼らは学年屈指の美少年五人で、“探偵姫”に仕える騎士と呼ばれている。それぞれ毛色が違うが、何らかの分野で秀でた才能を持ち、クラス内でもトップクラスの発言力を誇る。
五人の少年は皐月に負けず劣らず羨望と尊敬の的だ。彼らが微笑むだけで、男に耐性のない女はころりと参ってしまうと云われているのは決して言い過ぎではない。実際に由布は彼らを前にして緊張していた。もっとも、浮かれる気はまったくなかった。五人の心が“探偵姫”に向いているのは明白だからだ。
なんにせよ、これだけ多くの優秀な人間が集まったことで由布は期待に包まれた。これで自分の悩みも解消されるかもしれない。
ただ、由布には一つだけ気になる点があった。
彼女は右側へ顔を向けた。隣のベンチに一人の少年が座り、携帯ゲーム機のディスプレイに視線を落としている。音量をオフにして無言でプレイに熱中し、その瞳は爛々と輝いていた。一見すると無関係な第三者だが、彼もまた皐月が呼んだ《探偵クラブ》の一員だ。
能天気で緊張感に欠ける面持ちと、多趣味で突拍子もない言動で知られるクラス一番の変わり者、真砂昴であった。
由布は皐月に目で問いかけたが、彼女は高貴な微笑を返すだけだった。
「さて、それでは話を聞こうか」
皐月が何も問題ないという風に切り出した。由布はそれ以上追究するのを諦め、本題に入った。
「これが姉さん。名前は智美。大学生で、今は江戸川区にマンションを借りて一人暮らししてる」
由布はスマホに保存されている写真を皆に見せた。写真の中で由布と顔の形が似ている長い黒髪を持つ若い女が、ハンサムな男と並んで笑っている。背景はどこかのボウリング場だ。
「わあ、美人さんだあ」
涼が写真を覗き込みながら世辞を口にする。小学生と間違われるほど背が低く言動も子どもじみている涼は、パーソナルスペースも気にすることなく由布と密着しそうな距離まで近づいた。
「隣に映っているのはお姉さんの恋人?」と、稔が訊ねた。
「そう。須崎孝光さん。去年から姉さんと交際していたんだ」
「じゃあ、殺されたってのはこいつか」と、征四郎が言った。
「一見すると軽薄な印象があるが、身なりは悪くない。どういう男だったんだ?」
修平が神経質そうに眼鏡を触りながら訊ねた。父、祖父ともに医者で、理屈っぽく性格に難ありと云われている彼の話しぶりは、簡潔だがあまり感情が籠っていなかった。
「投資家だよ。学生時代に株式投資を初めて、卒業した後に成功して一財産築いたんだって」
「結構やり手だったんだな。そんな奴と秋山の姉貴はどこで知り合ったんだ?」
学年一のスポーツマンで、クラスで一番背が高い征四郎が訊ねた。
「姉さんがバイトしてる喫茶店の常連さんで、何度か話をするうちに気が合って付き合うことになったんだ。私も会ったことあるけど良い人そうだったよ」
「で、その野郎が殺されたのはいつだ?」
「先週木曜の朝に江戸川区の高架下で死体が発見されたって」
皐月は先週のニュースでその事件の記事を目にした記憶があった。夜が明ける頃に、散歩をしていた近隣住民が遺体を発見したという内容だった。
「警察がそのことで姉さんの家に来た時、私もたまたま一緒だったの。須崎さんが死んだって聞かされて姉さん凄くショックを受けてた。私は二、三回会っただけだからそこまで親しくなかったけど……それでもびっくりしたな。次の日も、刑事さんが須崎さんのことをいろいろ質問してきて……今思うと姉さんのこと疑ってるように見えたよ」
「失礼な訊き方で申し訳ないんだけど、お姉さんには何か疑われる理由があるのかい?」と、拓真が慎重に訊ねた。
「私が知る限りじゃ姉さんと須崎さんは仲良かったよ。喧嘩した話も全然聞いたことないし。ついこの前も須崎さんとデートに行ったばかりだもん。ああ、でも――」
そう言って由布は何か思い出す素振りを見せた。
「死体が発見された前の日に須崎さんが喫茶店に来て、そこでトラブルがあったらしいんだ。そのことで刑事さんが姉さんに何か質問したかったみたい。詳しく教えてもらいたかったんだけど、姉さんに追い出されちゃったから……」
「成程」
皐月は優雅に足を組み、思考を巡らすように目を細めた。
「なんで須崎さんが殺されたのか全然理由が思いつかないんだ。姉さんもこのところ元気がなくて、ろくに話をしてないし……どうしたらいいかわからなくて」
「そして、私たち《探偵クラブ》ならなんとかできるかもしれない、と考えた」
由布はおずおずとした様子で請うた。
「その、お願いしてもいいかな? 私自身は報酬とか出せないけど、お父さんに頼めば――」
皐月は首を振った。
「《探偵クラブ》は趣味の集まりに過ぎない。私たちはただ関心のある問題に対して、満足がいく答えを導き出せるまで取り組むだけだ」
「僕たちは皐月ちゃんについていくだけだからね。報酬はいらないよ」
涼が言うと、他の男たちも笑顔で肯定を返した。
皐月は言った。
「君の頼みを引き受けた。私たちでこの事件を調べてみるとしよう」
それから由布は皐月たちを残して一足先に下校した。
残された皐月たちは向かい合い、依頼内容について話し出した。
「殺人事件か。それも秋山の家族が関係者だったとはな」修平が軽く息を吐いた。
「これだね。ネットのニュースサイトにも記事が上がってるよ」
涼がスマホでネットニュースを検索して、該当する記事を開いた。
「ええと、江戸川区で男性遺体発見。亡くなったのは個人投資家の須崎孝光さん、三十一歳。死因は頭部を強く殴られたことと考えられる。警察は殺人事件とみて捜査。遺体の発見現場近くでの目撃証言はなし、か。続報は今のところ出てないね」
「秋山から教えてもらった須崎の家からは離れてるな。だが、秋山の姉貴が住んでるマンションからは近い」
征四郎は由布が帰る前に書き残したメモを片手に指摘した。
「車を使えば遺体を捨てに行くことはできるね」と、涼が相槌を打つ。
「指宿と小宮は智美さんを疑ってるのかい?」
稔が問いかけると、二人は揃って苦笑した。
「そういうつもりじゃねえけどよ。ただ、刑事ドラマとかだと交際相手ってのは真っ先に疑われるもんだろ?」
「あくまで可能性の話だよ。さっきの話じゃ警察も一応その線を探ってるみたいだし」
そこで拓真が疑問を呈した。
「そういえば秋山さんの実家は、今回の事件を既に知っているのかな?」
「まだ知らないと思うよ」
ここまで一度も話に参加していない昴が突然話に割り込んできた。彼は携帯ゲーム機の電源を切ると、鞄にしまった。
「秋山さんのお父さんはすごく厳格な人なんだって。税理士をしているんだけど、少々子どもの生活に干渉しがちなところがあるのが欠点らしいんだ。娘が一人暮らしをしている時に犯罪に巻き込まれたなんて知ったら、実家に連れ戻そうとするんじゃないかな」
「話ちゃんと聞いてたんだ。ずっとゲームしてるだけだと思ってた」と、涼が呟いた。
「やけに詳しいんだな」
修平が意外そうに眉を上げて訊ねた。
「秋山さんのお父さんが勤めてる税理士法人に知ってる人がいてね。世間話の傍ら話してくれたんだよ」
「税理士の知り合いなんていたのか?」
「まあね。前にいろいろとあって」
昴は大したことないという風に答えた。皐月を除く一同はそれを聴いて何とも言えない顔をした。
真砂昴は彼らの中で捉えどころのない人間というのが共通認識だった。漫画やアニメが好きなごくありふれた学生。その一方で物事へのこだわりが強く、一度興味を抱いたものはとことん極めなければ気が済まない。その上能天気な性格で突拍子もない発言をすることがあり、誰もが彼を変わり者だと認めていた。
しかし、この変わり者こそが《探偵クラブ》の男性メンバーの中で、最も皐月に評価されている男であることも事実だった。
日本経済を支える早水グループ。その総帥たる早水十三が溺愛する孫娘が皐月だ。容姿端麗、頭脳明晰。家柄、性格、才能と持たざるものは一つもないと言っても過言ではないほど恵まれた人間。そんな少女に最も近い人間が昴だった。
二人がどのような出逢いをしたのか少年たちは知らない。皐月に訊いても面白そうにはぐらかされ、詳細を知ることができなかったからだ。彼らが知っているのは、皐月が過去にある殺人事件に遭遇し、正体不明の探偵が事件を解決する様を目にしたという真偽不明の噂話だけだった。その探偵と、皐月が認める少年が同一の人間であるかは定かではない。
ただ一つ確かなのは、皐月の心を射止めたいと願ってやまない五人の美少年たちにとって、昴は誰よりも警戒すべき対象であるという事実だけだ。
「ところで皐月くん。先程は敢えて口にしなかったけど――仮の話として、もし智美さんが犯人だとしたらどうする?」
拓真は話題を変えるために、気にかかっていたことを訊ねた。
皐月はその問いに対して肩をすくめた。
「その時が来たら考えるさ」