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第17話 灰青色の瞳

 エステ砦での鮮烈な勝利から数週間が過ぎた。王都は冬の訪れを告げ、人々の吐く息は白い。


 カイに与えられている、兵舎とは名ばかりの豪奢な一室。暖炉の火が、ぱちぱちと静かな音を立てて燃えていた。


「ぷりゅ?」


 彼の膝の上で丸まっていたプリルが、不意に顔を上げた。半透明のゼリー状の身体が、暖炉の光を乱反射させてきらめいている。その小さな核のようなものが、扉の方を向いて微かに明滅した。


 ほとんど同時に、重厚な扉が控えめにノックされる。


「カイ殿、宰相補佐官のグイドです。閣下からの伝言を預かって参りました」


 扉の向こうから聞こえてきたのは、滑らかで、感情の抑揚を巧みに隠した男の声だった。カイが短く応じると、音もなく扉が開き、長身痩躯の男が入ってくる。


 グイドは室内を一瞥し、カイの前に立つと、完璧な角度でお辞儀をした。


「閣下より、貴殿に新たな任務が与えられました」


 グイドは懐から一通の羊皮紙を取り出し、テーブルに置いた。蝋で固く封印された、王家の紋章。


「本日より、シエナ・アウレリア王女殿下の護衛を拝命していただきたい」


 シエナ。その名を聞いた瞬間、カイの脳裏に、ベルクトの最期の言葉が蘇る。


「……王女が、どうかしたのか」


 カイの問いに、グイドの完璧な笑みが消え、その目に深い憂慮の色が浮かんだ。


「カイ殿。王女殿下は、生まれながらにして『魂彩の鏡』という、あまりにも強大で……そして、あまりにも過酷なご祝福をその身に宿しておられます」


 グイドは言葉を選びながら、静かに語り始めた。


「そのご祝福は、人の魂が放つ『色』を視る力。言葉や表情では偽れない、魂そのものの真実の色を、殿下は常に見ておられるのです」


 彼は一度言葉を切り、暖炉の炎を見つめた。その揺らめきが、彼の眼鏡のレンズに反射している。


「想像できますかな。この王宮という場所が、殿下にとってどのような地獄であるか。ここでは誰もが本心を隠し、己の欲望のために嘘をつく。殿下は日夜、その魂の汚濁を、その身に浴び続けておられる。それは、決して癒えることのない呪いにも等しいのです」


 グイドの声には、聞く者の心を揺さぶるような、計算され尽くした響きがあった。


「結果として、殿下は完全に孤立しておられる。廷臣たちは、心を読まれることを恐れて殿下を『魔女』と蔑み、遠巻きにするだけ。王宮という華やかな牢獄で、たったお一人で、魂の濁流に耐えておられるのです」


 それだけではない、とグイドは続けた。


「類稀なるお力故に、常に危険に晒されております。一方では、殿下のご祝福を己の権力闘争に利用しようと企む者たちがいる。そしてもう一方では、後ろ暗いことのある連中がその力を危険視し、殿下を亡き者にしようと画策する」


「……」


「閣下は、宮廷の悪意に染まらぬあなたなら、殿下にとって唯一無二の『盾』となりうる、と考えておられます」


 盾、か。カイは心の中で呟いた。俺がベルクトの弟子であることも、ベルクトとシエナに交流があったことも、全て承知の上で、リカルドはこの配役を決めているのだろうか。


 底知れないリカルドへの不気味さを覚えながらも、もともとベルクトの遺言を気にして王都に来たのだ。カイには了承する以外の選択肢はなかった。


「……分かった」


 カイの短い返答に、グイドは満足げに頷いた。


「では、早速ですが王宮へ。殿下は古文書館にてお待ちです」



 ※※※※※※




 王宮の回廊は、冷たい大理石の床がどこまでも続いていた。天井は高く、壁には歴代の王たちの肖像画が、色褪せた瞳で来訪者を見下ろしている。すれ違う廷臣や侍女たちは、カイの姿を認めると、好奇の視線で一瞥し、足早に通り過ぎていった。彼らの囁き声が、大理石の壁に反響してカイの耳に届く。


「あれが“龍殺し”……」

「宰相閣下のお気に入りだそうだ」

「田舎者めが、成り上がりおって……」


 王宮という巨大な石の箱の中に渦巻く淀んだ空気が、肌を粟立たせる。


 侍従に案内され、カイが足を踏み入れた古文書館は、吐く息が白くなるほどに凍てついていた。貴重な古書を保管するため、火気は厳禁。天井まで届く書架が迷路のように林立する巨大な空間は、人の体温を容赦なく奪っていく。


「王女殿下は、この奥に」


 侍従が示したのは、書架の影に隠れるように設けられた、飾り気のない小さな扉だった。侍女の私室と言われても信じてしまいそうなほど、ひっそりとしている。


 扉を開けると、壁際には書物が無造作に積まれ、使い古された小さなテーブルと椅子が一つ。部屋の隅で、申し訳程度に置かれた小さな銀の火鉢だけが、か細い熱を発している。


 その火鉢の前に、ひとりの少女が座っていた。


 厚手のショールに深く身を包み、膝の上で分厚い書物を開いている。陽光そのものを紡いだような金色の髪は、この質素な部屋には不釣り合いな輝きを放っていた。


 かじかむ指先に、白い息を吹きかけながら、彼女は頁をめくる。その仕草にカイは一瞬、彼女がこの国の王女であることを忘れかけた。


 あれが、シエナ・アウレリア王女。


 彼女の傍らには、侍女のロゼッタが影のように控えていた。彼女はカイの姿を認めると、感情の読めない瞳で会釈だけをし、シエナを庇うように半歩前に出て、カイの一挙手一投足を監視する視線を送ってくる。


 外では、その年最初の雪が、音もなく舞い落ち始めている。火鉢がぱちぱちと音を立て、外の静寂と不思議な対比を生んでいた。


 カイの接近に気づき、書物から顔を上げたシエナの灰青色の瞳が、真っ直ぐに彼を捉えた。その瞬間、カイは彼女の瞳の奥で、何かが激しく揺らぐのを感じた。警戒、恐怖、そして、ほんの僅かな好奇心。書物を持つ彼女の指先に、無意識に力が入る。


 シエナは、湧き上がる不信感を、冷たい言葉の鎧で覆い隠した。


「あなたが、噂の“龍殺し”ですね。宰相閣下の手駒が、私に何の用かしら」


 その声は、鈴が鳴るように美しいが、冬の薄氷のように冷え切っていた。


 明確な敵意。以前のカイであれば、それだけで萎縮していただろう。だが、彼はただ、師が最期に名を呼んだ少女を、静かに観察した。


「本日より、貴女の護衛を拝命した。カイだ」


 事実だけを告げる言葉。シエナは、ふ、と嘲るように息を吐いた。


「不要です。お引き取りください」


 けんもほろろな拒絶の言葉が、静寂な古文書館に響いた。ロゼッタが、カイとシエナの間に、見えない壁を作るかのように、さらに一歩前に出る。


 二人の出会いは、始まったばかりの冬のように、ただ静かで、凍てついていた。

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