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それでも僕の悔しさが簡単に晴れる事は無かった。友達が一人もいない奴に情けをかけられるなんて最低の屈辱だと、僕はその後しばらく寝るまでに何度もあの時の光景を思い浮かべながらそのまま朝を迎えていた。
だからなのかもしれない。その更に数日後、僕はその時の事を友達に話してしまった。何気なさを装って話したつもりではあったけど、思いの外友達はその話題に食いついてきて、それが他グループにも出入りしている奴の耳に入ってしまった時、それは既に遅かった。
うかつだった。
みんな欲していたんだ。何となく、表だって非を見せる事の無かった永森君に対して非難の目を向ける事が出来なかったクラスメイト達が欲していたのは情報だった。
別に情報を手に入れたからってみんなで永森君を攻撃したり、いじめたりする訳じゃない。ただみんな何となく、態度が今までよりもそっけなくなったり、会話をする時目線を外したりする回数が増えるだけだった。
こんなのいじめじゃねえし。
誰もがそう思ってそれをやる。無視だってしてないし、攻撃だってしてない。嫌がらせだって勿論してない。ただみんなから、ちょっと嫌われてるだけ。癪に障るなあって、思われてるだけ。でもみんな度胸が無いからそれを表だって言えないし、そんな素っ気ない態度だって何かきっかけが無ければできない。それが無いと出来ないから。きっかけが無い状態でそれをしてしまうと、今度は自分が浮いてしまうから。だからみんな永森君を一人浮かせて、楽しんでいた。いや、ひょっとしていたある意味ではホッとしていたのかもしれない。
クラスで一人、浮いている奴のポジションを確立させておいたら自分がそこに転落する事は無い。浮いている奴のポジションと言うのは決まって一人なのだ。
だからみんなある意味では永森君を安心して嫌っている節があった。そしてそのきっかけになったのが僕の話しであった事に他ならない。
正直な所、僕は小さな罪悪感に苛まれていた。
休み時間中、甲斐甲斐しく色んなクラスメイト達に喋りかけに行く永森君を見ていると少し胸が痛くなった。永森君は毎時間、必ずと言っていいほどクラス内を流浪の民のように彷徨った後、長居する事が出来ない教室に諦めを覚えたのか残り数分となった頃合いになって外に出て行く。彼が一体どこに向かっているのか、後をつけた事なんかないし正直直視したくもないと思っていたから僕はそれを意識を外へと向け続けていたけど、でもやっぱり本当に気にならないかと言えばそれはウソだった。
永森君が教室内で見せる表情はとても普通だった。幾つも形成されている会話の輪の中に入って相手の話しを聞いて、自分の意見を言おうとすると他の奴に介入されて、もし上手く話しきる事が出来たとしても曖昧な空気を以ってかき消されてしまう。そんなやりとりの連続の中、誰も永森君の事を見ようとはしない。輪の中に入って来る時も誰も何も言わないし、輪の中から去っていく時も誰も何も言わない。そして輪から去ってしまった後も、誰もその事について何も言わない。特別無視をしている訳は無い。みんな朝会う時、帰り間際には挨拶を交わすのだ。クラス内においての連絡事項なんかもちゃんと耳を傾けるし、細かい文房具なんかを忘れてしまった時快く貸してくれる永森君に対してありがとうと、感謝だって言う事も出来る。でも永森君が話す言葉には皆が無関心だった。それはある意味での、本当の空気のような存在なんじゃないかと思った。
無視というのはある意味では究極のお節介だとも思う。何故なら本来人は人を完璧に無視することなんてできないのだ。話しかけられれば否でも言葉が耳に入って来るし、視界にだってその存在が入りこんでくる。それでもなお無視をするというのは逆に相手に対して神経を使っていると言う事なのだ。でも無関心というのはどうだろう?
ちゃんと挨拶だってするし言葉だって交わす。でも全く相手に興味が無い。相手の話す言葉だったり行動だったりを、認識はしているけど、でも興味が無いからという理由で斬り捨てる。空気化させている。これはある意味無視よりも残酷な事なんじゃないかと僕は思った。意図的にじゃないと無視は出来ない。でも最初は意図的だったかもしれないけど、だんだんと作りあげられて行く無関心と言う名の自然的な空気化。
誰も永森君という存在に興味が無い。
何となく嫌い、なんとなくむかつく。いちいちアイツの事で感情を煩わされているのがバカらしい。じゃあ考えるのをやめちゃおう。別にあんな奴どうだっていいし。無視するのだって神経使うから、ニュートラルな気持ちでどうでもいいと認識してしまおう。
無関心。
そういった感情が永森君の存在を消しゴムで消し去ってしまうみたいに、いなくならせてしまう。無視もある意味では消しゴムを使っているのかもしれない。その人の存在を強制的に無くならせてしまう、そんな方法だ。でも消しゴムで文字をこすればカスが出る。それが無視をする人間をかえって際立たせてしまう要因でもあるんだろうけど、でも永森君にかけられた消しゴムにカスは出ない。きっと永森君は白いペンキを塗られているんだ。
僕はそう思った。そしてみんなに白いペンキを持たせてしまった原因が僕自身にある事を知っているから、僕は彼の事に対して無関心を貫き通す事が出来なかった。
だからなんだろう。僕は教室からいなくなった永森君を追っていた。
「どこいくんだよ星野」
後ろからかけられた声に僕は「トイレ」とだけ言って教室から出た。会話の中から外れたら当然声をかけられる。「どうした?」とか、「どっか行くのか?」とか、それが普通の筈だ。でもその普通を享受できていない永森君の事を想像すると、やっぱり胸が少し痛かった。
誰にも何も言われず、笑顔をちょっと陰らせて輪の中から出て行く永森君に対して僕は同情していたいのかもしれない。
そんな自分の感情を胸に抱きながら、僕は永森君を追って廊下を歩くのだった。
●
永森君はトイレにいた。一人で便器の前に立ち用を足している所を見て、僕もその隣りに行く事を決心した。
「やあ星野君」
隣りに立った僕を見て永森君は気さくに声をかけて来た。
なんでそんなに笑ってられるんだよ。
ホントはムカつく程悲しい気持ちで一杯なんだろ?
じゃないと、なんで僕がここに来たか分からないじゃないか。
永森君の顔を見て、何となく何故自分がここに来てしまったのか分からなくなってしまった僕はそのまま挨拶を返すと黙りこんでしまった。静まり返ったトイレの中で、放射線を描いた水滴が便器に当たる音だけが響く。
「その後どうだい?」
そんな嫌な静けさを切り裂くようにして永森君は口を開いて来た。だがこれもまた彼らしい言葉選びではあった。
「クラスメイトとは上手くやれてるかい?」
また同じような事を言って来た彼の言葉に僕はあからさまにむっとした顔を作りあげた。さっきまで浮かび上がっていた同情心は影を潜め、変わりに浮かび上がったのは三日前と同じ、いじわるな心だった。
「上手くやれてるも何もないだろ」
お前どこに目付けてるんだよ。
そう罵倒してやりたい気持ちを抑え込んで、ズボンを引き上げて言った。
「俺は何の問題もないって。友達だっているし問題だって起こしてない。何の問題もなく普通に過ごしてるさ」
僕のその言葉に永森君は笑顔で頷いた。
「じゃあ良かった」
一体何なんだ? こいつは?
無性に腹が立った。ズボンを上げて洗面所で手を洗っているその姿すら腹立たしくて仕方が無かった。
なんでそんなに分かんないんだよ? なんでそんなに気付けないんだよ? 細かい所ばっかりに意識をやってて肝心なところが全然見えてない。だから……
「だからダメなんだ」
「え?」
思わず飛び出してしまった言葉に僕は慌てて口を噤もうとしたが遅かった。
「ダメって、なにが?」
永森君に見つめられて、僕は硬直していた。一体なんて言葉を返せばいいのか分からなくて、でもその怒りを抑える事は出来なかった。
「いくらなんでも鈍すぎるだろ」
こんな事を言うつもりじゃなかった。ちょっとした同情心から少し声でもかけて話し相手にでもなってやるか位の安易な気持ちでしかなかった筈だ。それなのに僕の心はこんなにも荒れていた。
「お前自分が周りからどう見られてるか気付いてないのかよ?」
言ってはいけない事を言ってるという自覚はあった。でもだからと言ってそれが歯止めになっているかと言えばそれは別だった。
「いつまでも一人だけ君付けで呼ばれててさ、おかしいなって思わないのかよ? いっつも色んなグループの所に出たり入ったりして、誰も自分の話し聞いてくれてない事に気付かないのかよ? 誰も自分の事を気にしてないのに気付かないのかよ? みんなお前が嫌いで、どうでもいいんだよ。だからいじめられたりはしないけど、でもみんなそれすらどうだっていいんだ。無関心なんだよ。別にお前の事なんかいたっていなくたってどうだっていい。みんなからそう思われてるんだ」
一息にはなった言葉のナイフ達は次々に永森君へと突き刺さり、彼を傷つけていた。僕は何故か肩で息をして、全力疾走し終わった後みたいな疲労感を覚えていたけど、でもそれ以上に衝撃的だったのは永森君の表情だった。
僕の言葉を聴いている内にどんどん顔を変形させて言った永森君は最終的に目に涙を溜めていた。でもその涙を零してしまう事だけはしたくなかったのだろう。さっきまで見せていた笑みを全てかなぐり捨てたような表情をしながら、彼は無言でトイレから出て行ってしまった。
正直な所、僕自身、自分の行動に驚きを隠せていなかった。
ふと中学の時の思い出が頭の中を過ぎり、不快感を覚える。そして永森君の今にも泣き出しそうな顔を思い浮かべ嫌な気分になった。
最低だ……
僕は洗面台の縁に手をかけ、蛇口から出続けている水で顔を洗うのだった。
●
永森君はその日、そのまま早退してしまった。気分が悪いと言って直接保健室に行って、そのまま帰ってしまったらしい。
教室には永森君早退の報を受けてちょっとした動揺が走ったけど、それもすぐに無くなっていた。別に興味ないのだ。アイツがどうなろうと知ったこっちゃないと、そんな雰囲気がクラス内には充満していた。誰も僕と永森君が何かあったかなんて詮索はしてこない。そもそも僕達の間に何かが起ころうと、そんな事は関係ないのかもしれない。だけど僕はそんなクラスの雰囲気を余所に、ぽっかりと空いてしまった隣りの席を見つめながらため息を吐くのだった。
何が無関心だよ……
僕は僕に苛立ちを込めた声をぶつける。
全然無関心なんかじゃないじゃないか。今あいつが目の前にいないにもかかわらず、僕はアイツの事で頭がいっぱいじゃないか。
僕はその後の一日を、何事もなく過ごしいつも通り終える筈だったその一日を、森永君に囚われっぱなしで過ごす事になった。
時間が経てば経つほど生まれて来る感情はより醜悪な物となり、描かれるあの時の情景も醜い物となって僕を覆いこんでいた。
『いくら何でも鈍すぎるだろ』
最低だった。僕は本当に、最低の事を言ってしまった。もしかしたら明日も学校に来ないかもしれない。あいつは鈍いからこそ、気付けなかったからこそあんな状況でも学校にこれたんだ。それが僕の一言によって気付かされたら……
考えれば考えるほど気持ちが落ち込んだ。
もしかしたら自分のせいで一人、クラスの中から不登校生を作りあげてしまったかもしれないと思うと胃がキリキリと傷んだ。
自分自身小心者だなと思う。でも僕は森永君を傷心者にさせてしまった訳で、そんな僕がアイツに対して罪の意識を覚えない事の方がよっぽど胸が痛むんだろうなと思うと、やっぱりこの痛みは今日一日、夜の眠りと共に一夜を明かさなきゃいけないんだと覚悟を決める事が出来た。
そして迎えた翌日。
殆ど眠る事の出来なかった一晩を過ごした僕は目の下に大きなクマを作りながら学校へと登校した。まだ朝の七時五十分で、部活動で朝連をしている生徒くらいしか校舎にいないその時間帯に僕は教室にいた。明け方になってから眠気が襲って来た事から二度寝を恐れた僕がとった最善の行動だった。でもその最善の行動が最悪の行動の引き金にもなっていた。
「おはよう、星野君」
教室に颯爽と入って来たのは永森君だった。彼は僕の顔を見ても何一つ顔色を変える事無く話しかけて来た。
「今日はずいぶん早いね。何かあったの?」
永森君の問いかけに僕は何て言葉を返したらいいのか分からず、正直うろたえていた。きっと客観的に見れば見るほど愚かにうろたえていんだろう。そんな僕を見た永森君はクスっと笑うと爽やかな(つまり僕にとっては気持ちの悪い)笑顔でこう言って来た。
「もう気にしてないよ」
永森君はそう言い切った後、付け加えた。
「でも忘れもしないけどね」
僕は何とも言えない表情を作りながら、曖昧に頷く事しか出来なかった。窓から入り込んでくる朝日が教室の中をキラキラと輝かせている中、僕は一人沈黙を強いられ続けていた。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか……知らないのだろう。なにしろ森永君なのだ。気付けなくて、鈍くて有名な、それでいて細かい所ばかり指摘して来る事で皆からやっかまれている森永君が、こう言って来た。
「星野君にちょっと頼みたい事があるんだ」
森永君は拒否をする事の出来ない僕に対して、言った。
「今日のホームルームでしたい事があってさ、それの手伝いをしてくれないかい?」
僕は不承不承頷くしか無かった。




