第49話 黒板のない授業
49話です。
夜明け前の王都は、まだ薄青かった。
石畳には昨夜の露が残り、朝日を受けて白く光っている。
広場の中央。
昨日まで子どもたちが石で書いた問いは、役人によってすべて消されていた。
「どうして」
「本当に?」
「他には?」
跡形もない。
石畳は新品のように磨かれ、昨日まで何もなかったような顔をしている。
役人たちは胸を撫で下ろした。
「終わったな。」
一人が言う。
「ええ。」
もう一人が答える。
「文字を消せば済む話でした。」
その瞬間だった。
市場の入口で、小さな笑い声が上がる。
「おじさん。」
魚屋の前に立った少年が言う。
「どうして魚は朝が安いの?」
魚屋は思わず答える。
「昼になると鮮度が落ちるからだ。」
「じゃあ、昨日売れ残った魚は?」
「塩漬けにする。」
「どうして?」
魚屋は口を開き、少し考え、それから笑った。
「腐る前に食べられるようにするためだ。」
「なるほど!」
少年は満足そうに頷き、走っていく。
魚屋は仕事に戻ろうとして、ふと気付く。
自分は、ちゃんと説明していた。
怒鳴らずに。
命令せずに。
理由を話していた。
「……なんだ、今の。」
隣の八百屋が苦笑する。
「授業じゃねえか。」
その一言に、二人は顔を見合わせた。
笑った。
しかし、その笑いはすぐに消えた。
向かいの肉屋でも。
パン屋でも。
薬草屋でも。
同じような光景が始まっていたからだ。
「どうして、この薬は苦いの?」
「どうして、この布は冬に売れるの?」
「どうして、この橋は石で作るの?」
質問。
また質問。
さらに質問。
誰も石畳には書かない。
誰も黒板を使わない。
だが、王都中で授業が始まっていた。
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役所では朝から怒号が飛んでいた。
「消したはずだ!」
上役が机を叩く。
「全部消したんだぞ!」
書記は額に汗を浮かべながら答える。
「はい。」
「ではなぜ増える!」
書記は震える声で言った。
「文字ではありません。」
「……何?」
「会話です。」
部屋が静まり返る。
「子どもたちが質問すると……」
「大人が答えています。」
「その大人にも質問が返っています。」
「止まりません。」
上役は信じられないという顔をした。
「禁止しろ!」
「何をでしょう。」
書記は恐る恐る聞き返す。
「質問をだ!」
「市場でですか。」
「そうだ!」
「魚の値段を聞くことも。」
「……。」
「薬の飲み方を聞くことも。」
「……。」
「橋の長さを聞くことも。」
「……。」
上役は何も言えなかった。
質問だけを切り分けることは、できない。
生活そのものだからだ。
⸻
礼拝堂では司祭が一冊の古い本を開いていた。
若い修道士が駆け込んでくる。
「司祭様!」
「学校だけではありません!」
「教会でもです!」
司祭は顔を上げる。
「どういうことだ。」
「子どもたちが説教のあとに……」
修道士は息を整えた。
「『なぜ隣人を愛するのですか』」
「『なぜ赦すのですか』」
「『赦せない時はどうするのですか』」
「と。」
司祭は静かに目を閉じた。
その問いは、間違っていない。
間違っていないからこそ、難しい。
⸻
夕方。
私はいつものように王都を歩いていた。
誰も私を呼び止めない。
誰も助けを求めない。
それでも耳には、いくつもの会話が届く。
「どうして?」
「なるほど。」
「じゃあ、これは?」
「それなら……。」
私は歩みを止めた。
広場の噴水の縁に、一人の老人が座っている。
その周りには五人ほどの子ども。
老人は木切れを並べながら話していた。
「一本では立たない。」
木切れをもう一本添える。
「二本なら支え合える。」
さらに一本。
「三本なら重くなる。」
子どもが手を挙げる。
「どうして?」
老人は笑った。
「いい質問だ。」
私は思わず息をのんだ。
先生ではない。
教師でもない。
ただの老人。
それなのに。
自然に授業をしている。
私は空を見上げた。
夕日が王都を赤く染めていた。
あの日、黒板に最初の線を引いた時には想像もしなかった。
教育とは、人を教師にすることではない。
人を、誰かの先生にしてしまうことだった。
その瞬間。
広場のあちこちで笑い声が上がる。
市場でも。
井戸でも。
工房でも。
家々の窓辺でも。
王都の至るところで、人が理由を語り、問いを返し、新しい答えを探し始めていた。
鐘が鳴る。
その音は、いつもと同じだった。
けれど王都にはもう、昨日までの静けさはなかった。
問いは、もう誰にも止められなかった。
誤字脱字はお許しください。




