2. 歯車の狂い
その日、執務室は息が詰まるほど静まり返っていた。
机の上には、一枚の書類。赤い封蝋に帝国の紋章、それはオーストリア=ハンガリー帝国から突きつけられた最後通牒だった。
ソファに深く身を沈めた少女――ミリツァは、その文面を何度も頭の中で反芻していた。開け放たれた窓からは、風一つ入ってこない。じっとりとした熱気が、見えない鎖のように肌へまとわりついていた。
机に向かうセルビア首相の手は、激しく震えていた。七月の猛暑の中カチ、カチ、と壁の柱時計が規則正しい音を刻む。その一音ごとに、残された時間、心が削り取られていくようだった。
額から滴る汗を拭うこともせず、ペン先を紙に走らせる。最後の一画を書き終えると、彼は崩れ落ちるように深く息を吐いた。
「……これでいい。」
誰へともない呟き。
「要求は、ほぼ全て受け入れる。これなら……」
震える声。
「これなら、きっと戦争は避けられる。」
それは哀しいほどに、自分自身へ言い聞かせるための言葉だった。
遠くで、重く鈍い雷鳴が響いた。嵐が近づいている。
やがてミリツァが、寂しげに小さく笑った。
「……まだ分からないの?」
首相が痛々しく顔を上げる。ミリツァは最後通牒を指差した。
「元より、許す気なんてないんだよ。」
首相の肩が小さく震えた。
「ミリツァ様……そんなことは……」
言い返そうとするが、言葉が続かない。彼自身、痛いほど理解していたのだ。これを受け入れたとしても、オーストリアはいくらでも新たな開戦の口実を作り出すだろうということを。
滲んだ汗と涙が、受諾文書の端に落ちて小さな染みを作った。
「私は……ただ、この国と国民を守りたいだけなのだ……」
悲痛な声が茹だるような部屋に響く。
その時だった。
部屋の奥。薄暗い窓際に静かに佇んでいた人物が、ゆっくりと振り返った。
この熱気の中でも、重厚な外套をしっかりと羽織った長身の女性――エカテリーナは、静かな眼差しで二人を見つめていた。
「……私が、動きましょう」
低く、よく通る声だった。しかし、その一言だけで執務室の空気が激変する。首相が弾かれたように顔を上げた。
「エカテリーナ様……?」
エカテリーナはゆっくりと机へ歩み寄り、広げられたヨーロッパの地図を見下ろした。指先がセルビアをなぞり、そのまま北の国境線を滑る。
「……ロシア帝国として同じ民族同じ正教の此処を見捨てることが無いことは、彼方も解っている筈」
「未だ確証が持てて居ないだけ——それなら、切っ掛けを生み出せば良い」
ミリツァは眉を寄せた。
「……動員するつもり?」
再び、窓の外で雷が小さく鳴った。エカテリーナは静かに頷く。
「国境へ軍を集める。それだけで十分よ」
ミリツァは勢いよく立ち上がった。
「待って。軍の再建はまだ終わってないでしょう? 極東での傷から、完全に立ち直ったとは言い切れない。もし、ドイツまで動いたら――」
エカテリーナはその言葉を遮らなかった。全て聞き終えた上で、静かに答える。
「ええ。だからこそ、戦わせる訳には行かない。」
彼女は窓の外へ視線を向けた。遠くの空だけが、嵐の到来を告げるように黒く淀んでいる。
「軍を動かすのは、戦争を始めるためではないわ。戦争を始めさせないため。」
その声に迷いはなかった。
「ロシアが立つと示せば、ウィーンもベルリンも冷静になる。剣を抜く前にもう一度、考えるはずよ。」
ミリツァは何も答えない。その横顔には、拭いきれない不安が浮かんでいた。
「……本当に、そう思う?」
エカテリーナは静かに微笑んだ。
やがて彼女は、部屋の隅に控えていた自身の随員へ向き直る。
「本国へ通達。南西方面軍の動員準備を開始しなさい。」
随員は一瞬だけ息を呑み、それでも深く一礼した。
「……はっ。」
ウィーン。シェーンブルン宮殿の執務室には、酷く重苦しい沈黙が満ちていた。
窓の外では、あの日から雨が止む気配を見せない。灰色の雫が幾重にもガラスを伝い、老いた皇帝の横顔を濡らすように映し出していた。
執務机に向かうのは、フランツ=ヨーゼフ1世。
八十を超えたその背は僅かに丸まり、幾多の苦難を生き抜いてきた皺が深く刻まれていた。スイスで妻を失い、原因も解らず一人息子を失い、そして今また、次の帝国を担うはずだった甥までも失った。
机の上には、ベオグラードから届いた一通の文書。セルビア王国からの回答書だった。
「……セルビアは、要求の大部分を受諾した。」
老皇帝は掠れた声で呟く。その眼鏡の奥の瞳には、凍り付くように深い怒り、そして疲弊が宿っていた。
元より答えさせる気のない要求。会議の際でも自ら決めたにも関わらず、一部の条項は特に厳しいとすら感じた。
その予想通り、セルビアは第五、六項を国際会議に委ねるとした——それが、ウィーンとベルリンが描いた筋書きだった。
壁際に立っていたレオポルトが、静かに歩み寄る。既にその瞳に一切の揺らぎは無く、強い決意に満ちていた。
ヨーゼフは静かに目を閉じる。
セルビアがどこか一つでも拒絶すれば、即座に交渉を打ち切り、軍を動かす。……最初からそう決まっていた。セルビアがどれほど歩み寄ろうと、ハプスブルクの決断が変わることは、無い。
「……レオポルトよ。これで、賽は投げられたな」
「はい、陛下。」
レオポルトの声は、冷徹なまでに静かだった。
「ドイツからの全面的な支援の約束——白紙委任状の件は、既に各国に通達されています。我ら帝国が取るべき道は、あの国を解体し、二度と脅威とならぬよう叩き潰すことだけです。」
レオポルトは老皇帝の目を見据えた。
「これは交渉ではありません。我が帝国が……ハプスブルクという家が生き残るための、不可避の開戦なのです。」
「……ふ。」
老皇帝は小さく息を漏らした。
自らが突きつけた最後通牒という名の開戦予告。その結末が、ついに目の前にやってきたのだ。
皇帝の瞳から迷いの光は消え失せ、ハプスブルクの長として運命を受け入れる覚悟だけが宿っていた。
「万事が望ましい方向へ行かねば、我々は滅びるだけだな。」
老皇帝は呟き、一枚の羊皮紙を引き寄せた。
そこには、全人民に向けた布告の題字が記されていた。
それは帝国内十一の言語に訳され、皇帝の——帝国の意志を全臣民、そして欧州全体へと知らしめることになった。
『|An meine Völker!《我が諸民族へ!》』
一週間後、サンクトペテルブルク。
帝都へ戻ったエカテリーナは、休む間もなく執務室へと足を運んでいた。豪奢なアレクサンドロフスキー宮殿の廊下を、エカテリーナは足早に進む。ベオグラードでの威嚇を本国と連動させるため、彼女は急ぎ帰還したのだ。
皇帝の執務室の前に差し掛かった時、重厚な両開きの扉が開いた。
中から出てきたのは、陸軍の軍服に身を包んだ将校――ヤヌシュケヴィチ参謀総長だった。彼は顔面を蒼白にし、酷く強張った表情のままエカテリーナに一礼すると、足早に廊下の奥へと消えていった。
何か、酷く冷たい風が吹き抜けたような気がした。
エカテリーナは僅かに眉を顰め、開かれた扉の中へと足を踏み入れる。
「……陛下」
声をかけた先。広大な執務机の向こう側に、ロシア帝国皇帝——ニコライ二世は座っていた。
いや、深く椅子に沈み込み、項垂れていたというべきか。温厚な顔立ちには深い疲労の色が濃く滲み、たった数日の間に何歳も老け込んだように見えた。
「エカテリーナか……」
ニコライは虚ろな目で彼女を見上げた。その手元には、先ほどの将校が置いていった分厚い書類――巨大なロシア帝国の軍事鉄道ダイヤグラムが広げられていた。
「ベオグラードより戻りました」
エカテリーナは机の前へ進み出る。
「セルビアはオーストリアの要求をほぼ呑みました。ウィーンがそれでも軍を動かすというのなら、予定通り我々も南西方面軍のみを動員します。ドイツ帝国を刺激せぬよう、あくまでオーストリア国境にのみ軍を並べ、威嚇するのです。そうすれば――」
「エカテリーナ」
ひどく掠れた声が、彼女の言葉を遮った。
ニコライは、弱り切った手で机の上の書類を指差した。
「……それは、不可能だそうだ」
「……今、何と?」
エカテリーナの瞳が僅かに見開かれる。俄には信じ難いような事だった。
「何故ですか。ただ南西の部隊へ、国境への移動を命じるだけではありませんか。計画書はあるはずです。」
「私もそう軍部に問うた。だが……我が国に『オーストリアだけを牽制する』ような器用な動員計画は、最初から存在しなかったのだ」
ニコライは両手で顔を覆い、絞り出すように言った。
「彼ら曰く、我が国の動員計画は、すべてが連動した巨大で精緻な一つの『機械』だという。行き先を分けることなどできない。南西方面に兵を向かわせれば、軍事ダイヤのシステム上、自動的にドイツ国境へも全軍が向かうことになっていると」
エカテリーナは息を呑んだ。つまり、オーストリアだけを牽制するための「部分動員」というカードは、この巨大な国家機構においては幻想に過ぎなかったのだ。
「では、ドイツ国境へ向かう列車だけを止めるよう、命じれば——」
「……止めれば、軍事ダイヤ全体が致命的な大混乱を起こし、数ヶ月は軍が一切動かせなくなるそうだ。もしその隙にドイツに攻め込まれれば、我が国は抵抗すらできずに蹂躙される」
執務室に、鉛のように重い沈黙が落ちた。
ベオグラードでの、あの悲壮な決意。「だからこそ、戦わせない」とミリツァに告げた自分の言葉が、虚しく脳裏をよぎる。
戦争を避けるために動こうとしているにも関わらず、戦争を想定した動きしか、選べない。
戦わせないための軍事力。威嚇のための動員。
そんな人間の高度な外交的意志など、冷徹な「システム」は微塵も考慮してはくれない。一度ボタンを押せば、歯車は全開で回り出し、破滅的な総動員へと一直線に進むしか設定されていなかった。
「……我々に残された選択は、二つしかないそうだ」
ニコライの呟きが、重い部屋の中に響く。
「同胞のセルビアを見捨て、『何もしない』か。それとも……『総動員』のボタンを押すかだ」
長い沈黙が流れる。
やがてエカテリーナはニコライ2世の机の横を一歩ずつ、まるで事実を受け止め切れていないかの様に窓辺へ歩み寄った。
そして窓の外一面に広がる白樺と菩提樹の庭を見つめ、静かに目を閉じる。
「……承認するのですか?」
「……あぁ」
誰も動かない。まるで聞き間違いであってほしいと願うように。
ニコライ二世は振り返り、もう一度告げる。
「全面動員を、許可しよう」
エカテリーナは一瞬窓の外の空を見上げ、直ぐに俯いた。そして足早に部屋を後にする。
何時も通り丁寧に扉を閉じた。その広く豪壮な廊下には、エカテリーナのみ。何時もよりも速い足音だけが、頭に響く。
「……これは、戦うためではない。」
それはまるで、祈りのようでもあった。
「——分かってくれるでしょう。」
しかし、その声には確信はなかった。胸の奥底では、拭いきれない不安が静かに広がっている。もし、この動員が。もし、この決断が。
誰かに「開戦の意思」と受け取られたなら――。
エカテリーナはその考えを振り払うように歩調を更に速める。
「……どうか。」
しかし、その祈りに応える者は、誰もいなかった。




