第14話 誤解の結末
夜明け前の闇が最も濃くなる時刻。エステ砦を包囲するモンテネーロ公国軍の東翼は、突如として紅蓮の暴風に飲み込まれた。
「――燃え盛れ!」
夜気を切り裂くテッサの声と共に、長剣が振り抜かれる。その軌跡が膨れ上がり、巨大な炎塊となって敵陣の中央へ炸裂した。爆音。熱波。鋼鉄の兜も革の鎧も、飴細工のように溶け崩れていく。
「風よ!」
ルキウスの魔法は、テッサのそれとは対照的に、静かで、精密だった。テッサが放った炎に向けて突風が幾筋も送り込まれる。煽られた炎は、まるで意志を持った生き物のように渦を巻き、敵陣の奥へと燃え広がっていった。火の粉が竜巻のように舞い上がる。
「いいぞ、もっと派手にやれ! 奴らの目を全てここに引き付けるんだ!」
グレゴールは馬上で吼えながら、3人の敵を大斧でまとめて吹き飛ばした。
混乱は波紋のように広がる。敵本陣の奥、警報に飛び起きた司令官が天幕から顔を出した――その瞬間だった。
「……脇が甘い」
足元から音もなく突き出した岩の槍が、司令官の心臓を正確に貫いていた。リアーナは音もなく影から現れ、返り血の一滴さえ浴びることなく、再び闇へと溶ける。
たった四人。しかしその活躍は、リカルドがアウレリア全土から見出した異能の名に恥じないものであった。
「よし、かかったぞ!」
グレゴールは、敵陣が蜂の巣をつついたような騒ぎになるのを確認し、鋼の盾を構えながら歯を剥き出しにして笑った。混乱は、面白いように東側へと広がっていく。指揮官たちの怒声、兵士たちの絶叫、警鐘の乱打。その全てが、自分たちの陽動が完璧に機能している証だった。
「砦の仲間たちよ、今だ、逃げろ……!」
心の中で叫んだ、その瞬間だった。グレゴールの視界の端、燃え盛る炎とは正反対の方向――敵の本陣、最も厳重に守られているはずの中央部で、何かが動いた。
一つの、黒い影。
その影は、混乱する敵陣を意にも介さず、ただ真っ直ぐに、敵軍の心臓部へと向かって歩いていた。まるで、散歩でもするかのように、淡々と
「……なっ」
グレゴールは我が目を疑った。松明の光が、その影の輪郭を照らし出す。見間違えるはずもない。漆黒の龍鱗の鎧を纏い、奇妙な形の長刀を携えた、線の細い背中。
カイだった。
「馬鹿な……!? なぜ、あんなところに……!」
グレゴールの脳裏に、作戦会議でのカイの言葉が蘇る。
「やっぱりあのデカい機械が問題なんだよな……」
そんなカイの呟きは、当たり前すぎてただの感想だと気にも留めなかった。グレゴールの頭の中にジワリと嫌な考えが浮かぶ。いや、そんな馬鹿な。
※※※※※※
カイの目の前で、敵兵たちの顔が驚愕に歪んでいた。
中央の本陣に、たった一人で、しかも堂々と正面から歩いてくる異常事態に、彼らは一瞬、思考を停止させていた。
「馬鹿な! なぜこんなところに歩兵が一人で!」
「撃て! 撃ち殺せ!」
指揮官の金切り声が響く。それを合図に、無数の矢が闇を切り裂き、カイへと殺到した。同時に、後方に控えていた魔道士たちが詠唱を開始し、色とりどりの魔法の火球や氷の槍を放つ。地面が抉れ、空気が震えるほどの集中砲火。
「死ねえええっ!」
敵兵の誰かが叫んだ。
だが、カイの歩みは止まらない。
最小限の動きで、致命傷になりそうな攻撃だけを、紙一重で見切る。だが、避けきれない無数の攻撃は――その悉くを、その身に平然と受け止めた。
ふと、脳裏をよぎったのは、旅の途中で遭遇した、みすぼらしい盗賊のことだった。
錆びついた剣が、ありったけの力で振り下ろされた。殺意と怒りがこもった一撃。だがあの時、この『貪龍衣』は、その切っ先を赤子の指のように弾き返した。
――あの時と、同じだ。
キン、カン、と軽い音が響く。鋼鉄の矢が漆黒の鎧に触れた瞬間、まるで玩具のように弾かれ、あらぬ方向へと跳ね返った。
「嘘だろ……矢が……?」
弓兵の一人が、信じられないものを見たかのように目を見開く。
魔術の攻撃は、さらに異様な光景を生み出した。灼熱の火球が鎧に直撃した瞬間、爆発は起こらない。着弾点に、まるで生きているかのような微かな鱗の紋様が淡く浮かび上がり、次の瞬間には、燃え盛る炎が光の粒子となって鎧の表面へと静かに吸い込まれていく。氷の槍も、雷の礫も、全てが同じだった。
衝撃が全身を揺さぶる。鎧越しに伝わる熱は、肌を焼くほどに不快だ。
だが、それだけだ。
肌を焼く熱風は、確かに鬱陶しい。だがカイの記憶に刻まれたベルクトと貪食龍の戦い、あの天変地異のような魔力の奔流に比べれば――児戯に等しかった。
「……嘘だろ」
魔道士たちの間に戦慄が走る。敵の集中砲火の中に仁王立ちする、静かな黒い人影。それは、おとぎ話に登場する、龍そのものに見えた。
この光景は、陽動を行っていた仲間たちの目にも、焼き付いていた。
「な……」
グレゴールの口は、半開きのまま塞がらない。歴戦の傭兵である彼の常識と経験が、目の前の現実を理解することを拒絶していた。戦術も、兵法も、数の優位も、ただ一人の厄災が全てを受け止めている。
「な、なんだ……あれは……」
「……ありえない。あれほどのエネルギーを、どうやって無効化している? 聞いたことないぞ……」
テッサやルキウスの口から、呆然とした声が漏れた。
他の三人が青ざめているのとは対照的に、リアーナの褐色の頬は、興奮に微かに上気していた。
その唇の端が、ゆっくりと、しかし確かに吊り上がっていく。
リアーナの部族が、そして彼女自身が信奉する世界の理。それは、弱肉強食という絶対的な掟。彼女にとって、カイが見せている力は、この世で最も正しい、自然の摂理だった。
「……私の、長」
彼女の喉から漏れたのは、信仰にも似た、熱い囁きだった。
※※※※※※
「馬鹿! 撃つのをやめろ! 味方に当たるぞ!」
「弩隊、射撃中止! 魔法も範囲を絞れ!」
カイが敵陣の奥深くへと食い込むにつれ、苛烈だった攻撃は、少しずつ手緩くなっていった。兵士たちは同士討ちを恐れて、もはや全力の攻撃を躊躇せざるを得なくなっていた。
結果として、カイに降り注ぐ攻撃は、散発的な、さらに小粒なものへと変わっていった。
カイの首が、わずかに傾いた。
攻撃が、止んでいく。鎧に蓄える魔力が、思ったほど溜まらない。
なぜだ。
彼は、自らが敵の戦術を完全に破壊していることに、まるで気づいていなかった。敵が同士討ちを恐れて攻撃を控えているなど、想像すらしていない。ただ純粋に、困惑していた。
気がつけば、『共振破城槌』のすぐ近くまで来ていた。
小さく息を吐く。
仕方がない。今ある分で、やるしかない。
カイは鎧に蓄積された全ての魔力を、右手に握る長刀『古橄欖』へと送り込んだ。
漆黒の刀身が、吸収した膨大な律動に呼応する。表面に、深緑と黄金色の亀裂のような光が稲妻のように走り、刀そのものが一つの生命体のように脈動を始めた。
空間が、歪む。
――裂けろ。
心の中で、ただ一言。
『古橄欖』の切り札、『裂界』が発動する。
轟音は、なかった。
爆発も、衝撃波も、存在しなかった。
大陸最強クラスの硬度を誇るはずの、分厚い魔鋼鉄の装甲が、まるで熱したナイフでバターを切るように、何の抵抗もなく、滑らかに断ち切られていく。
漆黒の刃は、装甲を紙のように貫き、複雑に絡み合った内部機構ごと、律動の心臓部である「節」を、完璧に、そして静かに破壊した。
一瞬の静寂。
次の瞬間、制御を失った『共振破城槌』は、内部から凄まじい律動の奔流を逆流させ、悲鳴のような軋みを上げた。自らの巨体を支えきれず、まるで生命活動を強制的に停止させられたかのように、鈍い、重い音を立てて、その場に崩れ落ちた。
二度と動くことのない、ただの鉄屑と化して。




