第8話 賢者の論理
ベルクトはカイの問いかけを遮ることなく、静かに最後まで聞き終えた。そして、ゆっくりと息を吐き、淡々とした口調で言った。
「大した話ではないが、カーラの耳があるところで話すのも癪だな。少し移動しよう」
そう言うと、ベルクトは先に立って食堂を出た。カイはプリルを肩に乗せ、緊張を隠せないままその後を追う。向かったのは、テッラローザの街を一望できる、小高い丘の上にある広場だった。早朝ということもあり、人影はまばらだ。
カイは歩きながら、ベルクトとの旅路を思い返していた。毒キノコを嬉々として集めていた姿、夜営で語った世界の律動の話、野盗を一瞬で殺した冷酷さ……。それらすべてが、今この瞬間に向かって収束していくような感覚があった。
広場に着き、ベルクトは街を見下ろすように立つと、いつもの飄々とした笑みを浮かべてカイに向き直った。
「カーラ・ロッシから聞いたのだろう。あの女狐め。……ああ、騎士団を殺したのは事実だ。正確には"皆殺し"ではないがな。何人かは生かしておいた。その方が、より効果的な"警告"となるからな」
あっさりと、まるで昨日の天気の話でもするかのようにベルクトは認めた。カイの呼吸が止まる。心のどこかで期待していた否定の言葉は、木っ端微塵に砕け散った。
「な……なんで……そんな……」
言葉にならない呻きが漏れた。握りしめた拳がわなわなと震える。
「奴らは王命で私を“処分”しに来た。ならば、こちらも相応の対価を払わせる。それが道理というものだ。それに……」
ベルクトはカイの目を見て、初めて愉快そうに口の端を上げた。
「効率性、というやつだ。面倒は、一度で終わらせるに限るだろう?」
その言葉に、カイは反論すら思い浮かばなかった。常識が、倫理が、目の前の男の前では何の意味もなさない。
※※※※※※
プリルはカイの腕にしがみつき、恐怖に白濁しながら小刻みに震えている。騎士団虐殺の衝撃を引きずりながらも、カイにはもうひとつ、聞かなければならないことがあった。
「ベルクト……プリルは一体何なんだ? ただの使い魔や魔物じゃないことくらい、俺にも分かる……」
ベルクトの表情が変わった。瞳の奥に研究者としての微かな熱が宿り、まるで待っていたかのように、静かに頷いた。彼の口調にはどこか誇らしげな響きすら感じられた。
「プリルは……コードIN212H。私の長年の研究テーマ、『魂の融合実験』における、唯一の――そうだな、君たちの言葉で言うなら“生き残り”とでも言っておこうか」
「やめてっ!その話は……聞きたくないのー!いやぁぁーっ!」
プリルが甲高い悲鳴を上げ、全身を貫くような絶叫が広場に響き渡った。カイの腕の中で、まるで発作を起こしたかのように激しく震え、その半透明の体が急速に白濁していく。内部で複数の黒い影のようなものが苦しげにのたうち回り、蠢いているのが見えた。
「たすけて……くるしい……」「ママ……どこ……?」「いやだ……熱い……!」
普段の無邪気な声とは全く異なる、複数の声がプリルの体から次々と漏れ出してくる。それは幼い子供の途切れ途切れの泣き声、若い女性の甲高い悲鳴、老人の苦悶の呻き声など、明らかに異なる年齢や性別の声が混ざり合い、重なり合って、聞くに堪えないおぞましい不協和音を生み出していた。
「な……なんだこれ……!?声が……プリルの中から……?」
カイは腕の中のプリルの異変と、そこから発せられるおぞましい声の奔流に戦慄する。プリルは苦しげに喘ぎ、形状も不安定になった。そのゼリー状の体からは涙のように透明な液体が滲み出し、カイの腕を濡らす。
ベルクトはプリルの悲鳴にも顔色一つ変えず、むしろその現象を興味深そうに観察しながら、冷静に言葉を続けた。
「私は仮説を証明するため、212体の実験体の魂を分解し、再構築し、融合を試みた。その中で、唯一"個体"として安定し、自我らしきものを形成したのが、このIN212H…君たちがプリルと呼ぶ存在だ」
カイの血の気が引き、全身から力が抜けていく。
「プリルは……プリルは一人じゃないの……みんな……みんな、プリルの中にいるの……ずっと……ずっと、一緒なの……」
か細い、しかし複数の声が重なったような響きで、プリルは自身の存在の真実の一端を、カイに必死に伝えようとした。それは助けを求める悲痛な叫びに聞こえた。
「みんなって……まさか……212人分の……魂が……この小さな体に……?そんな……そんな馬鹿なことが……!」
カイの手は氷水に浸されたように感覚を失い、プリルを離すことはできなかった。生理的な恐怖と強烈な混乱が全身を貫く。同時に、不安定になったプリルの魂の複雑な律動を、カイの「共鳴感知」は鮮明に感じ取っていた。その中には、極めて攻撃的な律動もあれば、逆に純粋で美しい律動も混在している。
朝日は三人の影を長く伸ばしていく。まだ新たな一日が始まろうという時間だが、カイの心はこれまでにないほど重く、暗い霧に包まれていた。