幕間4 移り香と陽炎
カーラの部屋を出た時、テッラローザの空は黄昏に染まっていた。レナータの工房へと続く石畳の道が、やけに長く、冷たく感じられた。
工房へ戻ると、奥で炉火が明滅し、壁に巨大な影を踊らせている。レナータはそこで槌を握り、金床の上に置かれた金属片を、一心に見つめている。火花に照らされた横顔は彫像のように真摯で、美しかった。
カイの帰還に気づき、彼女はゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつもと変わらない静かなものに見えた。
「……おかえり」
平坦な、感情の起伏を感じさせない声。しかし、その声は、普段よりもどこか張りつめて聞こえた。
「ああ。……ただいま」
喉の奥から絞り出すように答えるのが精一杯だった。レナータが、こちらへ向かって歩いてくる。炉の赤い光を背にした彼女のシルエットは、いつもより大きく、そしてどこか近寄りがたい威圧感を放っていた。
カイの横を通り過ぎようとした瞬間、彼女の動きが不自然に、コンマ数秒だけ停止した。彼女の鼻が、かすかにひくついたのを、カイは見逃さなかった。
レナータは、何も言わなかった。
ただ、その表情からすっと温度が消え失せた。まるで精巧に作られた美しい彫像のように凍りついた横顔で、カイの前を通り過ぎていく。彼女の肩が、カイの腕を微かに掠めた。その一瞬、彼女の身体が硬直しているのが伝わってきた。
「……奥に、スープがあるわ。冷めないうちに食べて」
そう言って、彼女は居住スペースへと続く扉の向こうに消えた。後に残されたのは、圧倒的な沈黙と、急激に重みを増した工房の空気だけだった。まるで真空に放り出されたかのように、呼吸が苦しい。カイは、その場に縫い付けられたように、しばらく動くことができなかった。
※※※※※※
夜が更けても、カイは眠れずにいた。
工房の片隅、寝床としてあてがわれた簡素なベッドに腰掛け、炉の中で揺らめく残り火をただぼんやりと眺めている。その赤い光が、壁際にかかった武具の数々を、不気味に照らし出していた。
工房へ帰ってから、レナータとの間には薄氷のような緊張が張り詰めていた。彼女は黙ってスープを温め直し、カイの前に置き、そしてまた黙って自分の作業台へと戻っていった。背中を向けたまま、一心不乱に砥石で刃物を研ぐ。規則的な金属音だけが響いた。
カーラとレナータ。二つの記憶が、彼の頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、心を苛んでいた。
その時、背後で微かな物音がした。居住スペースの扉が、軋みながら開く。振り返ると、レナータがそこに立っていた。手には、琥珀色の液体が満たされた瓶と、二つの杯が握られている。彼女が普段飲むような安物のエールではない。もっと度数の高い、特別な時にしか開けない蒸留酒だった。
彼女は、カイの正面に回り込むと、無言で杯の一つを差し出した。その指先が、微かに震えている。カイは、戸惑いながらもそれを受け取った。レナータは自分の杯にもなみなみと酒を注ぎ、こくり、と一口で喉に流し込む。その白い喉の動きが、生々しく闇に浮かび上がった。
「……眠れないの?」
「……ああ」
ようやく発せられた声は、やはり乾いていた。潤いを失った砂のようだ。
彼女は黙って、酒を呷る。そのペースは明らかに速い。彼女の横顔を盗み見る。炉の炎に照らされたその頬は、いつもよりずっと赤く、瞳は潤んでいるように見えた。
カイが視線を落としたままでいると、レナータが意を決したように、しかし、やはり視線は合わせずに呟いた。
「……あの女狐に、何を吹き込まれたの?」
カイの心臓が、肋骨を内側から叩きつけるように、大きく跳ねた。
「あいつ、面白がって人の心をかき混ぜるのが、昔から得意だもんね……」
その声には、カイを案じる響きと、カーラへの焼けつくような嫉妬の色が、渦を巻いていた。
カイが何も答えられずにいると、レナータはゆっくりと立ち上がり、カイの隣に、どさりと腰を下す。彼女の体温が、服越しにじわりと伝わってきた。
震える手が、伸びてくる。そして、レナータの、鍛冶で硬くなった指先が、カイの服の襟を、強く、鷲掴みにした。
「……あんたの身体から、あの女の匂いがするの、気に入らないわ……」
絞り出すような、掠れた声。その言葉は、もはや鋭利な刃ではなかった。もっと鈍く、重い、破壊的な質量を持った鉄槌となって、カイの胸の中心を粉々に打ち砕いた。
「レナータ、俺は……」
弁解の言葉は、見つからなかった。
カイの答えを待たずに、レナータは自ら彼の唇を、塞いだ。
それはキスというより、噛みつくような行為だった。歯がガツリとぶつかる。酒の匂いと、彼女の怒りが、カイの口内になだれ込んできた。一度目のような、互いの傷を確かめ合うような優しさや切実さとは全く違っていた。カーラへの剥き出しの対抗心からくる、少し乱暴で、相手を自分のものだと主張するような、激しいものだった。
レナータはカイをベッドに押し倒し、その上に覆いかぶさる。彼女の体重が、ずしりとカイの身体にかかった。カイのシャツを、ボタンを引きちぎるようにして剥ぎ取っていく。その手つきは焦りと怒りで、ぎこちなく震えていた。
「……あの女みたいに、上手くなんてできないけど」
一度唇を離し、レナータは喘ぐように言った。見下ろしてくる瞳は、涙で濡れ、炎の光を反射してきらめいている。
「あんたの好きにしていいわよ」
カイは、レナータのその意外なほどの激しさに戸惑いながらも、抗うことができなかった。彼女の自分への強い執着に、背徳的な喜びさえ感じる。
彼は、彼女の腰に手を回し、その身体を強く引き寄せた。レナータの背中の、日々の労働が作り上げたしなやかな筋肉の感触が、手のひらに伝わる。
レナータは、まるで猫が自分の匂いをつけるように、カイの肌に自らの肌を擦り付ける。その動きは、経験豊富なカーラとは比べ物にならないほどぎこちない。
そんな彼女の必死さに、カイの理性は、容易に焼き切れた。彼は体勢を入れ替え、今度は自分がレナータの上に覆いかぶさる。驚きに見開かれる熾火色の瞳。その瞳に映る自分は、欲望に歪んだ獣のような顔をしていた。
彼女の衣服の紐を、焦れるように解いていく。現れた白い肌は、炉の炎に照らされて、艶めかしく輝いていた。そこに顔をうずめると、鉄とハーブの香りに混じって、彼女自身の甘い肌の匂いがした。
「……カイ」
彼女が、掠れた声でカイの名を呼ぶ。その声が、引き金になった。互いの肌を求める音、荒い息遣い、そして時折漏れる、苦痛とも快楽ともつかない声だけが、夜の工房に響き渡る。
「もっと……あの女のことなんて、忘れさせて……っ」
その言葉は、カイの罪悪感を再び燃え上がらせた。彼は、懇願に応えるように、その動きをさらに激しくする。
彼女の爪が、カイの背中に食い込み、幾筋もの赤い線を描いた。その痛みが、カイの思考を完全に麻痺させていく。
やがて、炉の炎はいつしか細くなり、工房には静寂が戻る。二人はただ黙って、汗と、そしておそらくは涙で濡れた身体を寄せ合った。レナータは、カイの胸に顔をうずめたまま、微かに震えていた。カイはただ、彼女の髪を、その汗で濡れた滑らかな感触を確かめるように、そっと撫でることしかできなかった。




