↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

1. サラエボ事件

歴史とは、勝者が記すものだと言われる。

だが、私はそうは思わない。

歴史とは、人々の選択の積み重ねである。


その一つ一つは小さく、取るに足らぬものに見える。だが幾千、幾万と積み重なれば、それはやがて一つの時代となり、一つの国家の運命となる。

そして時に、その運命は世界そのものを揺るがす。


人は言う。

第一次世界大戦は、一発の銃弾から始まったと。

確かに、一九一四年六月二十八日、サラエボで放たれた銃弾は、一つの帝国の皇太子を殺めた。

 

だが、あの銃弾だけで世界が燃え上がるほど、歴史は単純ではない。

欧州長い歴史の中、皇族の暗殺、国境紛争のようなのは少なくは無かった。

 では、何故、サラエボ事件が?

 

火薬庫は、それより遥か以前から築かれていた。

その始まりを語るならば、時は一八七一年まで遡る。


普仏戦争の終結。

ヴェルサイユ宮殿の鏡の間において、一つの帝国が産声を上げた。

ドイツ帝国。

長らく分裂していた諸邦は、一つの王冠の下に統一され、欧州に新たな列強が誕生した。

その誕生は、長く保たれてきた勢力均衡を大きく揺るがした。

しかし、その帝国を率いた宰相。オットー・フォン・ビスマルクは、勝利の熱に酔うことはなかった。

彼は知っていた。

勝者とは、最も多くの敵を抱える者であることを。

ゆえに、彼は戦争ではなく外交を選んだ。複雑に張り巡らされた同盟。慎重に保たれる均衡。

誰一人として軽々しく剣を抜けぬよう、欧州は繊細な糸によって結び合われていた。


皮肉なことに、その複雑さこそが平和を支えていたのである。

しかし、永遠に続く均衡など存在しない。

やがて時代は移り、為政者は変わる。

築かれた糸は一本、また一本と断たれ、新たな野心がそれに取って代わった。


軍拡競争。植民地競争。民族主義の高まり。

誰もが平和を望みながら、誰もが戦争への備えを進めていた。

世界は静かに、確実に火薬庫へと姿を変えていく。


そして、一九一四年六月二十八日のサラエボ。一発の銃声。

その瞬間、幾十年にもわたり積み重ねられた選択は、誰にも止められぬ奔流となって世界を飲み込んだ。


だが――。


もし。


国家そのものに意思があったなら。


彼らは何を見て、何を思い、何を守ろうとしたのだろうか。


これは、人々の歴史ではない。


国家たちが歩んだ、もう一つの歴史である。


 一九一四年六月二十八日のベルリン。

執務室には静かな時間が流れていた。

 

窓から差し込む夏の日差し。机の上に積まれた書類。

そして、湯気を立てる一杯の珈琲。

「今年も暑くなりそうですね。」

宰相の何気ない一言に、ゲルマニアは苦笑する。

 

「夏は嫌いではない。軍の演習も捗る。」

そう言って珈琲を口に運んだ、その時だった。

コンコン。

 「失礼します!」

返事を待たず扉が開く。飛び込んできた参謀の顔色は青ざめていた。

「何事だ。」

「至急、ご報告があります。」

室内の空気が張り詰める。

 

「申せ。」

参謀は一瞬だけ息を整え、静かに告げた。

「本日、サラエボにて――」

「オーストリア皇位継承者、フランツ・フェルディナント大公殿下が暗殺されました。」

 

……

部屋が静まり返る。

ゲルマニアはカップを机に戻し、小さく息を吐く。

「……そうか。」

その反応は、驚くほど冷静だった。

「犯人は。」

「セルビア系民族主義者とみられています。」

 

「オーストリアは激怒するでしょうな」

 宰相が呟く。

ゲルマニアは窓の外を眺めた。

「最後通牒で終わる。」

「多少騒がしくはなるだろうが、それだけだ。」

誰も異論を唱えなかった。

 

 欧州では、小国同士の紛争など珍しくもない。今回もまた、その一つに過ぎない。――と誰もが、そう思っていた。


 雨は、止む気配を見せなかった。灰色の空から降り続く雨粒は、宮殿の窓を静かに打ち付ける。大広間には重苦しい沈黙だけが満ちていた。部屋の中央に安置された二つの棺。オーストリア皇位継承者、フランツ・フェルディナント大公。そして、その妃ゾフィー。


皇族たちは皆、言葉を失っていた。

悲しみなのか、怒りなのか、それとも現実を受け入れられないだけなのか。

誰にも分からない。

窓際に立つレオポルトは、ただ静かに棺を見つめていた。拳は固く握られている。

 やがて彼はゆっくりと目を閉じる。

「……殿下。」

その一言だけを残し、踵を返した。

静寂を破るように扉が開き、そのまま勢いよく廊下へと出る。

足音だけが石造りの廊下へ響き渡る。向かう先は、一室。

宮殿の中で最も騒がしい部屋だった。扉越しにも怒号が聞こえてくる。

レオポルトは迷うことなく扉を開いた。

「セルビアへ最後通牒を!」

「待て!背後にはロシア帝国がいる!」

「だからといって、このまま引き下がるつもりか!皇位継承者が暗殺されたのだぞ!」

「今ここで何もしなければ、帝国の威信は地に落ちる!」


「威信だけの問題ではない!」

地図を指し示した一人が声を張り上げる。

「セルビアの勝利と受け取られれば、南スラヴの民族運動は勢いづく!クロアチアも、ボスニアも、不穏分子が立ち上がるぞ!」

「帝国の分裂すらあり得る!」


「しかしロシアが総動員すればどうする!」

「我々だけでは耐えられん!」

「だからこそドイツだ!」

その言葉に、部屋の空気が変わった。

「ベルリンは支援してくれるのか……?」

「分からん。」

「支援がなければ、セルビアとの戦争はロシアとの戦争になる。」

「だが何もしなければ帝国は内側から崩壊する。」

 

沈黙が落ちる。誰もが理解していた。どの意見も間違ってはいない。

そして、どの選択にも帝国の命運が懸かっていることを。


その時だった。

「――続けろ。」

低く、よく通る声。全員が振り返る。

入口にはレオポルトが立っていた。室内は水を打ったように静まり返る。

レオポルトは一人ひとりの顔を見渡した。

外務大臣。参謀総長。陸軍大臣。財務官僚。

 

皆、その表情には焦燥と疲労が浮かんでいる。

レオポルトは静かに口を開いた。

「諸君の言葉は、全て正しい。」

 誰も反論しない。

「帝国の威信を守らねばならない。」

「同時に、帝国を戦火で滅ぼすわけにもいかない。」


「ならば、答えは一つだ。」

 彼は地図の北を指差した。そこは、ベルリン。

「私が行く。」


 一同が息を呑む。

「ドイツの意思を、この目で確かめる。」

 外務大臣がゆっくりと立ち上がった。

「……どなたをお連れになりますか。」


「外務省から二名。参謀本部より一名。」

 短く告げる。

「それで十分だ。」


 反対する者はいなかった。否、できなかった。

 今この場で最も必要なのは議論ではない。

 帝国が進むべき道を照らす答えだった。


レオポルトは帽子を手に取り、再び雨の降る廊下へ歩き出す。

重い扉が閉まる。

 

雨音だけが静かに宮殿を包んでいた。

その日の午後、一行を乗せた列車はベルリンへ向けて出発する。

まだ誰も知らない。この旅が、一つの帝国だけではなく。

やがて欧州全土の運命を動かす一歩になることを。


 ベルリン。重厚な蒸気機関車は、ゆっくりと駅へ滑り込んだ。

白い蒸気がホームを覆い、人々の姿を一瞬だけ霞ませる。

列車が完全に停止すると、一人の男が静かに降り立った。それは黒い外套を羽織ったレオポルト。その後ろには、外務省と参謀本部から選ばれた数名の随員が続く。

長旅の疲労は隠せない。

それでも、その歩みが鈍ることはなかった。


駅舎を出ると、すでに馬車が待機していた。

御者は帽子を取り、一礼する。

「レオポルト閣下。ゲルマニア閣下がお待ちです。」

「案内を。」

短く答え、馬車へ乗り込む。


車輪が石畳を叩く音だけが静かに響いた。ベルリンの街は、今日も変わらぬ活気を見せている。

商人が声を張り上げ、子どもたちが走り回る。市民たちは、数日前に起きたサラエボでの事件を知ってはいても、それが自分たちの日常を変えるものだとは考えていなかった。


馬車はやがて帝国官邸の正門前で止まる。巨大な鉄門がゆっくりと開かれた。

「ようこそ、ベルリンへ。」


玄関前には、一人の女性が立っていた。

ゲルマニア。

出迎えは最小限。軍楽隊も、儀仗兵もいない。

そこにあったのは、長年同盟を結んできた国家同士だからこその簡素な歓迎だった。

「急な訪問にもかかわらず、お時間をいただき感謝します。」

レオポルトが一礼する。ゲルマニアは静かに頷いた。

「君が来ることは分かっていた。」

その一言だけで十分だった。


二人は並んで官邸の中へ歩き出す。

廊下には誰一人いない。案内役の秘書官も、扉の前で足を止める。

「以後は、お二人だけで。」


重い扉が閉まる。執務室には、二脚の椅子と一枚の地図。

そして、湯気の立つ珈琲が二つ。ゲルマニアは向かいの席を指した。

「掛けてくれ。」


レオポルトは腰を下ろす。しばらく沈黙が続いた。

互いに言葉を探しているのではない。

何を話すためにここへ来たのか、その答えを双方とも理解していたからだ。


やがてゲルマニアが口を開く。

「……フランツ・フェルディナント大公殿下の件、心より哀悼の意を表する。」

レオポルトは静かに目を閉じた。

「感謝する。」

再び沈黙が流れる。


ゲルマニアは珈琲を一口飲み、静かにカップを置いた。

「結論から言おう。」

レオポルトは何も言わない。

「セルビアをどうするつもりだ?」

「……。」

 

「国家の威信は理解しています。」

「皇位継承者を失った以上、何もしなければ帝国が揺らぐことも。」

ゲルマニアはそこで言葉を切った。そしてもう一つ、確認するように問いかける。

「だが、」

 ……

「許すという選択肢は、あるか。」

 執務室が静まり返る。レオポルトは答えない。ただ、机の上で握った拳が白くなる。ゆっくりと視線を上げたその灰色の瞳には、悲しみと怒り、そして決意だけが宿っていた。ゲルマニアは、その目を見つめる。数秒。やがて、小さく息を吐いた。

「……失礼」

「今の質問は撤回しよう。」レオポルトはなおも沈黙を保つ。ゲルマニアはそれ以上、セルビアについて尋ねることはなかった。


「……そうだな」

そしてレオポルトは、ゆっくりとゲルマニアの目を見据えた。

「単刀直入に聞こう。」

「我々が最後通牒を送った場合――」

一拍置く。

 

「君は、隣に立ってくれるか。」

 

執務室は静まり返った。窓の外では、夏風が木々を揺らしていた。


ゲルマニアは答えない。静かに立ち上がると、壁に掛けられた欧州地図の前まで歩く。指先がセルビアをなぞり、そのままロシア、フランス、そしてイギリスへと移る。

「セルビアを討てば、ロシアが動く可能性がある。」

「その先にはフランス。そして、――イギリス。」

 

レオポルトは黙って聞いている。ゲルマニアは振り返る。

「それでも、セルビアを討つというんだな。」

レオポルトは短く答える。

「……ああ。」

「セルビアだけでない、クロアチア、チェコ、ポーランド。一つの前例を示せば全て続く」

「何もしないでいれば、帝国は内側から崩れてゆくだけ。」

「私は、それだけは許せない。」


ゲルマニアはその目を見つめる。その瞳に迷いはなかった。だから彼女は、小さく頷く。

「分かった。」

「ドイツ帝国は、オーストリア=ハンガリー帝国を全面的に支持しよう。」

 

レオポルトは静かに目を閉じる。ゲルマニアは続ける。

「貴公が剣を抜くというのなら。」

「私は、隣に立とう。」

 

「……感謝する。」

それだけを残し、立ち上がり扉へと向かう。ドアノブに手を掛けた、その時。

「レオポルト。」

静かな声が背中を止めた。振り返る。ゲルマニアは窓の外を見たまま言った。

「最後通牒は送っておくように。」

 

「……。」

「国際社会に、帝国が外交による解決を試みたという事実を残すべきだ。」

レオポルトはしばらく黙っていた。そして返答をせずに再び扉へと向かう。

 それを見たゲルマニアは薄く笑いながら再び口を開く。

「……内容が何であれ、な」


 レオポルトはゆっくりと目を閉じる。

振り返ることなく、部屋を出た。


 そして、誰も居ない廊下の中、低く落ち着いた声で呟く。

「……無論、そうするとも。」


 

 官邸を後にしたレオポルトは、随員を先に駅へ向かわせた。一人、ベルリンの街を歩く。雨は既に止んでいた。

 

 石畳には雨上がりの水溜まり。パン屋の前では焼き立ての香りが漂い、新聞売りの少年が今日の号外を声高に売り歩く。母親は買い物籠を抱え、職人たちは仕事場へ急ぐ。子どもたちは雨など気にも留めず、笑いながら広場を駆け回っていた。レオポルトは立ち止まる。その光景を、ただ静かに見つめる。子どもの一人が転び、友人たちが笑いながら手を差し伸べる。

 何気ない日常。平和そのものだった。

 

 やがて駅員が声を掛ける。

「閣下、お時間です。」レオポルトは返事をしない。最後まで子どもたちから目を離さなかった。そして静かに踵を返し、列車へ乗り込む。

 

 ベルリンは遠ざかっていく。窓の向こうでは、子どもたちはなお走り続けていた。


 石畳を叩く車輪の音だけが、静かに流れていく。

 レオポルトは窓の外から目を逸らした。その瞳に映るのは、ウィーンだった。

額縁を見つめ涙を流す陛下、会議室に響いた怒号。幾つもの声が頭の中で交錯する。


「……何が、正解なのだろうな。」

 その問いに答える者は、どこにも居なかった。


 ウィーンでは、雨は止む気配を見せなかった。

 薄暗い執務室。窓ガラスを伝う雫を、レオポルトは黙って見つめていた。机の上には、開かれた地図。そして、一通の封筒。

 部屋は冷え、雨の音のみがその場を満たしていた。

 

 誰へともなく呟く。

「何もしなければ帝国は揺らぐ。」

「動けば、多くの命が失われるかもしれない。」

 

 雨脚が強くなる。

「国家とは、難儀なものだ。」

静かに目を閉じる。思い浮かぶのは、棺の中で眠るフランツ・フェルディナント。

 

「お前なら、どうした。」

当然、答えは返ってこない。長い沈黙。やがてレオポルトは机へ歩み寄り、手を伸ばす。

 赤い封蝋に、帝国の紋章。

「……無論。」

 

「お前の死を、決して無下にはさせないさ。」

 

 未だ窓の外では、雨が降り続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。