第37話 ロッカ蹂躙
世界の終焉は、きっとこんな色をしているのだろう。
街から立ち上る劫火が、白み始めた東の空さえも、血のようにどす黒い赤に染め上げていた。かつて街の誇りであった鐘楼は、根元から無残にへし折れ、沈黙したまま天を指している。石造りの家々は、子供が癇癪を起こして踏み潰した玩具のように砕け散り、そこかしこで立ち上る劫火が、渦巻く黒煙とともに空を舐めていた。
地面は、ぬかるんでいた。雨ではない。瓦礫と、おびただしい量の血が混じり合ったもので。
吐き気を催す臭気があたりに満ちていた。肉の焼ける甘ったるい匂い。錆びた鉄のような血の匂い。煙と埃が混じり合った、肺を刺す刺激臭。それらが分かち難く絡み合い、呼吸のたびに、死そのものを吸い込んでいるかのような錯覚に陥る。
「…………ぁ」
カイの喉から、声にならない嗚咽が漏れた。街を見下ろす高台から、彼はその地獄絵図を呆然と見下ろしていた。
地響きを伴う轟音が、また一つ街のどこかで響き渡った。漆黒の巨龍――“貪食者”ヴォーラが、ただ気まぐれに尾を振るっただけで、一つの建物がたやすく崩壊する音だ。
貪食者ヴォーラ。全長四十メートルはあろうかという漆黒の巨体。その存在自体が、自然の法則に唾を吐きかける冒涜であった。火山岩のようにゴツゴツとした鱗は、燃え盛る炎を浴びて、ぬめりとした油のような光沢を放っている。翼の一振りは、それだけで暴風を生み、残った家屋の屋根を紙屑のように吹き飛ばした。
「ひ、ぃぃいぃぃっ!」
「助けて!誰かっ、母さんが……!」
途切れることのない悲鳴が、悪夢のBGMのように響き渡る。カン、カン、カン、と狂ったように打ち鳴らされる警鐘の音は、もはや警告ではなく、街そのものが引き裂かれる悲鳴のように響いていた。
ヴォーラが、ゆっくりと首を巡らせる。その動きには、獣の性急さはない。幾星霜を生きた生物だけが持つ、悪意に満ちた狡猾さと、絶対的な捕食者としての余裕があった。
「グ、オオオオオオオオオオッ……!」
咆哮。それは音というよりも、質量の塊だった。空気が震え、大地が揺れ、カイの骨の髄までが共振する。
次の瞬間、ヴォーラの顎が開き、劫火が奔流となって吐き出された。広場の一角が瞬時に炎に呑まれ、そこにいたはずの人影が、悲鳴を上げる間もなく炭化していく。
「逃げろ!避難区画へ急げ!」
絶望的な戦力差の中、ぼろぼろになった鎧を纏った衛兵たちが声を張り上げていた。彼らは、もはや竜を倒すことなど考えていない。ただ一人でも多くの住民を、城壁の内側にある最後の砦へと逃がすため、自らの命を盾にしていた。
魔術師たちが必死に炎の壁を生成し、巨龍の進路を塞ごうとするが、ヴォーラはせせら笑うかのように翼を一度はためかせただけだった。それだけで発生した突風が、炎の壁をまるで蝋燭の火のように吹き消してしまった。 抗いようのない、絶対的な暴力。神話の厄災が、今、現実のものとして目の前で繰り広げられている。
「なんだ…これ…地獄じゃないか…」
口から、再び乾いた声が漏れる。足が、震えて動かない。怖い。死にたくない。本能が警鐘を鳴らし続けている。
そのとき、カイの視線の先に、ひときわ頑丈そうな石造りの工房が目に入った。扉の上に掲げられた看板には、槌を交差させた意匠が刻まれている。レナータが言っていた、ロッカの鍛冶アルティの紋章だ。そして、その下には『マルコ』と読める名が刻まれていた。
その工房の前で、一人の頑固そうな老人が声を張り上げている。剣を振るうでもなく、魔法を放つでもない。ただ、己の身を盾にするように両腕を広げ、工房に逃げ込もうとする若い職人や怯える子供たちを庇い、必死に避難を指示している。その姿は、カイがレナータから聞いていた「頑固だが、誰よりも仲間思いの職人」という人物像そのものだった。
その時、ヴォーラの紅蓮の瞳が、その一団を捉えた。 まるで蝿でも払うかのように、巨大な尾がしなり、横薙ぎに振るわれる。
轟音。
マルコ爺の工房が、彼が人生をかけて守ってきた仕事場が、積み木のようにあっけなく崩壊した。老人は、最後まで逃げ遅れた子供を庇うように覆いかぶさったまま、瓦礫の濁流に飲み込まれていった。
レナータに作ってもらったばかりの剣が、腰で冷たい存在感を主張している。だが、その柄を握ることすら、今のカイにはできなかった。震える指先が、言うことを聞かない。
「――カイ」
隣に立つベルクトが、静かに名を呼んだ。彼の横顔は、眼下の惨状を映してもなお、氷のように冷静だった。しかし、その瞳の奥には、普段の彼からは想像もつかない光が揺らめいていた。研究対象を前にした、純粋で、それ故に狂気的な探求者の興奮。そして、その隣で恐怖に凍り付く弟子を見据える、師としての複雑な感情。
カイのすぐ足元では、プリルがマントの裾に必死にしがみついていた。その半透明の体は恐怖で真っ白に濁り、小刻みに震えている。街に満ちる無数の魂の断末魔が、その小さな存在を苛んでいるのだ。
カイの視線の先で、一人の衛兵がヴォーラに立ち向かっていた。だが、その渾身の剣撃は、硬い鱗に阻まれて甲高い音を立てて弾かれる。次の瞬間、ヴォーラの爪が、まるで蝿でも払うかのように振るわれ、衛兵の体は宙を舞い、肉塊となって壁に激突した。
ああ、駄目だ。勝てない。
あんなものに、人間が勝てるわけがない。
カイの心が、現実を拒絶しようと悲鳴を上げる。理想も、覚悟も、この絶対的な暴力の前では、子供の戯言に過ぎなかった。
その時だった。
「――カイ! やるぞッ!」
鼓膜を突き破るような、ベルクトの一喝。
それは、魔法ではない。だが、カイの魂を直接掴んで揺さぶるような、有無を言わせぬ意志の力があった。
カイは、弾かれたように顔を上げた。
ベルクトが、カイを真っ直ぐに見据えていた。その瞳は、もはや老人のそれではない。燃えるような意志を宿した、戦士の目だった。
「私とて、弟子が目の前で塵になるのを黙って見ている趣味はない!」
理不尽な物言いだった。だが、その言葉が、カイの凍り付いた心を無理やりこじ開けた。
恐怖は消えない。足はまだ震えている。
それでも――。
カイは、奥歯を強く、強く噛み締めた。唇の内側が切れ、じわりと血の味が広がる。その生々しい痛みが、彼を現実へと引き戻した。
「……ああ。分かってる」
彼は、ゆっくりと、しかし確かな手つきで、腰の長剣『糸杉』を抜き放った。
刀身が、地獄の炎を映して、不気味に煌めく。




