第11話 道中
新品の革靴のように硬い士官服は、どうにも身体に馴染まなかった。
王都ルステラの巨大な城門をくぐる瞬間、カイは馬上でごわつく襟元を無意識に指でなぞった。背後からは、四騎の馬蹄の音が、間隔を揃えてついてくる。音は近いのに、まるで分厚いガラスの壁があるかのように感じられた。
グレゴール・ヴォルコフ。テッサ・ヴァレリウス。ルキウス・クローデル。リアーナ・ザハル。
昨日、宰相リカルドから部下として与えられた四人の顔ぶれを思い浮かべ、カイは小さく息を吐いた。誰もが、それぞれの分野で一流であることはカイにも分かった。そして、その全員が、自分という存在を測りかね、強い警戒心を抱いていることも。
彼の祝福『共鳴感知』は、望まずとも他者の感情のさざ波を拾ってしまう。それは時に呪いのように、カイを孤独にした。
隊長、という呼ばれ方も、背中の皮膚がむず痒くなるような違和感しかなかった。
街道に出て、馬の速度が上がる。王都の喧騒が遠ざかり、代わりに初夏の風が頬を撫でていった。
王都を出て三日目の夜。一行は、街道沿いの森で野営をしていた。
部下たちは、焚き火を囲んでそれぞれの時間を過ごしている。グレゴールは黙々と盾の手入れをし、テッサは剣の素振りを繰り返し、ルキウスは魔術書を読みふけっている。リアーナは、いつの間にか姿を消していたが、おそらく周囲の警戒に当たっているのだろう。
カイは、彼らの輪から少し離れた木の根元に腰を下ろし、ベルクトが遺した研究ノートの頁を、指先だけでなぞっていた。そこに記された難解な術式や理論は、カイにはほとんど理解できない。だが、インクの染み一つ一つに、あの老賢者の執念と探究心の律動が、今も息づいているように感じられた。
焚き火の向こうから、自分を窺う視線を感じる。テッサとルキウスだ。彼らの交わす小声での会話は聞こえない。だが、その声に含まれる律動の響きが、苛立ちと不満の色を帯びていることは、嫌でも伝わってきた。
無理もない、とカイは思う。この三日間、自分は彼らとほとんど言葉を交わしていない。ただ、進路を決め、野営地を指示するだけ。彼らからすれば、コミュニケーションを放棄した、無気力な指揮官に見えることだろう。
どう接すればいいのか、分からなかった。行商人だった頃から、カイはずっとそうだった。言葉を尽くせば尽くすほど、相手との間にある溝は深くなるばかり。ベルクトとの関係は、奇跡的な例外だったのだ。
カイは静かにノートを閉じ、目を閉じた。意識を、周囲の自然の律動へと同調させる。風にそよぐ木の葉の囁き、土の中を蠢く小さな生命の息吹、遠くで鳴く夜鳥の声。その一つ一つが、複雑に絡み合い、世界の巨大な音楽を奏でている。この感覚が、カイの心を穏やかにしてくれた。
その時だった。外套の襟元が、もぞもぞと動く。やがて、半透明のゼリー状の生き物が「ぷるん」と顔を出し、カイの膝の上に着地した。プリルだ。
プリルは暖かな焚き火の光に興味を惹かれたのか、カイの膝から降りると、ぷるぷると体を揺らしながら火に向かって進み始めた。
「おい、危ない」
カイが慌ててその小さな体をつまみ上げる。その普段の寡黙さからは想像もつかない素早い反応と、どこか父親めいた口調に、部下たちの視線がちらりとカイに向けられた。
カイの手に戻されたプリルは、今度は退屈しのぎの遊びを始めた。まず、黙々と盾を磨くグレゴールの手元をじっと見つめると、布が鋼をこする音をそっくりに真似てみせた。
「キュッ、キュッ……」
グレゴールは怪訝な顔で動きを止め、音の出所であるプリルを睨む。
次に、剣の素振りを続けるテッサに注目し、彼女の鋭い息遣いに合わせて可愛らしい声で唱和する。
「フッ! ハッ!」
あまりに間の抜けた合いの手に、テッサは集中力を乱されて剣を止めてしまい、困惑の表情でプリルを見つめた。
テッサが生真面目な声で尋ねる。
「隊長、その……生き物は、一体?」
カイは、やれやれとため息をついた。
「プリルだ。……見ての通り、少しうるさいだけのゼリーだ」
その言葉に、プリルは悲しそうに淡い青色に染まる。その様子を見ていたリアーナが、闇の中からすっと姿を現し、初めて小さく呟いた。
「……可愛い」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
その静寂と安堵が入り混じった一瞬の隙間を、不協和音が引き裂いた。
空気を震わせるような、低い地響き。脂が焼けるような、むせ返る獣臭。そして、木々の奥から放たれる、明確な殺意の律動。
カイは目を見開いた。その視線の先で、闇の中から灼熱の蒸気を鼻から噴き出しながら、巨大な影が複数、猛烈な速度で飛び出してくる。
「――敵襲!」
リアーナの鋭い声と共に、闇の中から灼熱の蒸気を鼻から噴き出しながら、巨大な影が複数、猛烈な速度で飛び出してくる。
それは、小柄な荷馬車ほどもある巨体だった。その体躯は分厚い筋肉の鎧で覆われている。最大の特徴は、大地を抉るために生まれたかのような、異常に発達し湾曲した一対の牙。そして、剥き出しの敵意に呼応するように、まるで地金の焼き入れのように、その牙が不気味な赤黒い熱を帯び始めた。
「くそっ、牙猪か!しかも群れだと!?」
グレゴールが忌々しげに吐き捨てた。中級魔物、牙猪。その突進力と強靭な肉体は、熟練の兵士でさえ容易に屠る。まともに相手をすれば、騎士団の一部隊を以てして当たるべき危険な存在だ。
「散開しろ!各個撃破だ!」
グレゴールが檄を飛ばす。彼は即座に部隊の盾となり、先頭の一頭の突進をタワーシールドで受け止めた。凄まじい衝撃が巨体を揺るがすが、彼は歯を食いしばって耐える。
「炎よ、我が刃となれ!」
テッサが剣に灼炎を纏わせると、燃え盛る刃で二頭目の牙猪に斬りかかる。しかし、硬い毛皮に阻まれ、致命傷には至らない。
「チッ、連携がなっていない!」
ルキウスが舌打ちし、風の刃を放つ。だが、乱戦の中では味方を巻き込みかねず、威力を抑えざるを得ない。リアーナは、木々の間を俊敏に動き回り、敵の側面を狙うが、群れの数が多すぎる。
カイの目には、その混沌とした戦場の光景が、別のものとして映っていた。
彼の瞳に、銀色の燐光が刹那的にきらめく。部下たちの焦りや恐怖が、乱れた律動の線となって見える。牙猪たちの殺意と突進の軌道が、赤黒く濁った流れとして映る。
(……ダメだ。このままでは押し切られる)
個々の能力は高い。だが、互いの動きを殺し合っている。グレゴールの盾がテッサの攻撃範囲を狭め、ルキウスの魔法が、リアーナの奇襲の機を奪う。
カイは思わず声を出した。
「グレゴール、三時の方向、二頭引きつけてくれ。五秒でいい」
戦場の喧騒の中、その声は不思議なほど明瞭に耳に届いた。グレゴールは一瞬戸惑ったが、有無を言わせぬ響きに、反射的に身体が動く。彼は雄叫びを上げ、盾を打ち鳴らして、指示された方向の二頭の牙猪の注意を自分へと引きつけた。
「テッサ、その背後からリーダーの右目を狙え!威力いいから速く!」
リーダー? どれが? 疑問が頭をよぎる間もなく、グレゴールが作った一瞬の隙間に、ひときわ巨大な牙を持つ個体が姿を現した。テッサはカイの言葉を信じ、魔法の威力を捨て、全身のバネを使ってリーダー格の懐へ飛び込み、その剣先を閃かせた。
グギャアアアッ!
甲高い悲鳴と共に、牙猪の巨体がもんどりうって倒れる。剣は、寸分違わずその右目に突き刺さっていた。
「ルキウス、俺の合図で、奴らの足元を薙げ。風の刃でいい」
リーダーを失い、群れの動きが乱れた一瞬。カイの静かな合図が飛ぶ。
「――今だ」
ルキウスは、カイの視線の先、敵が密集する地点に、血の滲むような訓練で磨き上げた風の刃を放った。彼の意図は、敵を切り刻むことではなかった。ただ、その足元を崩し、体勢を乱すこと。鋭い風の刃が地面を走り、牙猪たちの脚を薙いだ。
完璧なタイミングだった。動きを封じられた牙猪の群れに、体勢を立て直したグレゴールの戦斧が叩きつけられ、リアーナの放った石の槍が容赦なく突き刺さった。
だが、敵の数はまだ多い。指示によって生まれた好機も、永遠には続かない。
その、ほんの僅かな膠着状態を打ち破ったのは、カイ自身だった。
彼は、腰の長刀『古橄欖』を抜き放ち、地面を蹴った。その動きには一切の無駄がなく、まるで水が流れるかのようだ。彼は、味方が作った混乱の渦の中心へと、一直線に突っ込んでいく。
「隊長!?」
テッサの悲鳴も耳に届いていないかのように、カイは三頭の牙猪の正面に躍り出た。
一頭目の牙猪が、灼熱の牙を突き立てようと突進する。カイはそれを、最小限の動きで紙一重にかわすと、すれ違いざま、漆黒の刀身が閃いた。牙猪は、自分が斬られたことにも気づかぬまま数歩走り、やてその巨体を横倒しに崩れさせた。喉元から、夥しい量の血が噴水のように吹き上がる。
返す刀で、二頭目の牙猪の眉間を正確に刺し貫く。脳を破壊された巨獣は、絶叫する間もなくその場に崩れ落ちた。
三頭目が、仲間たちの無残な死に怯む。その一瞬の躊躇を、カイは見逃さなかった。『共鳴感知』が捉えた律動の淀み――心臓の位置を、彼は完璧に捉えていた。漆黒の刃が、硬い毛皮と分厚い筋肉をバターのように切り裂き、その命を刈り取る。
阿鼻叫喚の地獄は、ほんの数十秒で終わりを迎えた。
森は、再び静寂を取り戻した。残されたのは、獣の血の匂いと、点在する牙猪の死体、そして、呆然と立ち尽くす四人の兵士だけだった。
彼らは、まるで信じられないものを見るかのように、カイを見つめていた。
グレゴールは、構えたままの盾をゆっくりと下ろした。あの指示は、偶然ではない。戦場の全てを俯瞰したような、最適解だった。だが、それ以上に、あの男の剣……あれは、鍛錬で至れる領域のものなのか?
「……血抜きをして、食える肉だけ確保する。明日の食料になる」
淡々とした声が、夜の森に響いた。その寡黙な背中を見つめながら、四人の間には、以前のような不信感よりも、強い困惑があった。
この男は一体、何者なんだ?
声にならない問いが、四人の胸の内に重く響いていた。




