9.名前のない大臣
その少女には名前がなかった。
故に誰もが、
大臣様、あるいは異名として『逆行の魔女』などと呼んだ。
背は低い。見た目も幼い。アイスブルーの髪と、じっとりとした双眸が特徴的で、ぱっと見、可愛らしいだけの子供に過ぎない。しかしその実、知を統括する魔法省のトップに当たる人物である。
彼女は今、薄暗い評議室で一人、大きなテーブル上に敷かれた地図と睨めっこをしていた。見下ろすには座高が足りず、椅子の上に立っている。
「大臣様」
そんな彼女に声をかけたのは、大人びた黒髪の女性であった。磨いた黒曜石のように鋭い眼光をしている。随分と対照的な見た目の二人である。
「サンガツか。あの男はどんな様子じゃ」
「アリス・コルベット指導のもと、現在はスライムを狩りつつ力を蓄えているようです」
「うむ。重畳」
頷きつつ、地図上北西の大陸に、チェスで言うポーンの駒を置いた。
この世界には大別して、逆五芒星型の配置で五つの大陸が存在する。花弁のように咲くそれらは形状や気候こそ違えど、内に向かって伸び、中心で合流する点については共通していた。
大臣は椅子から飛び降りると、続いては海を越え南西の大陸の外側にキングを、内側にクイーンの駒を置いていく。
それを、黒曜石の眼光がじっと見つめている。
「考察してみぃ」
大臣が挑発的に笑いかけた。
微細に過ぎる変化だったが、どことなくムッとした表情をして、サンガツという名の女性は地図上を睨んだ。
「ポーンは十中八九あの作者でしょう。忌々しく軟弱な作者など、歩兵にすらなり得ないでしょうが。しかしハイファンタジー領にキング、ローファンタジー領にクイーン、ですか」
「分からぬか」
「はい、分かりません。私の知るキングやクィーンは唯一にして絶対ですから。紛い物に関心はありません」
「相変わらず偏屈なやつじゃなぁ」
呆れつつ、大臣は頑張って腕を伸ばし、今度は地図の中心にビショップの駒を置いた。五つの大陸が唯一交わる地点である。
「学園領にビショップとは、ますます解せません」
「何故じゃ」
「その場所には、愚か者しかいませんから」
冗談の言えない性格だ。サンガツは大真面目に答えている。
「私に言わせれば、この転生転移領以外はポーンで十分でしょう。北東は恋愛等という虚妄に囚われた怠け者の楽園。南東は血と鋼による粛清の嵐で疲弊しきっています。そして南は空想に取りつかれた者ばかりで話になりません」
なかなかどうして過激な物言いをする。ただ、それぞれの大陸の内情を鑑みるに、彼女の言葉にも一理あった。
残り四つの大陸のうち警戒すべきは、何よりもまず南西のハイ及びローのファンタジー領である。そこにはチートキャラのような世界を揺るがす存在も多く生息しているのだ。俄然、警戒せねばならない。
「その三大陸は確かにそうじゃろうが、南西の両ファンタジー領も同様かのう?」
サンガツはやはりにべもなく答える。
「然りです。命じていただければ、『魔』であろうが『国』であろうが、王を騙る俗物どもの首級を直ちにあげてまいります」
「王の数が一番多いのは、この転生転移領なんじゃがなぁ……」
実際、ここ共王国ライジングはうんざりするほどの王を擁している。
「我々は良いのです。それに、それぞれが知る王は唯一人」
「もう分かったわい……」
頑固というか、愚直な相手とはあまり真面目に討議すべきではなかった。悪い意味ではない。仕える王に絶対の忠誠を誓っているサンガツだから、そうなる。
「はい。では、最後に一つお願い申し上げてもよろしいでしょうか」
「……なんじゃ」
「頭を撫でさせてください」
「去ね!」
「はい」
「いや待て」
「はい」
「結界の維持を怠るでないぞ」
「はい」
最後に、サンガツの下肢へと視線を落とした。何やら彼女の動きに合わせて揺らめいている物体がある。
「ずっと気になってたんじゃが、その腰にぶら下がってるのは何じゃ」
「プリティー大臣ちゃん人形です」
「明朝貴様を縛り首に処す。行け」
「はい。ではまた今夜ベッドで」
「明朝と言ったんじゃばかー!」
サンガツは顔色一つ変えず、きびきびとした動きで部屋を後にした。
これっぽっちのやり取りに反して、疲弊感は怒涛のようであった。若干息切れしている。
「まったく、馬鹿ではないが、阿呆なやつじゃなぁ……」
それに、外部者にはやたらと厳しい。取り分け自分たちをエタらせてきた作者には、燃え盛らんばかりの憎悪を抱いている。
部下の管理も楽ではない。
ポーンの頭を突きながら、大臣は一人ボヤいていた。
「アリス・コルベットか。嫌な役回りを押し付けてしまったのう」
確認し得た共鳴者の中で、ただ一人非好戦的な態度を示したのがアリスという少女だった。大抵の者はサンガツのように作者を嫌悪し、復讐を口走るものだ。
「うまくやってくれると良いのじゃが……」
あの頼りなさそうな少年の肩には、二つの世界の命運がかかっていた。
さて、渦中の人、折野ツヅルに戻る。
ツヅルは今日も今日とてスライムと戯れている。かれこれ一週間になるだろう。当初は全力の棒撃二発でやっと仕留めていたスライムが、今では軽く一振りだ。攻撃だけではない。守備、素早さ、体力、どれもが目覚ましく向上している。これが成長というものか。
スライムを倒すことで経験値を得て、レベルアップしているのかもしれない。ファンファーレが鳴ったりステータスを確認できたり、そんな機能はなさそうだが強くなっているのは確実であった。
コテージを囲むスライムの数も、残すところ四分の一程度か。
(このペースなら、今日中に終わるかもしれないな)
保護者としての立ち位置にあったアリスも、今日は食料の買い出しに出ている。もうツヅル一人でも大丈夫だろうと一任した訳である。その信頼に応えるため棒を振り続けた。それは、このスライムたちのためにもなった。
そして、夜のとばりが降りた。
帰宅したアリスは両手いっぱいに買い物袋を抱えていた。
出迎えたツヅルはその荷物を受け取り、キッチンへと運ぶ。
「遅くなってごめんなさい。たまたま知人に会って、話し込んじゃって」
「構わないよ」
「すぐご飯にしますね」
アリスの料理はお世辞なしで美味い。疲労した心身に活力を与えてくれる。
「あ、ツヅルさん」
「ん?」
リビングに戻ろうとしたツヅルを、彼女は引き留めた。
そして、スッと右手を伸ばし、
「頑張りましたね」
そう微笑んで、頭を撫でた。
外のスライムをあらかた倒しきった、そのことを言っているのだろう。
出会った直後ばい菌扱いされたのも、今や懐かしく感じる。
「アリス。俺が言うのもなんだけどね、甘やかしすぎだよ」
「ふふ、飴と鞭ですよ。明日をお楽しみに」
「……怖いな」
彼女がそう言うからには、単なるハッタリではなく、実際に何かあるのだ。
幸せそうに料理する彼女を尻目に、ツヅルは明日の心配を始めていた。
次回更新は2/8です!