第7話 後味と覚悟
翌朝。窓の隙間から差し込む朝日が、豪華な寝室を容赦なく照らし出していた。
カイは目を覚ますと同時に、反射的に体を強張らせた。
背中に触れるシーツの感触が滑らかすぎる。いつもの安い麻布ではない。
鼻孔をくすぐる、甘く重いジャスミンの香り。
一拍遅れて、記憶が追いつく。
カイは跳ね起きるように上半身を起こした。隣に、カーラの姿はない。
その事実に、カイの肩から力が抜けた。同時に、胸の奥がかすかに軋む。安堵なのか、それとも——自分でもよく分からなかった。
広いベッドには、乱れた絹のシーツと、昨夜の痕跡だけが残されていた。
「俺は……昨日……何てことを」
声にならない呻きが、彼の胸から溢れ出る。
夢から覚めたような混乱の中で、昨夜の行為への複雑な感情――後悔、羞恥、そしてわずかな満足感――が、彼をの内側を駆け巡った。
床に散らばった自分の服をかき集め、急いで身に着ける。その時、不意に部屋の隅のカーテンの裏から、ぷるんと聞き覚えのある音がした。
「あー、カイ、やっと起きた!プリル、ぜーんぶ聞いちゃったんだから!」
いつの間にか部屋に忍び込んでいたプリルが、ひょっこりと顔を出した。そのゼリー状の体は楽しそうに揺れている。思わず固まってしまったカイに、プリルは畳み掛けた。
「"ねえねえ、若いんだから、まだできるでしょ、カイくん?"」
脳髄に直接響くような、甘ったるい声音。昨夜、耳元で囁かれたカーラの声色そのものだった。
カイの顔から、さっと血の気が引いた。
「お前……! いつからそこに……!?」
「プリル、身体柔らかいから、このくらいの鍵なら開けられるよ!」
誇らしげに体をくねらせるプリル。だが、真っ赤になって震えるカイを見ると、その体のピンク色がさっと薄れ、心配そうに白く濁った。
「カイ、まだ疲れた顔してるよ!大丈夫?」
純粋な問いかけ。
カイは何も言えなかった。羞恥で燃えそうな顔を、そのままプリルに向けることもできず、ただ俯いたまま、乱暴に服を身につけ始めた。
※※※※※※※
逃げるようにしてカーラの部屋から出たカイは、庶民的で騒がしい食堂の一角でベルクトと再会した。
古い木材と埃の匂いが漂い、窓から差し込む光も薄暗い。周囲からは荒っぽい客たちの話し声が聞こえる。
カイはベルクトの向かいの椅子に座った。だが、顔を上げられない。そんな様子を面白そうに一瞥したベルクトは、独り言のように呟いた。
「若さとは、時に高くつく授業料を払わされるものだからな。せいぜい気をつけることだ」
返す言葉がない。カイは唇を噛み、ただ俯くばかりだった。
その時、食堂の入り口に一人の男が現れ、カイたちのテーブルへと近づいてきた。身なりは良いが、妙に目つきが鋭い。男はカーラの使いだと名乗り、カイに一つの小さな革袋と、丁寧に封蝋された羊皮紙のメモを二通を手渡した。
カイは革袋を手に取った。ずしりとした重み。
口を開けると、鈍い黄金の輝きが目に飛び込んできた。
アウラ金貨。
一枚、二枚——数える指が震える。
十枚。
カイは息を呑んだ。行商人として何年も旅をしてきたが、これほどの大金を一度に見たことはない。一枚あれば、まともな短剣が買える。十枚あれば——
「……なんで」
声が掠れた。
震える手で、一通目のメモを開く。流麗な筆跡が並んでいた。
『カイくんへ。
昨夜は楽しかったわ。
ところで、あなたの「相棒」のこと——ずっと気になってたの。あんなに年季の入った得物、大切な場面で折れたら、それであなたは終わりよ。そんなの寂しいじゃない?
だから、これは私からの"先行投資"。
まともな武器を買いなさい。仮にも護衛というなら、それくらいの装備は必要でしょう?
出世したら、十倍にして返してちょうだい。あなたなら、できるわ。
もし返済が遅れたら……一晩じゃ済まないくらい、たーっぷり利息を払ってもらうことになるから、覚悟しておいてね。
追伸:昨夜のあなたは、とっても可愛かったわよ』
カイの耳が熱くなる。
「相棒」——昨夜、カーラが短剣を見て言った言葉だ。あの時の、可笑しそうに細められた蜂蜜色の瞳が脳裏に蘇る。
投資だと、彼女は言っている。それは、自分に価値があると言われているのと同じだった。
誰かに、こんなにはっきりと認められたのは初めてだった。
ちらりとベルクトを見る。
打算は.....あるのだろう。彼女はベルクトに強い興味を持っていた。
肌を重ねて、むしろより一層に、底知れない怖さを感じる。
それでも、自分は生涯カーラ・ロッシという女性を嫌うことは出来ない確信があった。
「気をつける」なんて、無理だ。
『追伸の追伸。 もし本当に良い武器が欲しいなら、職人街の外れにいるレナータ・ヴェルディという鍛冶師を訪ねてみるといいわ。『カーラ・ロッシの紹介だ』と言えば、話くらいは聞いてくれるはずよ。もっとも、あの偏屈な女が素直に仕事を受けるかは、あなた次第だけど』
「ふむ」
ベルクトが、涼しげな目でメモを覗き込んでいた。
「なかなか良い情報をもらったようだな。良い職人との伝手は、そう簡単に得られるものじゃない」
カイは金貨の重みを感じながら、複雑な気持ちで頷いた。カーラという女性の恐ろしさと魅力、ベルクトの過去の衝撃、そして自分自身の不甲斐なさに打ちのめされそうになる。
カイは金貨の入った革袋を握りしめた。
昨夜のことが、頭の中でぐるぐると回る。カーラの言葉。ベルクトの過去。自分の不甲斐なさ。何もかもが、重くのしかかってくる。
だが——同時に、胸の奥で何かが疼いていた。
このままじゃ駄目だ。
流されるまま、利用されるまま。それでいいのか。
カイは深呼吸を一つした。そして、初めてベルクトの目を真っ直ぐに見た。
「ベルクト」
声が震える。だが、言葉を止めなかった。
「あんたの過去を聞いた。騎士団を壊滅させたってのは……本当か」
テーブルの下で、自分の拳が白くなるほど強く握りしめられているのが分かる。
「俺は……あんたが何者なのか、知りたい。知らないと、俺は……」
言葉が詰まる。何を言えばいいのか、自分でも分からない。
「……俺自身のことも、決められないから」
ベルクトは、その涼しげな瞳でカイを見つめていた。何も言わない。
プリルが、二人の間の張り詰めた空気を感じ取ったのか、静かにカイの肩に寄り添った。
窓から差し込む光が、テーブルに長い影を落とす。
それはまるで、戻れない境界線のように、一本の鋭い線を引いていた。




