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第42話 難題

 数日が、夢と現実の狭間のような時間として過ぎ去っていった。


 カイは、領主代理が用意した、比較的被害の少なかった屋敷の一室に身を置いていたが、その記憶はひどく曖昧だった。誰かが運んでくる食事にはほとんど手を付けず、ただ窓の外を、あるいは虚空の一点を、何時間も飽きず、いや、何も考えずに見つめ続けていた。


 ベルクトの亡骸は、カイの強い願いで、屋敷の一室に丁重に安置されていた。ロッカの生き残りの人々が、英雄の師に敬意を払い、清めた布でその体を包み、安息の香を焚いてくれている。だが、カイは一度もその部屋を訪れることができなかった。師の永遠の沈黙と向き合う勇気が、まだ彼にはなかった。


 転機が訪れたのは、街の職人たちが、ヴォーラの素材の利用をカイに願い出た時だった。


「英雄殿。あの龍の亡骸は、我々にとって恐怖の象徴だ。しかし同時に、その鱗や角は、街の復興のための比類なき資源ともなりましょう。どうか、我々にあれの解体と加工の許可を…」


 虚ろなまま頷いた。カイには、もはや何の興味もなかった。


 だが、作業は初日から絶望的な壁にぶつかった。


 ロッカで最も腕利きと謳われた老鍛冶が、渾身の力を込めて鋼の戦斧をヴォーラの鱗に振り下ろす。


 キィン、と甲高い金属音が響き、火花が散った。


 巨大な鱗は擦り傷一つなく、むしろ鋼の斧刃の方が無残に欠けていた。


「馬鹿な…俺の斧が…」


  他の職人たちが、特殊な合金のノミや、工夫を凝らした大型の鋸で挑むが、結果は同じだった。まるで、一つの巨大なダイヤモンドの塊に挑んでいるかのようだった。あらゆる道具が通用しない。 数日も経つと、ロッカの職人たちの間に、諦めと、神聖なものへの畏怖が広がっていた。


  「駄目だ…これは、我々人間の手に負える代物じゃない」


  「俺たちは触れることすら許されていねぇのかも……」


 その様子を、カイは部屋の窓からただぼんやりと眺めていた。


 その夜、プリルが、彼の胸元で心配そうに体を揺らした。


「ねぇ、カイ……。ベルクトの、ノート……」


 その言葉に、カイははっとした。


 懐に手を入れ、師の血で少しだけ染まった革張りの手帳を取り出す。


 彼の遺品。


 カイは、ランプの灯りの下で、ゆっくりとそのページをめくった。難解な数式。古代の術式。そして、最後の数ページに、あの乱れた走り書きを見つけた。


 以前カイはそのページを一度だけ読んでいた。だが、その時の彼の心は悲しみに閉ざされ、言葉の意味を正しく理解できてはいなかった。今、改めてその文字を追う。


『――驚くべき物質だ。無数の魂魄に鍛えられた龍の肉体は、既存の物理法則がほぼ通用しない。硬度、抵抗値、いずれも計測不能。人の手による加工は、理論上、不可能である』


 職人たちの絶望は、正しかったのだ。 だが、ベルクトの記述は、そこで終わってはいなかった。


『――しかし、極めて重大な例外を発見した。この物質は、それ自体が最高の絶縁体でありながら、同種の物質――つまり、龍の体組織同士が接触した際に限り、その接触点を介して、極めて効率的な魔力伝導体へとその性質を変化させるのだ。龍自身が魔術に秀でていることを鑑みれば、この特性は必然といえる』


 彼の生涯をかけた探求の、その知見の欠片。 カイの目に涙が、こみ上げてくる。それを乱暴に袖で拭うと、ノートを強く握りしめ、立ち上がった。


 広場では、職人たちが諦め顔で焚き火を囲んでいた。


 カイはその中をまっすぐに突っ切ると、巨大なヴォーラの亡骸の前へ立った。そして、地面を注意深く探し始めた。


 戦闘の衝撃で、本体からかろうじて剥がれ落ちた、掌ほどの大きさの鱗の破片。


 ずしりと重く、ひんやりとしている。 彼は、その破片を握りしめ、ヴォーラの巨体に足をかけ、肩のあたりまでよじ登った。そして、巨大な鱗と鱗の、髪の毛一本ほどの隙間に狙いを定めると、手に持った鱗の破片の鋭利な角を、ぐっと押し当てた。


  「英雄様……? 無駄ですぜ、そんなものでは……」


  職人の一人が、哀れむような声をかける。 カイは応えなかった。ただ、目を閉じ、精神を集中させる。そして、接触させた鱗の破片に、自らの魔力を静かに、しかし強く流し込んだ。


 次の瞬間、信じられないことが起こった。


 カイの魔力は、本来なら鱗の破片に弾かれるはずだった。だが、破片は本体の鱗に接触している。


 接触点から、青白い光が一閃した。


 流し込んだ魔力は、破片から本体の巨大な鱗へと、まるで水が乾いた砂に染み込むように、吸い込まれていったのだ。


 魔力が流れ込んだ本体の鱗は、その部分だけが内側からほのかに発光し、構造を支えていた結合が、ほんの一瞬だけ、緩んだ。


「今だッ!」


 カイが叫ぶ。 その声に、麓で見ていた職人たちが、はっと我に返った。


 老鍛冶が、身の丈ほどもある巨大な鉄の楔を手に、駆け出す。


  「力を貸せ!」


  職人たちが、何本もの鉄の棒を、カイが指定した鱗の隙間にねじ込む。そして、呼吸を合わせ、渾身の力を込めて、それをこじ開けようとした。


「うおおおおおッ!」


 男たちの雄叫びが響く。ミシミシ、と、世界の理が軋むような音がした。


 そして、バキッ、という、山が一つ崩れるかのような凄まじい音と共に、巨大な黒い鱗がついに本体から剥がれ落ちた。 どしん、と大地を揺るがして落ちた鱗を見て、職人たちは、そしてカイも、息を呑んで立ち尽くした。


 広場に、歓声が上がった。


 その日から、解体作業は一変した。 最初に手に入れた一枚の鱗が、次の鱗を剥がすための「鍵」となった。職人たちは、剥がした鱗を加工して、より効率的なノミやハンマーを作り出した。龍素材で作った道具でしか、龍素材は加工できない。彼らはこの新しい法則を、興奮と共に学んでいった。


 その中心でカイは指揮を執り続けた。どの部位に、どれくらいの魔力を、どの角度から流し込めば結合が緩むのかを的確に指示した。無心で打ち込むこの共同作業が、カイの心を少しずつ癒していった。


 やがて、分厚い鱗と骨を乗り越え、彼らはヴォーラの胸を裂き、乳白色に輝く「龍心」を取り出した。そして、頭蓋を割り、天を衝く巨大な「龍角」を切り出すことに成功した。


 全ての作業を終えた時、ロッカの街には、復興の希望を象徴するかのような、黒く輝く素材の山が築かれていた。


 数日後。ロッカの街を見下ろせる、風の強い小高い丘の上に、一つの墓が立てられた。


  石は、ロッカの石工が英雄の師に最大限の敬意を込めて提供した、上質な凝灰岩だった。そこには、ただ一言、「賢者ベルクト、ここに眠る」とだけ刻まれている。 カイは、墓の前に一人で立った。 そして、ベルクトから教わった風の魔法を静かに行使する。優しい風が巻き起こり、真新しい墓石の周りの埃を、そっと払い清めていった。


 プリルが、どこからか見つけてきたのだろう、白い野の花を、墓の根元にそっと置いた。


「ありがとう、ベルクト」


 カイは、墓石に向かって深く頭を下げた。 短い旅だった。 だが、人生のすべてだった。


 静かに丘を下りる。振り返ることは、しなかった。

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