第4話 甘い毒
テッラローザの夜。磨き上げられたマホガニーのテーブルには、飲み残されたワインのグラスが数脚、ルビーのような赤い液体を揺らめかせている。
ビロード張りの長椅子は、座る者の体重を柔らかく受け止める。部屋の隅では暖炉の火がパチパチと控えめな音を立て、揺れる炎が壁に掛けられた、異国のものと思しき精緻なタペストリーに不規則な影を落としていた。
高級な香油と、カーラ・ロッシが纏うジャスミンの甘い香りがふわりと漂ってくる。
「満腹になったし、少し疲れた。儂は先に休ませてもらうかの」
食事と、思いがけない呪いのネックレス鑑定騒動が一段落し、やや時間が経過した頃。先ほどまでの鑑定騒ぎが嘘のように、ベルクトは満足げに腹をさすりながら立ち上がった。
その言葉に、カーラは待っていましたとばかりに優雅な笑みを浮かべる。
「ええ、ベルクト様。奥に快適なお部屋をご用意させておりますわ。プリルちゃんも、こちらへどうぞ」
「おやすみなのー!」
プリルはカーラの言葉に嬉しそうに跳ねると、ベルクトの外套の裾にまとわりつき、二人は部屋の奥へと消えていった。
重厚な扉が、まるで舞台の幕が下りるかのように静かに閉まり、カイはカーラと二人きりでこの密室に取り残された。
静寂が、獲物を絞め殺す大蛇のように、カイの首筋にまとわりつく。
暖炉の炎がぱちり、と小さな音を立てて爆ぜた。それがやけに大きく聞こえた。
「さて、と」
カーラは、まるで新しい芝居の幕を開ける女優のように、カイに向き直った。その蜂蜜色の瞳が、暖炉の光を映して妖しくきらめいている。
彼女はカイが座る長椅子の、すぐ隣に腰を下ろした。
ビロードが軋む音。ふわりと、先ほどよりも濃厚なジャスミンの香りがカイの鼻腔をくすぐる。
肩が触れ合うか、触れ合わないかの、息が詰まるような距離。
カイは無意識に身を固くした。行商人としてのくたびれた麻の服が、この豪奢な空間ではあまりに場違いで、まるで借り物の皮膚のように落ち着かない。
握りしめた拳には、じっとりと汗が滲んでいた。
「それにしても不思議だわ、カイくん」
カーラの声は、羽毛で耳朶を撫でられるような、甘く柔らかな響きを持っていた。
「あなた、あのベルクト様にずいぶん物怖じしないのね。まるで……長年連れ添った従者のようにも見えるし、時には対等な友人同士のようにも……一体どういうご関係なのかしら?」
その問いは、純粋な好奇心を装いながら、カイの心の最も柔らかい部分を探る、鋭い針のようだった。
カイの視線はカーラの顔と、テーブルの上のワイングラスと、己の汚れた指先との間を、寄る辺なくさまよう。
「べ、ベルクトの知り合いなのか? 俺は……偶然、旅を一緒にしてるだけで……」
声が、自分のものではないように上擦った。
カーラがベルクトについて何か知っているのかもしれない、という期待。同時に、自分たちの関係をどう説明すればいいのか、という戸惑い。その二つの感情が、カイの喉をつかえていた。
カーラは、その答えを聞いてくすくすと喉を鳴らした。その笑い声は、まるで小さな銀の鈴が転がるようだ
「知らないで一緒にいるの? ふふ、カイくん、あなた本当に面白いわ。彼はね、アウレリア王国ではちょっとした有名人なのよ」
彼女は一度言葉を切り、カイの瞳をじっと覗き込んだ。その蜂蜜色の罠に捕らえられた蝶のように、カイは身動きが取れなくなる。
「最高の賢者にして、最も危険な禁忌を犯した王国の敵。……私の知っている“お話”、もっと聞きたい?」
王国の敵。その言葉は、冷たい刃となってカイの胸に突き刺さった。
野盗たちを眠るように殺した、あの静かで無機質な光景が脳裏に蘇る。
ベルクトが、ただの風変わりな老人ではないことは分かっていた。だが、王国の敵、とまで言われるほどの存在だとは。
カイは、ただ黙って頷いた。喉が渇き、声が出なかった。全身の血が、その“お話”とやらを渇望していた。
カーラは、カイのその反応を見て満足そうに微笑んだ。その笑みは、小鳥が罠にかかったのを確認した狩人のそれによく似ていた
「そうね…、情報はタダじゃないの、カイくん。私、こう見えても情報屋のはしくれなのよ」
彼女は優雅な指先でワイングラスを傾け、その赤い液体を揺らしながら言った。
「でも……、カイくんには呪いのネックレスの件で大きな"貸り"ができたし……。それに、あなたみたいな純粋で、それでいてどこか底知れないものを持っている子、結構タイプなのよね」
カーラの指先が、カイの腕に、そっと触れた。その柔らかな感触と、肌を通して伝わる微かな熱に、カイの心臓は大きく跳ねた。
「だから、もしカイくんが、私と“仲良く”してくれるなら、私の知っているベルクト様の恐ろしい秘密、洗いざらい教えてあげてもいいわよ?」
甘い、毒の囁きだった。
カイは、その言葉の意味を理解するのに、数瞬を要した。そして理解した瞬間、全身の血が沸騰し、顔に集まっていくのを感じた。“仲良く”。その言葉が示すものが何か、十五歳の少年とて、分からないほど鈍感ではない。
強い羞恥心と罪悪感が、嵐のように胸の中で渦巻いた。
自分のような何の値打ちもない行商人が、宝石のように美しい女性に求められている。その事実が、目眩すらするような高揚感を芽生えさせた。
カーラの指先が、カイの頬を撫でた。
「私と…"仲良く"してくれる?」
カーラの蜂蜜色の瞳が、じっとカイの答えを待っている。その瞳の奥に、打算的な色が混ざっていることは、カイにも理解できた。しかし好奇心と、カーラの巧みな誘い、そして誰かに受け入れられたいという寂しさが、カイの思考を甘く溶かした。
喉がカラカラに渇き、声が出ない。
彼はカーラの視線から逃げるように俯き、数秒間ためらった後、ただ小さく頷いた。
カーラの吐息が、すぐ耳元で熱を帯びた。揺らめく暖炉の炎が、二人の影を一つに溶かしていく。
誤字脱字の報告、ありがとうございます!