終幕 それは輝ける星
※魔王視点
今日も今日とて、私の妃は忙しそうだ。むしろ近頃は私より多忙なように見受けられる。
城の中を歩き回り、手あたり次第に見かけた魔族に突撃していく。時折半泣きで呼ばれることはあれど、随分と魔界に慣れてきたのか楽しそうに過ごしている。
エステル曰く、「魔王様の妃として認めていただけるよう、魔族の皆さんと仲良くしたいのです」とのこと。
(別に認めてもらう必要などないのだがな)
エステルは勘違いしているようだが、私は魔王と呼ばれていても魔界を統べているわけではない。
魔族は力の強さによって上位下位が決まるので、弱い者は必然的に上に傅くことになる。上が命じれば下は逆らうことは出来ない。ただそれだけの関係だ。
魔族といっても多種多様な種族がひしめき合っているので、いちいち全部が全部を管理などしていられない。各種族ごとに勝手に生きていっている。人間が狼や熊を統率しないのと同じことだ。
ここは、力だけがすべてという世界。
そう考えると、無力な人間であるエステルの今の立ち位置は異質だ。
本来ならば、魔界においては人間は下位も下位。魔族は基本、無力な人間を蔑んでいる。
それでも周りがエステルにかまうのは私の妃だというのは勿論あるだろうが、愛くるしい子猫にでも見えているのだろう。好奇心旺盛で、無謀で、愚かで、素直な様はいっそ憎めない。馬鹿な子ほど可愛いというやつである。
本人に言うと傷つくだろうから言わないでおくが。
子猫扱いだろうと、愛されていることに変わりはないのだから。
(ただ、私との時間より他の奴らといる方が長いというのは気に食わない)
先程もそろそろエステルを促して休もうとしていたのに、自動人形に呼ばれた。「ちょっと行ってまいりますね」と慌ただしく出て行ってしまって、まだ戻らない。
「やっとお姫様が君を選んでくれたっていうのに、まだ仏頂面かい? お姫様に放置されてるのが気に入らない?」
仕方なくソファで面白くもない本を読みながらエステルが戻ってくるのを待っていたところに、不快な声が耳に届いた。
毎度の如く好き勝手に現れる相手に思わず舌打ちしてしまう。
「よくも顔が出せたな」
「何を怒っているんだい。むしろ僕は感謝してもらいたいところだよ? 悩む君のお姫様に最適な助言者を送り、苛立って勇者を殺しかねない君をフォローするために勇者に手を貸して、これ以上ない程に働いていたと思うんだけどね?」
鋭い視線を投げかけた先、勇者一行の中にいた白いローブの魔導士が佇んでいた。フードを取り払えば、相変わらず記憶に残りにくい凡庸な顔をした女が現れる。
その顔が意地悪く、にたりと笑った。
「人間に手を貸したら均衡が崩れるんじゃなかったのか」
「魔王にただの人間をけしかけただけで放置する方がバランス悪いだろ。僕は魔族にも人間にも公平であろうとしているのさ」
人間から見れば碌でもない茶番を仕組んでいる神は適当なことを嘯く。悪びれもせず肩を竦め、勧めてもいないのに勝手に向かいのソファに座った。
エステルが好んで置いているテーブルの上の甘い菓子に手を伸ばし、遠慮も見せずに口の中に放り込んでいる。食料摂取など必要としないはずなのに、だ。
「何が公平だ。貴様は贔屓だらけだろう」
「まぁ実際はね。勝手に増えていく人間より、自分の手で作った息子とその嫁が可愛いのは当然じゃない?」
「神がそれでいいのか」
「神が万人に公平だなんて、救いが欲しい人間の幻想さ。世界は理不尽に満ちていて平等じゃない。善人ほど貧乏くじを引くし、悪人だって幸福になれる」
底の見えない黒い目を細め、意地悪くも優しくも見える謎めいた微笑を浮かべた。
「だから君のお姫様も、人間を見捨てたって幸せになるのさ。人間の世界では、魔王に洗脳されて魔女と化した姫になっちゃっててもね」
眉根を寄せて睨みつければ、「僕に怒らないでよ」とひらひらと手を振られた。睨んだところで当然怯むこともなく、「これ美味しいね」と言いながら皿の上の菓子をもう一つ口に放り込む。
いちいち突っ込むの面倒なので、残りの菓子を堂々と懐に入れて持ち帰ろうとしているのは見ないことにした。止めたところで「今回の駄賃代わりだよ」とでも言いそうだ。
「馬鹿正直な子だよねぇ。黙っていれば悲劇のお姫様ぶっていられたのに、わざわざ憎まれ役になるなんてね。思わず笑っちゃったよ」
実際にあの場で体を震わせて笑っていた神が面白そうに目を細め、口の端を吊り上げる。
神にとっては笑い事なのだろうが、私にとっては信じられないことだった。
(折角こちらから手放してやろうとしたのに)
勇者は悪い人間ではない。あの状況においても、エステルを救おうとする意志に一度も迷いは見せなかった。
あのままエステルが勇者の手を取って人の世に戻れば、時の王はエステルを褒賞という名目で勇者に捧げたことだろう。実際には魔王に魅入られた娘など厄介払いしたかっただけだとしても、あの勇者はきっとそれに気づかない。
否、気づいたとしてもきっとエステルを引き受けた。
そこには善人らしい同情もあるだろうが、命を懸けて自分の手で助け出した可憐な娘を愛しく思う気持ちも芽生えただろう。
だからあそこで人の世に帰っても、きっとエステルは人として幸福に生きられた。
魔王を選び、今までの常識が通じない魔界で過ごすよりも。そうすれば、人間どもに魔女と罵られることもなかったというのに。
それなのに、エステルは私を選んだ。
『私は、魔王様とだから幸せになれるのです!』
迷いなくまっすぐに私を見据え、叩きつけるように告げられた言葉。
私がいいのだと。
私でなければ、いけないのだと。
そう言い切られた時に胸の奥に込み上げてきた感情は、言葉になんてできない。
胸の奥が焼かれているのかと思うほど熱くなった。あの時は本気でこの世界に私とエステル、二人だけでいいとすら思った。
「こういうことが起こるから、やめられないんだよね」
「……悪趣味だな」
こちらは真剣だったと言うのに、茶化した口調で言われると苛立ちが湧いてくる。
「古今東西、人の恋路ほど面白いものはないよ?」
苦々しい顔で責めたこちらの文句などどこを吹く風と言わんばかりに軽口を叩き、神は立ち上がった。やっと帰る気になったらしい。何しに来たんだ。
だが踵を返したものの、ふと何かを思い出したように足を止めてこちらを振り向いた。
「ところで人間の恋愛に疎い魔王に教えておくけど、人間は結婚すると蜜月旅行に行くものだよ。お姫様もそろそろ魔界に慣れてきただろうし、連れていってあげたら?」
「蜜月旅行?」
「誰にも邪魔されずに夫婦仲を深めましょうってやつさ。魔界温泉巡りをおすすめしとくよ。開放的な露天で嫁の裸を堂々と拝めるなんて最高だよ。お姫様、小柄だけど胸大きいし」
「殺すぞ」
ふさけたセリフを発した奴を射殺さんばかりに睨みつければ、ははっ、と声を上げて笑われた。神の体は逃げるように足元に出来た闇の中へと一気に沈み込んでいく。
反射的に怒りのままに投げつけた本は、今回は一緒に吸い込まれて行った。閉じる前の穴からは「痛っ」と聞こえたので、うまく当たったらしい。ざまあみろ。二度と来るな。
「――おまたせしました、魔王様」
神の姿がちょうど呑まれて消えたところで、部屋の扉が開いた。
既に寝間着姿でガウンを羽織っているエステルがカヌレを伴って入ってくる。私の傍まで来て、テーブルの上の空になった皿を見て空色の目を瞠った。
「あら? お菓子、食べてしまわれたのですか?」
「……ああ」
食べたのは私じゃないが、神が来て勝手に食べて、更に根こそぎ持ち帰ったと説明するのが面倒で適当に頷いておいた。
「ナイト様、昔から甘い物お好きですものね」
エステルはそれを疑いもせず、微笑ましいものを見るように垂れ目の目尻を更に下げた。二人きりになると名前で呼び、甘やかな笑顔を向けてくれる。
それだけでこちらの苛立ちを溶かしていく。
だが実のところ、甘い物が好きかと言われるとどちらでもなかったりする。エステルが幼い頃、使い魔に手ずから菓子を与えるのが可愛くて食べていたに過ぎない。
そういえばエステルには、私が使い魔と繋がっていたと言ったら慄いていた。
その際、エステルが私の名を付けたことになると言ったら、大きな瞳を零れ落ちんばかりに開いて動揺していた。
『私が魔王様の名付け親なのです!?』
親と言われると複雑だが、そういうことになるか。
ひどく申し訳なさそうにしていたものの、「菓子の名前にされたわけじゃないからいい」と言えば、「ショコラにしていなくて本当に良かったです」と真顔で言われてしまった。
一歩間違えたら自分の名前がショコラになっていたのかと思うと、ぞっとしない話だ。
その後で、使い魔が私と繋がっているのならカヌレを通してエステルの行動が筒抜けなのかと、羞恥に真っ赤になった顔で責められた。
『私、カヌレの前でも着替えていたのですけれどっ。それも見られていたのですか!?』
それには慌てて「見てない」と弁解した。
使い魔とはいえ、名前が違うからか昔の使い魔のように私の方にカヌレが見たものが流れてくるわけじゃない。見ようと思えば見えるが、そこまで無粋な真似はしていない。
しかしあれ以来、カヌレは着替えの際は部屋から放り出されているようだ。信用されていないわけじゃないだろうが、それでもエステルには思うところがあるらしい。
(裸など見ようと思えば、いつでも見られるものだと思うが)
今となっては、すべてが私のものであるのだから。
「そういえば、人間は婚姻すると旅に出るものなのか?」
ソファから立ち上がり、エステルの腰に手を回してやんわりと寝室へと促しながら訊いてみた。カヌレは私達に付いてくることなく、ソファの足元におとなしく丸くなる。
神に言われるがままに行動するのは気に食わないが、出来る限り人らしい幸福を与えてやりたいのだから今回は乗せられてやることにする。
エステルは寝室の扉を抜けながら、波打つ銀の髪を揺らして小首を傾げた。
「蜜月旅行のことでしょうか?」
すぐにその言葉が出てくるあたり、人間の世界では一般常識らしい。
「行くか? 魔界温泉巡り」
「おんせん?」
「温かい泉だ。魔界にあるマグマが活性化している場所では、地表に近い地下水脈が熱された状態になるのだ。それを利用して湯として使う……簡単に言えば、露天にある風呂だな」
「露天にあるお風呂!?」
温泉という概念を知っているとは思えなかったので説明すれば、なぜか顔を引き攣らせて私を見上げてきた。
エステルは入浴が好きだから珍しい風呂は喜ぶかと思っただけに、意外な反応に眉を顰める。
「それはつまり、野外で裸になる、ということでしょうか……?」
「風呂というからには、裸になるだろう」
愕然とした表情で言われたが、普通はそうだろう。何をそんなに驚くのかわからない。
眉を顰めて首を傾げた私を見て、エステルがぐっと喉を詰まらせた。顔を真っ赤に染めて、引き留めるように私の手を掴む。
「ナイト様っ。野外で裸になるなんて、人間の世界では、ろ……露出狂というのです! 変態行為ですッ!」
…………魔界でも、ただ普通に野外で裸になるような輩は露出狂だな。
「露天風呂はちゃんと外から見えないようにされている」
「そうなのですか? 泉が温かいのですよね? 泉を囲むように塀が作られているのですか!?」
人間の世界にも温泉はあったはずだが、エステルの国周辺にはなかったようで想像が出来ないらしい。多分、エステルの頭の中では泉全体が湧き立っている様を想像しているのではないだろうか。
そもそも、人間の姫が外で肌を晒すこと自体、想像を絶するほどありえないことなのか。
そう考えれば、この動顛っぷりもわからなくはない。
「もし万が一塀がなかったとしても、私がなんとかする。エステルの肌を他の奴らの目に晒すような真似をするわけがない。私はおまえを守る騎士なのだろう?」
生憎と私に人間の騎士道精神などは欠片もないが。だがエステルにとってはそうだというのなら、せめてエステルの前でぐらいはそれを貫いてやってもいい。
「騎士?」
しかし、エステルは私の言った言葉を繰り返して不思議そうに私を見つめた。言われた言葉が理解できないと言いたげに、長い銀の睫毛を揺らして何度も目を瞬かせる。
「違うのか? おまえがそう名付けたんだろう」
「え? ……いえ、ナイト様のナイトは騎士の方ではなくて、夜のナイトなのですけれど」
しばしの沈黙の後、ようやく思い至ったと言わんばかりに言われた言葉に今度はこちらの方が愕然とした。息を呑んで、思わず問い返す。
「夜?」
「初めて出会った時が夜でしたから。それと満月みたいに綺麗な目をしていると思って、ナイトにしたのですけれど」
エステルは焦ったように「言っていませんでした?」と困惑してみせた。聞いたか? 聞いていないと思うが。
(ああでも、そういえば昔そんなようなことを聞いた覚えもあるな)
幼い声が「お月さまみたいな目ね」と言っていた。
そうなると、騎士だと勘違いしていた自分の胸の奥がもぞ痒くなってくる。
なるほど、これが羞恥心というやつか。歪みそうな口元を歯を噛み締めることでやり過ごしていると、不意に隣でエステルが小さく笑った。
「私が魔王様の名前を付けてしまったことは申し訳なく思うのですが、実は今は素敵な名前を付けられたとも思っているのです」
私の羞恥に気づいた様子もなく、エステルが目を三日月形に細めて見上げてくる。
「私のエステルという名前、異国の古い言葉で『星』という意味なのだそうです」
ゆっくりとベッドに腰かけ、細い指が夜の闇に包まれた空にある星を指し示した。
窓の向こう、夜空に浮かぶのは小さな光。太陽のように闇を裂いて余すところなく照らし出すような強い光ではない。
それでも夜の闇に覆われた空の中では、それは淡く光を放つ。
夜空の中でこそ、美しく輝く。
エステルが小首を傾げれば、星屑を集めたような銀の髪が揺れる。
「星は夜があってこそ輝けるものですから、私達はとてもお似合いだと思いませんか?」
満面の笑みを浮かべて両手を広げたエステルをまじまじと数秒見つめ、つられて破顔すると強く胸の中に抱き締めた。
*完結*
お付き合いいただき、ありがとうございました!
またどこか別の物語でお会い出来ましたら幸いです。




