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19話 謁見

 その日の朝、シエナは食事に手をつけていなかった。


 王女の私室に差し込む光は柔らかい冬のもので、暖炉の火が静かにはぜる音がする。だが、部屋の空気は張り詰めていた。侍女のロゼッタが、手際よく、しかし神経質に動いている。彼女は銀の水差しを磨き、クッションの角度を直し、シエナの肩にかかるケープの折り目を、指先で執拗なほどまっすぐにしていた。


「ロゼッタ、もういいわ」


 シエナの声は、磨かれた大理石の床に落ちる羽のようにか細かった。 ロゼッタの手がぴたりと止まる。彼女は振り返らず、主君の顔色を窺うこともしない。ただ、その硬直した背中が、シエナの体調を正確に理解していることを示していた。


「……本日、謁見が予定されております。守旧派の皆様方が、辺境伯の件で王女様のご意見を伺いたいと」


「わかっています」


 ロゼッタは、冷めた紅茶のカップを黙って下げた。その湯気さえ、シエナには不快な湿気に感じられた。


 数日前から、頭痛は始まっていた。最初はこめかみの奥で、何かが小さく脈打つだけだった。だが、謁見の日が近づくにつれ、その脈動は、王宮全体に満ちる悪意と共鳴するように強まっていく。


 常より眠りの浅いシエナだが、昨夜は全く眠れていない。眠りに落ちる寸前、意識が薄れると、決まって色とりどりの「ノイズ」が瞼の裏を焼き、彼女を現実に引き戻した。


『魂彩の鏡』。 彼女にとってその祝福は、呪いと呼ぶ方がふさわしかった。他者の魂が、隠しようのない色彩として見えてしまう。そして王宮は、世界で最も醜い絵の具をぶちまけたパレットだった。


 シエナは、窓の外に視線を向けたまま、かろうじて声を絞り出した。


  「……ロゼッタ。今日は、やめておこうかしら」


 ロゼッタの動きが、ぴたりと止まった。 彼女は、トレイを持ったまま、主君に背を向けていた。 その痩せた背中が、わずかに強張る。


 ロゼッタは、シエナの青白い顔を見なくても、彼女がどれほど消耗しているか痛いほどわかっていた。彼女の忠誠は、王家や国家ではなく、シエナ個人に捧げられている。 本心だけを言えば、今すぐにでもベッドに押し戻し、無理やりにでも休ませたかった。


 だが、シエナの置かれた状況が、それは許さない。


 ロゼッタは、ゆっくりと振り返った。 その顔は、完璧な侍女の仮面を貼り付けていた。だが、その瞳の奥――普段は黒に近いほど沈んだアメジスト色の瞳が、この瞬間、凍てつくような、鋭い光を放っていた。


「……シエナ様。お言葉ですが、それは許されません」


 声は、冷たく、平坦だった。 シエナは、その予想外の拒絶に、弱々しく反論しようとした。


「でも、この体調では、まともな議論など……」


「議論など、守旧派は望んでおりません」


 ロゼッタは、シエナの言葉を遮った。その声には、彼女が生き抜いてきた世界の厳しさが滲んでいた。


「彼らが期待しているのは、シエナ様が謁見の場に『現れない』ことです」


「……!」


「シエナ様が『病で公務を果たせない』となれば、貴族たちは嬉々としてシエナ様を王宮の奥に追いやり、王家の権限を掠め取る口実とするでしょう。王が政務へ積極的ならばまだ良いのですが……」


 それは王家への批判とも取れる忠言であったが、シエナに咎める気はなかった。


「そうね。ごめんなさい。少し気が参っていたわ」


「……支度を。カイ殿もお待ちです」


 ロゼッタの言葉に、シエナはゆっくりと立ち上がった。鏡に映った自分の顔は、冬の空のように血の気が引いていた。



※※※※※※



 王宮の長い廊下は、冷え切っていた。 一歩進むごとに、磨かれた床がシエナの姿をぼんやりと映し出す。その両脇には、アウレリア王国の歴代の王たちの肖像画が、まるで過去の亡霊のように並んでいる。


 扉の前で、カイが待っていた。 『貪龍衣』の漆黒の鎧は、壮麗な王宮においても異様な存在感を放っている。彼はシエナの顔色を一瞥したが、何も言わずに会釈し、彼女の数歩後ろに付き従った。


 彼の『共鳴感知』は、シエナの律動が、まるで水面に落とされたインクのように、弱々しく揺らぐのを感じ取っていた。


 謁見室へ向かう道すがら、すれ違う侍女や官僚たちが、遠巻きに会釈する。 シエナの目には、彼らの魂が見えた。


(……好奇心。薄汚れた黄色)

(……宰相への恐怖。冷たい青灰色)

(……私への侮蔑。錆びた鉄のような赤茶色)


 それら一つ一つが、小さな棘となってシエナの精神に突き刺さる。 彼女は背筋を伸ばし、完璧な王女の仮面を貼り付ける。だが、ドレスの下の指先は、冷たく汗ばんでいた。


 謁見室の重い扉が開く。 中に満ちていた空気は、澱み、重く、腐臭さえするようだった。


 シエナは、室内の上座に設けられた椅子に、ゆっくりと腰を下ろす。カイは、事前にロゼッタに聞いたとおり、彼女の右後方に立ち、護衛の任についた。


 五人の老貴族が、ゆったりとした仕草で彼女に向き直る。彼らは守旧派の重鎮。宰相リカルドの急進的な改革に、最も強く反発している者たちだ。


「王女様におかれましては、ご健勝のこと、お慶び申し上げます」


 一人が、朗々と口上を述べた。 彼の魂は、腐った沼のような、淀んだ緑色をしていた。それは嫉妬の色だ。


「さて、本日は辺境伯の処遇について、王女様のお考えを……」


 別の男が言葉を継ぐ。 その魂は、嘘で塗り固められていた。まるで油膜のような、ぬるりとした虹色の濁り。その濁りの下で、リカルドへの憎悪が、内出血のようにどす黒い赤色となって脈打っている。


 彼らの言葉は、全てが建前だ。 彼らはシエナに意見を求めてなどいない。


「リカルド宰相のやり方は、少々、性急に過ぎるのではと……」


「伝統と秩序こそが、我がアウレリアの礎……」


 言葉の一つ一つが、毒の矢だ。 緑青のような侮蔑。 焦げ付いたような権力への執着。 そして、自らの腐敗にさえ気づかない、灰色の無自覚な傲慢。


 それらが混ざり合い、渦を巻き、シエナの精神に叩きつけられる。 キィン、と金属的な耳鳴りが始まった。 こめかみの奥で、何本もの針が同時に突き立てられるような、鋭い痛みが走る。


「……っ……」


 息が詰まる。 貴族たちが纏う、むせ返るような香水の匂いが、腐臭のように感じられ、胃の奥から不快感がせり上がってきた。


(だめ、耐えなければ……)


 彼女は、椅子の肘掛けを強く握りしめた。爪が、硬い木に白く食い込む。


「王女様? 顔色が優れぬようですが」


 一人が、心底楽しむような響きを隠しもしない声で言った。 その魂が、サディスティックな喜びを示す、粘ついた紫色に輝くのを、シエナは見てしまった。


 もう、限界だった。


「貴重なご意見をありがとうございました。この件は……持ち帰らせていただきます。本日の、謁見は……これまでと、します」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。 彼女は、カイの存在も忘れ、ただ逃げ出すように、よろめきながら立ち上がった。


 謁見室の扉が、背後で無情に閉まる。 廊下の冷たい空気が、少しだけ正気を取り戻させてくれた。 だが、もう足に力が入らない。


(兄上……)


 世界が、ゆっくりと回転し始める。 大理石の床が、波打って見える。 壁に手をつこうとしたが、指先は空をかいた。


 崩れ落ちる、と思った瞬間。


 ふっと、世界から「色」が消えた。 まるで、分厚い遮光カーテンが一気に引かれたかのように。


 あれほどけたたましく鳴り響いていた耳鳴りが止み、腐臭のような吐き気も、こめかみの痛みも、急速に遠のいていく。 シエナは、浅く、喘ぐように息をした。


 何が起きたのか分からず、もつれる視線を上げると、そこにはカイの背中があった。 彼は見るからに戸惑いながらも、遠くからジロジロと観察するような貴族たちの視線から、彼女を隠すように立っていた。


 シエナは、壁に背を預けたまま、目の前の男の背中を見つめた。


 それは、まだ磨かれていない、土くれのついた水晶の原石。いかつい見た目に反して、目の前で護衛対象が蒼白になっていることに狼狽している彼の魂には、欠片の悪意も感じられなかった。


 カイの外套の隙間から、プリルが心配そうに顔を出した。 半透明の体が、シエナの苦痛に共鳴するように、不安げな白濁色に揺れている。プリルは、彼女の震える手に、ぷるり、と自分の体をすり寄せた。


 その温かくも冷たい感触に、シエナの目から、こらえていた涙が一筋、静かにこぼれ落ちた。


 カイの外套の端を掴んだシエナの指先が、小刻みに震えている。彼には衰弱し切った王女になんと声をかければいいか分からなかった。






 息苦しい王宮から逃れるようにバルコニーへ出た瞬間、冷たい夕暮れの風が、火照ったシエナの頬を撫でた。腐臭のような悪意の奔流が、ようやく遠のいていくように感じた。


 彼女は、欄干に両手をつき、ようやく、ここ数日で初めての、深い呼吸をした。背後には、困惑したカイが立っている。


「おい、顔が真っ白だぞ。大丈夫か……ですか?」


「少し良くなったわ。……ふふ。人がいない時は、無理に言葉を作らなくてもいいのよ」


 短い付き合いの中で、シエナは彼が”王宮流”の礼儀や言葉遣いの教育を受けていないことを理解していた。それは時に眉を顰めたくなることもあるが、それでも貴族たちの”完璧な言葉遣い”よりよほど好感が持てた。


「シエナ様、私がここにおります」


「あら、でもロゼッタは揚げ足を取って私やカイを虐めたりしないでしょう?」


「……。」


不服そうなロゼッタに笑いかけ、シエナは事態の飲み込めていないかいと向き合う決意をした


「嘘、嫉妬、欲望……」


  彼女は、冷たい石の欄干を強く握りしめる。


「王宮にいると、色とりどりの毒が、私の精神をひっきりなしに蝕むのです。もう何年も、朝まで眠れたことはありません」


 彼女はゆっくりとカイに向き直った。その灰青色の瞳は、西日に照らされて、どこか儚げに潤んでいた。


「……あなたは、王宮に染まっていないのですね。ロゼッタが来る前、私にとって、これほど純粋な光は、プリルと……ベルクト様だけでした」


 ベルクト。 その名前を口にした瞬間、シエナの瞳からカイの姿が消えた。 彼女の灰青色の瞳は、カイを通り抜け、遠い過去の一点を見つめている。


 彼女の瞳には、五年前の王宮が映っていた。

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