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第43話 帰る家

 ロッカの街を後にしてから、数週間が過ぎていた。


  カイが背負う荷物は、旅を始めた当初とは比べ物にならないほど重かった。その重さの大部分を占めているのは、布に厳重に包まれた龍の角と、革袋に納められた龍心だった。道中、荷物を下ろす際に岩にぶつけてしまったことがあったが、岩の方が砕ける始末で、黒曜石のような龍角には擦り傷一つついていなかった。その異常なまでの硬さが、これが世界の法則から逸脱した何かであることを、カイに静かに告げていた。


 季節は、あの忌まわしい厄災を置き去りにするように、着実に歩を進めている。道端には名も知らぬ夏の花が咲き乱れ、木々の葉は力強い深緑色となって、太陽の光を浴びていた。


 カイは、ただ黙々と歩き続けた。 プリルは、彼の肩の上で定位置を見つけ、時折、道端の蝶や鳥に反応しては楽しげに体を揺らしている。その無邪気さが、カイにとっては数少ない慰めだった。


 やがて、見慣れた城壁と、赤茶色の屋根が連なる街並みが見えてきた。


 鍛冶の街、テッラローザ。 カイがベルクトと共に流れ着き、短いながらも穏やかな日々を過ごした場所。


 街の入り口で響く、リズミカルな槌音と、もうもうと立ち上る黒い煙。


 その全てが、ひどく懐かしいはずなのに、カイの目にはどこか現実感のない、遠い世界の風景のように映った。


 レナータの工房の前に立った時、カイの足はまるで地面に縫い付けられたかのように止まった。 武骨な木の扉。その向こうから、カン、カン、と響く槌音と、ふいごが空気を送り出す低い唸り声が聞こえてくる。何も変わっていない。カイは一度、固く拳を握りしめ、そして、ゆっくりと息を吐き出した。意を決して、扉を三度、叩く。


 槌音とふいごの音が、ぴたりと止んだ。 数秒の沈黙の後、荒々しい足音が近づいてきて、ぎぃ、と軋む音と共に扉が開かれた。 中から現れたのは、汗と煤にまみれ、革のエプロンを身につけたレナータだった。彼女は訝しげに眉をひそめ、そこに立つのが誰かを確認しようと目を細める。そして、カイの姿をはっきりと認めた瞬間、その熾火色の瞳が驚愕に見開かれた。


「……カイ……?」


 息を呑む音。彼女は手にしていた鉄槌を、がちゃんと音を立てて床に取り落とした。そして、心からの安堵が、驚愕の表情をみるみるうちに溶かしていく。


「カイ!無事だったのね…!」


 叫ぶが早いか、彼女はカイの前に駆け寄り、がしりと彼の肩を掴んだ。その手は、微かに震えている。


「本当に……良かった……!」


 その剥き出しの安堵と、ぶっきらぼうな彼女らしからぬストレートな言葉が、凍てついていたカイの心を、少しだけ溶かしていく。


 工房の中に招き入れられ、埃っぽい椅子に腰を下ろす。レナータは、ふいごの火を落とすと、水差しから乱暴に水を汲んでカイの前に突き出した。カイがそれを飲み干すのを、彼女は腕を組んで、じっと見つめている。


「……あの爺さんは、どうしたんだい。あんたと一緒じゃなかったのか」


 尋ねられるであろうことは、分かっていた。カイはカップを置くと、静かに顔を上げた。


「ベルクトは……死んだ。ロッカで、ヴォーラと戦って」


 淡々と、事実だけを告げた。


 レナータは、何も言わなかった。ただ瞳が、一瞬だけ、遠い場所を見つめるように彷徨った。彼女の脳裏に、あの偏屈で、しかしどこか憎めない賢者の姿が浮かんでいるのかもしれない。


 ややあって、彼女はふうっと長い溜息をついた。


「……そう。あの爺さん……逝っちゃったのね……」


 その声には、驚きよりも、いつか来ると分かっていた日が、ついに来てしまったというような、静かな諦念が滲んでいた。


 慰めの言葉は、一つもなかった。


 彼女はカイの肩をぽん、と一度だけ叩くと、話を切り替えるように言った。


「で? あんたが、あのヴォーラをねぇ……。大したものじゃないの、カイ。本当に、強くなって……」


 そのストレートな称賛の言葉が、誰からのどんな賛辞よりも、カイの心に深く沁みた。


 カイは、意を決して、背負っていた荷物を作業台の上に置いた。


「これを、武具にしてほしいんだ」


 ずしり、と工房の床が軋むような重い音が響く。布の包みを解くと、中から現れたのは、夜の闇をそのまま固めたような、螺旋状の巨大な龍角だった。さらに、革袋から取り出した、内側から淡い光を放っているかのような乳白色の龍心と、黒曜石のような龍の鱗も並べる。


  それらが作業台の上に置かれた瞬間、工房の空気が変わった。 レナータの目が、彼女の工房に並ぶどんな金属よりも鋭く、そして硬質な光を宿した。


「……とんでもない代物ね。これだけの魔力と密度を持つ物質は、見たことも聞いたこともない。これが、あのヴォーラの…」


 彼女は、作業台の脇にかけてあった、自分用の大ぶりの鉄槌を手に取った。そして、カイに向かってにやりと笑いかける。


「ま、試させてもらうわ」


 言うが早いか、レナータは渾身の力を込めて、龍角の先端に鉄槌を振り下ろした。


 ガギィィィンッ!! 鼓膜を突き破るかのような、凄まじい金属音。


 工房中に火花が飛び散る。


 カイは思わず目を閉じた。そして、恐る恐る目を開けると、龍角には、傷一つ、へこみ一つついていなかった。 逆に、レナータが振るった、鍛え上げられた鋼鉄の鉄槌の方が、まるでガラス細工のように、頭から粉々に砕け散っていたのだ。


「……はっ」


 レナータの口から、乾いた笑いがこぼれ落ちた。彼女は、柄だけになった槌を投げ捨て、自らの指先がじんじんと痺れているのを確かめるように、手を開いたり閉じたりしている。


 その顔には、絶望ではなく、子供のような、獰猛な好奇心の色が浮かんでいた。


「なるほどね。ロッカの職人たちが匙を投げたわけだ。こんなもの、どうやって加工するって言うんだ?」


 彼女の問いに、カイは静かに答えた。


「ベルクトが、方法を遺してくれた」


 カイは懐から師のノートを取り出し、レナータに渡した。レナータは訝しげにそれを受け取ると、走り書きされたページを読み進めていく。彼女の目が、驚きに見開かれていく。


「……同種の物質間でのみ、魔力伝導が発生する……?つまり……」


「龍の素材でしか、龍の素材は加工できない」


 カイがその言葉を告げた瞬間、レナータは全てを理解したようだった。彼女は天を仰ぎ、声を上げて笑い出した。


「はっ、ははは! あのクソ爺さん!とんでもない宿題を残していくじゃないの! 」


 彼女の笑い声には、呆れと、そして、不可能への挑戦権を得た至上の歓喜が満ち満ちていた。彼女はノートをカイに突き返すと、作業台の上の龍角を、まるで愛しい恋人を見るかのような目つきで撫でた。


 彼女はカイに向き直り、その熾火色の瞳を真剣な光で輝かせた。


「分かったよ、カイ。あんたの依頼、受けたわ。最高の素材には、最高の仕事で応えるのが鍛冶師のプライドだもんね」


 その夜、カイはかつて寝泊まりしていた工房の離れで、一人、ランプの灯りの下にいた。 レナータは、カイから受け取ったベルクトのノートの写しと龍素材に没頭し、寝食も忘れて設計図の製作に打ち込んでいる。


 工房からは、時折、彼女の興奮したような独り言や、金属を引っ掻く音が聞こえてきた。 カイは、残された師のノートを、改めて丁寧に開いていた。


 ベルクトの探求の軌跡。


 そこには、世界のあらゆる事象を「律動」という観点から解き明かそうとした、彼の執念が詰まっていた。


 何気なくページをめくっていたカイの手が、ある場所でふと止まった。 ヴォーラの研究記録よりもさらに前のページ。一見、他の難解な研究記録と同じに見えるが、その表題が、カイの目を強く引きつけた。


『シエナ・アウレリア — “魂彩の鏡”に関する所見』


 アウレリア王女、シエナ。 その名前に、カイの心臓がどきりと跳ねた。ベルクトが、死の間際に口にした名前。 なぜ、こんな研究記録の中に、王女の名前が? カイは、吸い寄せられるように、そのページを読み進めていった。


『――シエナ・アウレリアの祝福、仮称『魂彩の鏡』。これは、他者の魂が放つ微弱な律動を、色彩として視認する極めて稀有な知覚能力である。真実の感情は暖色系の鮮やかな色として、偽りや悪意は寒色系の濁った色として、彼女の網膜には映るという。魂の直接観測としては精度、再現性において比類なく、魂魄研究における価値は非常に高い。』


『――しかし、その代償は計り知れない。術者は、常に他者の生の感情の奔流に晒されることになる。特に、虚飾と欺瞞が渦巻く王宮のような環境は、彼女の精神を絶えず摩耗させる。人の内面に渦巻く醜悪な感情を、色として、あるいは不協和音として、四六時中知覚し続ける苦痛は、常人の想像を絶する。』


『――この興味深い対象が早期に失われるのは、研究者として、また多少なりとも彼女の教育に関わったものとして、忍びない。彼女が精神を保ったまま長期生存するためには、彼女自身による能力の基本的なオン/オフ制御の習得が必要……』


 読み終えた時、カイは息をするのも忘れていた。


 「ルステラにいるシエナという娘を頼む」――ベルクトの最期の言葉が、脳内で鮮明に蘇る。


 それは、単なる心残りなどではない。危機に瀕しているかつての教え子を救ってほしいという、なんだかんだで情に厚いあの悪友からの、不器用で、最後の祈りだったのだ。


 カイは、静かにノートを閉じた。 ランプの灯りが、彼の顔に深い陰影を落としている。


 窓の外には、テッラローザの街の灯りと、その向こうに広がる、星々のきらめく夜空が広がっている。 彼は、その空の、東の一点を見つめた。 そこに、王都ルステラがある。


 新たな旅が、始まろうとしていた。

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