第33話 短すぎる安寧
灰色の渓谷の息詰まるような岩肌を抜けると、世界は色彩を取り戻したように一変した。
なだらかな丘陵がどこまでも続き、空は目に痛いほど青い。乾いた土の道をアウレリアの陽光が満たし、時折、風にそよぐ葉擦れの音が耳に心地よかった。
街道の脇に腰を下ろし、昼食の準備を始めるカイの動きには、もう以前のような怯えや過剰な警戒心はない。
荷物から取り出したのは、昨夜のうちに仕込んでおいたパンだった。森で摘んだローズマリーを練り込み、石の上で焼いたそれは、不格好で焦げ付きもある。だが、ハーブとオリーブオイルの香ばしさが、乾いた空気に乗って鼻孔をくすぐった。
「ほらよ」
カイはそれを無造作に二つに割り、硬いチーズと干し肉を数枚添えて、隣のベルクトに差し出す。手帳に何かを記していたベルクトは作業の手を止め、自然な仕草でそれを受け取った。カイの肩の上では、プリルが体をぷるぷる震わせ、甲高い声で叫んだ。
「わーい!カイのパンだー!焦げてるー炭の味だよー!」
カイは「うるさいな」と呟きながらも、チーズの欠片を指先でつまんでプリルの口元へ運んでやる。その声に、以前のような苛立ちはない。
ベルクトは、いびつなパンを吟味するように眺め、一口かじった。口の中に、素朴な小麦の風味と、ローズマリーの青々しい香り、そしてチーズの塩気が広がる。
ベルクトはゆっくりと咀嚼しながら、事もなげに言った。
「君の料理は、その独創的な見た目に反して、味は存外悪くない」
いつもの皮肉めいた口調だが、その響きには慣れ親しんだ温かみが混じる。カイは、師であり、とんでもなく手のかかる友でもあるこの老人の背中へ、ぶっきらぼうに言葉を返した。
「文句があるなら食うなよ。まあ、あんたが嬉々として集めてくる毒キノコのフルコースよりは、よっぽどマシだと思うけどな」
灰色の渓谷で死の淵をさまよったベルクトの口に、必死で滋養のあるスープを流し込んだ数日間。あの記憶は、わずかな気まずさと、言葉にするにはもどかしい温もりを二人の間に残していた。
ベルクトは一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くしたが、やがて口元に、滅多に見せることのない、くしゃりとした笑みが浮かんだ。
「…違いない」
たったひと言。だが、それ以上を語る必要はなかった。カイは残りの黒パンを黙々と口に運びながら、ぼんやりと丘の向こうを見つめる。
陽光は暖かく、風は穏やかだ。隣には手のかかる友人と、やかましい相棒がいる。満ち足りた静寂が、午後を支配していた。
そんな平和は、唐突に終わりを告げる。鳥のさえずりに混じって聞こえる、微かな不協和音。金切り声のような悲鳴のような悲鳴。それが一つ、二つと重なり、やがて断末魔となって風に乗ってきた。
ゴリ、ゴリゴリ、ガリリッ――。
獣の骨を石臼で無理やり砕くような、湿り気と乾きが混じり合った悍ましい音が、断続的に響いた。
カイは食べかけのパンを持ったまま凍りつく。隣で古書に目を落としていたはずのベルクトも、ほとんど同時に顔を上げている。視線が交錯する。カイの肩の上で無邪気に揺れていたプリルは、不穏な響きを敏感に感じ取ってか、キュッと体を縮こませ、カイのマントに強くしがみついた。
「行くぞ」
ベルクトが短く告げ、立ち上がる。カイは食べかけのパンとチーズを慌てて革袋に押し込むと、レナータに託された長剣の柄を強く握りしめた。
音のする方角へ、丘を駆け上がる。近づくにつれて、音はより鮮明に、悪意に満ちたものになっていった。血と腹わたをかき混ぜた生温かく重い匂いが、風に乗って鼻腔を突き刺す。胃の底から苦いものがせり上がってくる。
そして、最後の丘を越え、カーブの先を目にした瞬間、カイは呼吸を忘れた。
地獄、という言葉しか思い浮かばなかった。
数台の荷馬車が横転し、積荷の穀物や色鮮やかな布地が、おびただしい量の血だまりの中に散乱している。荷馬の腹は熟れすぎた果実のように大きく裂けていた。そこから溢れ出た内臓を、数匹の巨大な魔物が貪っている。
石噛み虫。
岩盤のような鈍い鉄色の甲殻。体長は荷車ほどもあり、その頭部には岩盤をも砕くという一対の顎が、絶えず開閉している。濡れた黒曜石のようにぬめりと光る無数の複眼は、一切の感情を映さず、ただそこにある肉を咀嚼し、骨を粉砕することだけに集中している。
「妙だな。石噛み虫は本来、もっと北のロッカのような鉱山地帯に生息するはず。この辺りの丘陵地帯で、これほどの群れを成すなど聞いたことがない」
ベルクトが静かに呟いた。そんな冷静な分析は、カイの耳に届かなかった。
目の前で、まだ息のあった護衛の男が、必死に剣を振う。しかし、その刃は石噛み虫の硬い外殻に弾かれ、虚しい火花を散らすだけだった。
次の瞬間、一匹の石噛み虫が、低い姿勢から弾丸のように跳躍し、男の左足に噛みついた。
「ゴキャッ!」と湿った太い枝を力任せにへし折るような、鈍く湿った音が響き渡る。
男の脛の骨が、革鎧の上からでも分かるほど不自然な角度に折れ曲がり、彼は獣のような絶叫を上げた。
助けを求める男の叫びは、すぐに奇妙な音に変わった。別の石噛み虫が、倒れた彼の胴体に、無慈悲にその巨大な顎を振り下ろしたからだ。
硬い革鎧が乾いたビスケットのように砕け、その下の肋骨と背骨が熟れた果実のように圧壊していく。男の口から漏れたのは、もはや声ではなく、肺から絞り出された最後の空気が漏れる「ヒュッ」という微かな音だった。砕けた骨の隙間から、心臓と肺がまるで赤いソースのように溢れ出し、土埃と混じり合った。
驚愕と苦痛に満ちていた瞳が、光を失ったガラス玉に変わるまで、一秒もかからなかった。
一匹が、まだ微かに痙攣している男の腕を、根本からぶちりと引きちぎった。そして、それを自らの顎に運び、指先からゆっくりと咀嚼し始める。 ボキッ、ボキッとまるで硬い木の実でも砕くように、小気味よい音を立てて指の骨が砕かれていく。
人間の命が、ただの肉塊として消費されていく現実が、カイの胃を激しくかき回した。吐き気がこみ上げ、喉の奥で、苦いものがせり上がってくる。
周囲では、生き残った商人たちが恐怖のあまり正気を失いかけていた。
老婆はへたり込み、ただ震えながら意味不明な祈りの言葉を呟いていた。若い男は叫び声を上げながら逃げ惑い、石につまずいて転倒した。その恐怖は、まるで伝染病のように広がり、場の空気を重く淀ませていた。
ベルクトは、そんなカイの背中を軽く押し、戦場を顎で示しながら、まるで今日の天気でも話すかのように、静かに、しかし絶対的な命令として言った。
「ちょうどいい。カイ、あれを片付けろ」
ベルクトの声は、この地獄のような光景の中でも冷静そのものだった。まるで、路傍の石ころを片付けるように軽い口調で、彼はカイの背中を押した。その手は、温かく、そして容赦なかった。
「……何、言ってんだよ……」
声が震える。足が鉛のように重い、地面に縫い付けられたようだ。逃げ出したい。こんなもの、見たくなかった。 しかし、横転した馬車の陰で、老婆が幼い孫を必死に庇い、声を殺して震えているのが見えた。
ベルクトは助けないだろう。見ず知らずの他人の命より、弟子の成長の糧となるこの惨状を優先する男だ。最近、それが分かり始めてしまった自分が、カイはもどかしかった。
「ここで逃げたら、今までと変わらない……!」
自分に言い聞かせるように、言葉を絞り出す。恐怖を振り払う。恐怖を振り払うように、カイは長剣を鞘から引き抜いた。レナータが打った刀身が、血塗れの惨状を映して、鈍く、冷たい光を放った。




